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小学校は「刑務所に通わされてるようなもん」なのかどうか?

あけましておめでとうございます。とうとう新年が始まりましたicon_biggrin.gif

本ブログでも度々扱っていますが、昨年は脱学校、学校に行く必要はもはやないという意識潮流が顕在化してきました。
メディアでも、もはや学校は終わっているという類の事例やコメントが取り扱われるほど。
学校は刑務所と変わらないという発言も普通にメディアで流れています。数年前では考えられない。
昨年芽生えた潮流は、今年はさらに加速化しそうです。

メディアで様々な事案に本質を突いた発言を繰り返しているホリエモンの記事を紹介します。
以下、眼鏡文化史研究室 [1]より引用。
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日刊スポーツが「堀江氏、小学校は「刑務所通わされてるようなもん」 [2]」という記事をネット配信した(2019年5/10)。彼の価値観云々に対してではなく、このような言説を含めた状況全体について、思ったことがあるので、備忘録がてらコメントを残しておく。

まず「学校が刑務所のようなもの」という見解には、学問的なモトネタが存在する。ホリエモンのオリジナルではない。フーコー『監獄の誕生』(1975年)やイリッチ『脱学校の社会』 [3](1971年)等で、40年以上前から学問的に示されてきた見解だ。それらの著書では、学校と刑務所(さらには病院)を、単に比喩的な意味ではなく、人間性を強制的に作り替えるものとして、本質的に同じ作用を持つ権力装置として議論している。そこには「近代」という時代の本質に対する透徹した洞察が示されている。

そもそも昔は、人々の大半は学校に行っていなかった。平安時代や鎌倉時代には、99.99%の人間は学校に行かなくても、生活上なんの問題もなかった。ヨーロッパでも事情は同じだ。大半の人間は学校なんかに行かなくても、普通に暮らすことができた。
しかし現在は逆に99.99%の人間が学校に行く。学校に行かなくては普通の生活ができないと、多くの人が思っている。どうして昔は学校に行かなくても平気だったのに、現在は行く必要があるのか? 本当に学校に行かなくてはいけないのか? この疑問を突き詰めていくと、学校や教育のみならず、「近代」に対する洞察へと至ることとなる。

結論だけ言えば、「資本主義で歯車となる人間」を供給するためには、人々を学校にむりやり収容し、生活習慣を強制的に組み替え、工場労働に適合する習慣形成を行う必要があるのだ。たとえば工場が期待する優秀な労働者とは、無断欠勤しない、遅刻しない、上司の命令はどんなに理不尽でも聞く、密告するなどの習慣を身につけた人間だ。
そして人間は、学校に通わなかったら、こういう習慣を身につけない。家庭学習で頭が良くなるだけでは、ダメなのだ。あらゆる人間をむりやり学校に収容し、長年にわたって工場労働に適合するためのトレーニングを積ませる必要があるわけだ。

資本主義を発展させるためには、こういった「歯車」が大量に必要であった。そしてその期待に、学校はしっかり応えた。日本が資本主義国へと成長できたのは、学校教育制度が機能したおかげと言える。これが「近代」という時代の特徴だ。

しかし、いったん資本主義が成長しきって成熟段階に入ると、実はこういった「歯車」が必要なくなってくる。単純作業は機械やAIがやってくれるし、会社が必要とするのはイノベーションを起こせるような創造的な人間だ。どちらにしろ「歯車」の需要はなくなる。このあたりの事情は、宮台真司が90年代から「成熟した近代」という言葉で主張している。たしか上野千鶴子も同じような主張をしていた。というか、80年代後半から、だいたいみんなが「近代は終わった」という議論をしていた。

こうして「近代」が終わると、「歯車」を世の中に大量供給していた学校の必要度も下がってくる。人々から学校へ通うモチベーションが失われていく。学校に行く必要を感じなくなる人々が増えてくる。不登校が増える。佐藤学が「学びからの逃走」と呼んだ事態が広がっていく。
ホリエモンが記事内で主張していることは、90年代から既に議論し尽くされた話を、「分かりやすい極論」として示したもののように読める。

さて、議論として必要なのは、「学校は必要だ」とか「必要ない」という主観的な意見ではない。「近代という時代がどういう特徴を持った時代で、どうして学校は近代では有効に機能して、そして21世紀ではそのままで機能するのかしないのか?」という問いの立て方が重要なのだ。
私個人としては「学校は機能しなくなる」とまでは言いたくないが、「このままの学校では、遅かれ早かれ機能しなくなる」という危機感は共有すべきだと思っている。ホリエモンの発言は教育界に1ミリたりとも影響を与えないわけだが、しかしそのイロニーに込められているものから学校の危機を感じておくのは、無駄ではないと思う。

個人的には、ホリエモンとは誕生日が20日ほどしか違わない同年代で、同じ時期に駒場や本郷にいたことから、動向が気になる人物の一人ではあるのだった。

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