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新聞の歴史とこれから④~日本人による日本語の新聞の誕生と発禁処分~

前回は、外国人居留地で作られていた英字新聞、そしてそれを日本語にした翻訳新聞の歴史についてお話ししました。
明治時代初期、新聞が作られる事によって、一般庶民が政治について知る機会が多く生まれていくことになりました。

今回は、海外の新聞を訳しただけの翻訳新聞ではない、日本人が作る日本語の新聞の変遷についてご紹介します。
日本の新聞がどう生まれ、それに対して政府がどう介入してきたのかについてひも解いていきたいと思います。

中外新聞 [1]

(写真はコチラ [2]からお借りしました)

以下は【日曜版】新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第3回 創刊するもすぐ発禁】 [3]からの引用です。

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■明治元年、日本初の新聞誕生
明治元年(1868)は、日本人による国内ニュースの報道する新聞が、全国各地で立ち上げられた年でした。それ以前は、海外ニュースを中心とした英字新聞あるいは英字新聞を翻訳した“翻訳新聞”で、150部ほどの小部数発行であったのに対し、日本語の新聞は1000部以上が3~5日おきに定期発行されました。

もっとも早く発行されたのは柳川春三による『中外新聞』で、明治元年2月に創刊しています。柳川春三は、外字新聞の翻訳を経験していたことから、新聞文化を輸入する必要性にいち早く気づいた人のひとりでした。外国事情の紹介とともに、国内ニュースの報道にも力を入れるという意味合いを込めて“中外”という名前をつけたと言われています。

『中外新聞』はまたたくまに1500部の部数を誇り、その成功は後に続く新聞の発行を促したことからも“日本近代新聞の祖”とみなされています。また、同年に旧幕臣・福地桜痴が発行した『江湖新聞』は、絵入り、総ふりがな付きで、漢字の読めない人々にも読まれるものを目指し、新聞の大衆化に先鞭をつけました。

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当時、翻訳新聞の発行部数に対して、日本語の新聞の発行部数は10倍近くを誇っていたようです。
このことから、いかに日本の政治に関心を寄せている人、情報を欲している人が多かったかが分かります。
しかし、政治の情報を伝える新聞のブームが広がると政府も野放しに出来なくなったようです。

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■創刊したばかりの新聞がすべて発禁処分に
新聞の創刊ブームは江戸(東京)に留まらず、英字新聞が作られていた横浜や長崎、そして政治経済の要所であった京阪神にも広がっていました。当時の新聞発行者たちは、旧幕臣など幕府を支持する者が多かったため、内容もまた明治の新政府を批判する傾向にありました。特に、福地桜痴の『江湖新聞』はその傾向が強く、激しい論調で薩長による藩閥政治を批判したため、新政府の怒りを買うことになります。

福地桜痴は国事犯として逮捕・投獄されてしまい、近代日本史上初めての筆禍事件となりました。同時に、新政府は官報に触書を載せ「近頃多種の新聞が発行され、すこぶる財利を貪り、大いに人心を狂惑同様せしめ候条、不埒の至り」として、以降は官許のない新聞の発行を一切禁止。すべての新聞の版木など印刷道具を没収してしまいます。これによって、生まれたばかりの新聞は壊滅状態になり、いったん世の中から姿を消すことになりました。

新聞紙印行条例 [4]

(写真はコチラ [5]からお借りしました)

■翌年、ふたたび息を吹き返す
政府が新聞の発行を禁じると、情報が正しく伝わらないことにより、いい加減なウワサが飛び交うようになりました。徳川幕府の支配が行き届き、社会に大きな変化が起きなかった江戸時代とは異なり、旧幕府派と新政府派が激しく対立し、諸外国との交渉に揺れる国内情勢にあって、世の中は「何が起きていて、どうなっていくのか」を知りたがり、それを抑えるだけの力は新政府にはありません。新政府は、江戸時代と同じように「お上に口出しするな」の一言で片付けられないことを認めざるを得ませんでした。

また、幕府と藩が解体された新しい日本は、新政府が全国を直接治めるようになったため、国民の一人ひとりに社会と政治を知らせる必要が生まれていました。そこで、新政府は翌年早々に『新聞紙印行条例』を発布し、政府の許可を得た新聞の発行を許可することになります。

『新聞印行条例』には、「新聞紙は人の智識を啓開するを目的とすべし」の一文に始まり、人々を文明開化させ見聞を広めさせること、政府の法律や災害ニュース、農工商業の動きや貨幣物価についてを正しく伝えるべきであること、平易な文章で伝えることなどが記され、「新聞紙は正史を作るとみなすべし」と定めています。

また、面白いことを書いて読者を喜ばせるのは良いけれども、わいせつな内容や怪しげな論説を掲載したり、匿名投書、政府に反する論説を書くことを禁じ、毎号8部ずつを政府に納めることを命じています。これは、事実上政府に都合の悪い言論を弾圧するものでもありました。この条例により、前年の発禁で途絶えていた『中外新聞』などいくつかの新聞が復活し、新しい新聞も創刊されましたが、その内容はいずれも政府の顔色をうかうものになってしまいました。

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新聞の影響力に危険を感じた政府は、新聞を力で押さえつけますが、民衆の「何が起きていて、どうなっていくのか」という情報欠乏までもを押さえつける事が出来ず、許可制で新聞の発行を認める事となりました。
そして、ついに新聞は全国展開を遂げていきます。

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■“新聞紙”に印刷した日刊新聞の登場
明治元年の新聞たちは、いずれも半紙に木版で印刷して束ねただけのものでしたが、明治4年(1871)年に創刊した『横浜毎日新聞』になってようやく今と同じような新聞紙に活字印刷した日刊新聞が登場しました。『横浜毎日新聞』は、広告と報道が半々で、編集の行き届かないものではありましたが、東京、大阪、兵庫、長崎に販売店を置き、全国展開を目指した初めての新聞でもありました。

横浜毎日新聞 [6]

(写真はコチラ [7]からお借りしました)

明治5年(1872)になると、かつて『江湖新聞』に関わった経験のある人たちが集まって『日報社』を立ち上げ、『東京日日新聞』を立ち上げています。はじめは和紙片面に木版刷りで、その後は活字に切り替えましたが、文章を表現するのに活字の数が間に合わなかったため、珍妙な文章を字合わせをするように解読しなければいけないこともあったようです。

しかし、『東京日日新聞』は『横浜もしほ草』を発行しており、すぐれた社会記者であった岸田吟香を主筆に、『江湖新聞』の福地桜痴を主筆兼社主に迎えたことにより、すぐれた記事で日本の新聞界のトップに躍り出るまでになります。ちなみに、『東京日日新聞』は、その後名前を変えて脈々と続き、現在の『毎日新聞』へと受け継がれています。

当時の新聞社は、今の大新聞社とは違って、少人数の有志が集まって作るベンチャーでした。今でも、「日本の新聞社の“社”は、会社の“社”ではなく、結社の“社”だ」と言われることがあるようですが、創成期の新聞社はあきらかに“結社”的なものだったようです。

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こうして新聞は政治を世に伝えようとして数名の有志たちにより紆余曲折を経ながらも、現代と同じような新聞の姿へとなっていきました。

次回は、新聞社が誕生したばかりの様子についてご紹介したいと思います。

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