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先端企業の戦略(6)~革新のDNA:任天堂の流儀(自由な発想と挑戦)~

社会現象ともなった任天堂の「あつまれどうぶつの森(あつ森)」。大ヒット作の裏側には社員の自由な新しい発想を否定せず、失敗した人にもチャンスを与える京都の老舗企業ならではの懐の深さがあります。任天堂の「流行を追いかけず独自の流儀にこだわる姿勢」が大ヒット作を産み出しました。そして、これを支えてきたもの、これが「革新のDNA」を育む土壌になっています。
常に時代の変化の先端にあった京都には、「自分たちの生きる場は自分たちで作る」という精神が溢れています。その日本の古都で約120年前に創業した任天堂は、花札の製造販売を手掛ける工芸品メーカーから、世界を代表するエンターテイメント企業となりました。
任天堂の創業は1889年(明治22年)に遡ります。職人魂を持ち、商才にたけた山内房治郎が京都の地で花札を製造販売したことが始まりです。伝統を守りつつも、「よそとは違うこと」に挑戦していく姿勢こそがその原動力となっています。危機の度に、それを乗り越え、強く大きくなり続けた任天堂を動かす「任天堂の流儀」は、京都の「かるた屋」の精神から生まれ、進化発展したものです。

■400年続くカルタ屋の精神
任天堂の歴史を紐解く前に、かるたの歴史について触れておきます。かるた屋は長い歴史の中で、娯楽商売の旨みも厳しさも知っており、環境の変化に柔軟に対応することで、生きてきました。その最高傑作である花札をルーツとする任天堂も、400年以上続くかるた屋の精神を受け継いでいます。
16世紀後半ポルトガルから伝わった「かるた」は、江戸の鎖国政策による西洋娯楽の禁止や、「数票」の賭博との結びつきを理由に禁止されるなどの憂き目にあいながらも、「歌かるた」(百人一首)や教育用の「いろはかるた」などを産み出してきました。賭博に使われる「数票」は禁止されるため職人たちは知恵を絞り、数票でなく日本独自の四季折々の絵柄を組み合わせた「花かるた」(花札)を生み出していきます。1885年(明治18年)、花札の販売が解禁され、花札を始めとするカード類は再び人気の娯楽となり、全国に次々とかるた屋が開業されます。山内房治郎が店を構えたのもこの年(1889年)でした。

■任天堂の流儀
三代目社長山内溥氏は言います。
「我々の商売は、本来なくてもいいもの。目が覚めたら市場が消えているかもしれない」
「子供たちはゲームにすぐに飽きてしまう」
「ヒットは、はかない。ヒットしているうちに善後策を考えておかないと手痛い目に遇う」
そして、必要なのは、
①博打を打つ(新しいものを世に出す)ための独創性
「よそとは違うことをやれ」
は代々受け継がれた言葉。同じことをしていては生き残れない。
新しいものを産み出す「任天堂流雑談」。会話の行きつく先に正しさを求めない。重視するのは瞬発的なアイデアとリアルな体験。
②常に博打を打ち続けるチャレンジ精神
「運は天に任せて」
は、任天堂の社名の由来。任天堂三代目社長の山内溥が「人生一寸先は闇。運は天に任せて、与えられた仕事に全力で取り組む」と定義しています。また、「『運』を実力と過信するな」とも。
③枯れた技術の水平思考
最新技術で戦う必要はない、枯れた(陳腐化した)技術の転用や組み合わせといった柔軟な思考で戦え。
④勝ちを引く確率を上げる
勝ち負けに右往左往せず、「勝ち」も「負け」も次の博打に勝つための糧とする。
⇒任天堂は新製品を発売したら売れ行き動向が判明する前に「反省会」を開く。発売日という締め切りがある以上、100%満足な製品は完成しないからだ。「次回は満足できる内容でやろう」と考えを巡らせる。新たなアイデアは結果的に営業上では失敗しても次の製品につながる。
⑤博打の資金
博打で勝つには資金が必要。常に次の博打が打てるように準備する。
⇒任天堂の財務体質は強固で、2000年代以降は1兆円以上のキャッシュを保有し、無借金経営を貫いている。多額のキャッシュは、将来へのリスクに備えると同時に、パートナー企業に無茶を言っても取りっぱぐれないと思ってもらえる。安易な規模拡大やM&Aはせず、商品が売れたからといっても社内が華やぐでもない。 [1]

