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始原人類の世界観から考える、近代科学のおかしさ

この間の実現塾 [1]の追求で、始原人類は、万物すべては動いており、そしてエネルギーを持っている。それゆえにつながり合って循環しあって、調和、バランスしあっているという世界観の中で生きていたと追求してきた。

現代人の思考や世界観とは全く違った価値観を持っている。
始原人類と現代人との間で、これだけの世界観の違いが生まれてきたということは驚き。
ただ一方で、始原人類の世界観に同化でき、そこにエネルギーを感じているということは大きな可能性。
現代人においても始原人類の世界観により深く同化していき、”循環””調和”を追求していく事は重要である。

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(画像はコチラ [3]からお借りしました)

現代人のこの世界観はどのようにして創られてきたのだろうか。
その理由の一つには、西洋からもたらされた近代観念による近代科学が挙げられる。
近代科学は古代ギリシャの哲学を出発とした経験科学を克服し、経験界の探求を特徴としてきた。

コトバンクより。「近代科学」とは [4]

16世紀半ばに始まった、ヨーロッパ近代の自然科学の諸体系の総称。経験科学は、古代ギリシャでは哲学と融合し、中世ヨーロッパでは神学に従属していたが、近代ヨーロッパではそれらを克服し、数学と実験による経験界の探求を特徴とするようになった。

克服したとはいえ、近代科学には古代ギリシャの哲学の思想、キリスト教の思想は多く残されていたと考えられる。

「世界大百科事典内の近代科学の言及」より

【哲学】より

世界的に拡大した西欧哲学の背景となり基盤となっている人間中心主義的世界観,人生観は,西欧を含めての世界の人類にとって好ましい面ばかりでなく,むしろそれを上まわる大きな不幸や災害をもたらすものであることが,20世紀にはしだいに明らかとなってきた。 近代西欧の哲学は,ギリシアのヒューマニズムとキリスト教とを手がかりとすることによって,呪術・迷信を追放し,人間を責任倫理の主体として形成し,〈近代科学〉を生み出した。そして19世紀にキリスト教の神を見失い,ギリシア的〈調和(ハルモニア)〉の感覚を見失ったのであった。

キリスト教の教えの一つに終末論というものがある。

始まりと終わりがはっきりと存在し、直線的な時間の中に存在するといった考え方であり、始原人類のすべては循環し関係しあっているという世界観や、輪廻転生といった価値観とは全く異なる考え方・価値観である。

近代科学を形作った西洋科学は、一定の目的・方法のもとで行った実験で同じ結果が得られればそれを事実とし、それを絶対的な真実であるように語り、普遍的事実として認めてきた。

西洋「科学」の基本論理~唯物論・因果律のみの野蛮な「科学」 [5]より引用

現代科学(西洋科学)の論理の構成は、物性の因果論が主であり、物性としてとらえられないもの(霊魂とか心とか感情など)や物性としての因果関係が掴めないもの(超能力とか転生輪廻とか悟りなど)に対しては科学の対象外としてキリスト教に委ねてしまう。

そこでキリスト教の範囲にないものは異教として排他され、非現代的・非近代的と言った言葉で片付けられてしまう。

実現塾でこの間追求してきた中で、始原人類は万物はつながりつながり合い、循環しているという世界観の中で生きてきた。
近代科学はそれとは全く別物の考え方価値観であり、ゆえに人類が本来持つ世界観や機能とのギャップを生み出し続けてきたということが考えられる。今一度、始原人類が捉えていた世界を追求することで、近代科学のおかしさに気づき、それをどう突破していく事ができるのかという可能性を見出して行けるのではないだろうか。

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