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“無能の自覚”の重要性

雅無乱 [1]です。

4月17日(土)の日経新聞の夕刊記事に、内田樹氏のインタビュー記事が載っていました。気付きの多い文章があったので紹介します。

記事のタイトルは、『辺境人の勧め』

サブタイトルが“「雪かき」のような地味な仕事のモチベーションが高い組織は強い。

「企業や組織でも『黙って俺についてこい』という強力で有能なリーダーが待望されています。そういう『宗主国』のようなリーダーが不可欠なのですが、集団のパフォーマンスを上げるためには、いろいろなタイプの人材を有機的に組み合わせないといけない。頭が切れてロジカル(論理的)な人ばかり集めると組織は破綻します。

「総合力では劣っていても余人を持って代え難い得意技を持った人、身の程をわきまえて黙々と仕事に打ち込む人、人を立て周囲を奮い立たせる人。組織のメインストリートではない終焉で『雪かき』のような地道な仕事をいとわない人たちがいる。そんなモチベーションの高い組織は強い。」

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  画像は、http://www.rui.jp/shop/shop.html?i0=55 [2]より

成果主義個人の能力と達成を評価するものです。しかし実際にはそんなものを取り出して計測するのは不可能なのです。個人的な能力は高い。だが、その人がいるせいで集団のパフォーマンスが下がるという人間は『仕事ができない』人間なのです。

「身の程を知る、分際をわきまえるという言い方は今や死に瀕している。これは集団の中において自分の果たすべき役割を認識することです」

「『身の程知らず』の人間は、自分を大きく見せようとするあまり、無意識に周りの人間の仕事を妨害し始めます。『能力のある人間』たちが相対的な競争では勝者になっても、集団そのものの力は次第に衰えてゆく。それが日本の現状なんです。」

実際に仕事をしていると、本当にそうだな、と思える事例がたくさん浮かんでくる。

仕事というのは1人(個人)でできるものではない。そもそも対象(客)の期待に応えなければ「仕事」したことにはならないし、その中でも多くの人たちとの役割分担がなくては仕事など成立しない。特に、貧困の消滅以降、集団(組織)で社会の期待に応えていくことが企業に求められる時代になってきている。

そんな時代に、相変わらず組織内部の個人同士を競わせるような評価システムを採っている企業は、日本ではことごとく活力を失っているのが現実だ。「成果主義」の給与システムを取り入れた日本企業がことごとく失敗して、その導入を見直す事態に陥っている。

逆に社員同士の結束を強め、社員の活力を上げることに成功した企業が、今、ぐんぐん伸びていっている。

確かに、社員同士の結束を強める上で、いくら能力があっても周りを無視して個人プレーばかりする人材は、邪魔にしかならない。

そういう人は、「オレは有能だ」と思っているのかも知れないが、実際には己は実は「無能なのだ」と自覚する必要があるのかもしれない。

当ブログのあるエントリー [3]にも、こんな表現があった。

「無能の自覚」「エリートは無能」など、「無能」という言葉に触れる機会が多い今日この頃です。
なんとなく理解はできるのですが、「そうは言っても無能は言いすぎでは・・・」という感覚も少なからずありました。誰だって何かを遂行する能力はありますし、エリートなんかむしろ事務処理能力や世渡り能力に長けてます。
ただ、これは「できる、できない」の基準で有能と無能を区別していたから起こる勘違いでした。
今日社長が仰っていた無能と有能の違いとは、
『自分のことしか考えていないのが無能
みんなのことを考えて追求するのが有能』

確かに!!!
社会すなわち「みんな」の目線から見れば、例え何かを遂行する能力が高くても、それがみんなにとって役に立つものでなければ無能。むしろ、自我ばかり満たそうとするから周りにとっては有害。
改めて、みんなが有能だと認める存在がどういうものかよく分かりました。


まさに定義を塗り替えなくてはならない。

組織の中で身の程をわきまえ、無能の自覚とみんなへの感謝を持ちながら、地味な仕事でもがんばり続ける姿は、現実に周りを元気にし、組織を強くしてくれる。

今、企業には、旧い時代の「有能な」人材や「宗主国」的なリーダーなどではなく、そんな人材こそ求められているのではないだろうか。

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