■任天堂の博打(失敗と成功)の歴史
任天堂は様々な勝ち負けにを次の博打のヒントとしてきた歴史があります。そこには、常に「任天堂の流儀」があります。
●かるた需要低迷
家庭用花札は需要が少なく売り上げが伸びない状況が続きました。⇒需要低迷から脱却するため、賭博場に自社のかるたを持ち込み売上が急増。プロの博打打ちは、イカサマ防止のため1組の花札を1回しか使用せず、勝負の度に新しいものをおろします。品質を重視する勝負師に対し、房治郎は品質に徹底的にこだわります。色むら、キズ、張りむらなどのない任天堂の高品質な花札は京都や大阪で人気商品となりました。
●かるた課税
1902年(明治35年)、明治政府はかるた類に大幅な課税をしました。任天堂だけでなく、活気にあふれていたかるた業界は一転して奈落の底に突き落とされます。
⇒競合が消える中、任天堂は輸入一辺倒だったトランプに目を付け日本で初めてとなるトランプの製造に着手。加えて房治郎は旧知の仲だった明治のたばこ王「村井吉兵衛」の協力を得ることに成功。村井が全国に持つたばこ屋の販売ルートを利用して、カード類の販路を大きく広げていきました。トランプ・花札は、たばことサイズが似ており、博打打ちが好むという点でも相性がよかったのです。

任天堂の歴史|任天堂アーカイブプロジェクト

20世紀初頭の日本で全国に流通網を持っていたのは、村井の「日本専売公社」(現・日本たばこ産業株式会社)と「富山の薬売り」くらいでした。「よそとは違うこと」をして、任天堂は日本最大のカードメーカーとして全国にその名が知れ渡るようになりました。その後も任天堂は、日本初のプラスチック製のトランプやディズニーキャラクターを使った「ディズニートランプ」と成功と躍進を続けます。
任天堂はこの後も「負け」を糧に次の「勝ち」を掴みとっていきます。
●異業種参入の失敗
「娯楽」以外の他業種に参入するも、ことごとく失敗⇒本業の「娯楽」に1本化
●オイルショック危機
業務用大型レジャー施設に先行投資するもオイルショックが原因で失敗。
⇒世界初の携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」世界的な大ヒット。アーケードゲーム事業に本格参入。アーケードゲームのキャラクター『マリオブラザーズ』や『ドンキーコング』の誕生。
●アタリ社の失敗
「カセット」を入れ替えるだけでさまざまなゲームを遊べた米国アタリ社のアタリVCSが他メーカーの低品質ソフト乱発で人気が急降下。
⇒ファミリーコンピューター(ファミコン)の開発と大ブレイク。任天堂からライセンスを供与されたソフトメーカーだけが、ファミコン向けのソフトを開発できるという管理体制を構築。『スーパーマリオブラザーズ』『ドラゴンクエスト』など、国民的な大ヒット作品が生まれ、ファミコンブームは日本中に拡大。
●ライバル(ソニー)出現の危機とニンテンドウ64の失敗
ソニーが「プレイステーション」でゲーム事業に参入。メディアに大容量のCD-ROMを採用したプレイステーションに、64ビットCPU搭載のカセット式「ニンテンドウ64」で対抗したがソフト開発に技術力と時間と資金のかかる「ニンテンドウ64」から『ドラクエ』『FF』などの大人気シリーズがプレイステーションに移籍。多くのユーザーやソフトメーカーが任天堂ハードから離脱。
⇒「ゲームキューブ」。開発者にやさしく、大容量かつ読み込み速度にも優れた小型の8センチ光ディスクを採用。
●ゲーム離れ
高性能ゲーム機の登場により、ゲームは格段に「進化」したが、それと同時にゲームが急速に重厚長大化・複雑化し、ゲームから離れてしまう人が続出。⇒「ニンテンドーDS」と「Wii」。CPUの計算能力やグラフィックの綺麗さなどの「進化」ではなく、タッチペンやWiiリモコンに象徴されるコントローラを進化
「僕らが最もすばらしいゲームをと頑張った結果、時間やエネルギーをゲームに割けない人たちが『もういいや』と静かに立ち去っていたのです。調べれば調べるほど、これは本当に深刻だと感じました。」4代目社長 岩田氏談
●スマートフォン普及
スマホの普及により、DS/Wiiブームは終焉。投入した裸眼での3D画像を実現した3DSも失敗。
⇒ニンテンドウスウィッチの開発と大ヒット

■任天堂の今と未来ビジョン
ゲームのハード・ソフトの両方でトップを走る唯一無二のゲーム会社である任天堂ですが、今後は幅広い年齢層に受け入れられる強力な自社IPを武器としてさらなるファンの拡大と,ゲーム事業一本足打法からの脱却を目指しています。これまで基本戦略として掲げられてきた「ゲーム人口の拡大」からさらに踏み込み「任天堂IP(知的財産)に触れる人口を拡大する」と表明しています。
娯楽産業は、独創的なソフトを生み出す「ソフト体質」が優先される世界です。京都という町でこれまで培われてきた任天堂の流儀は代々受け継がれていきます。

 

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