- これからは探求の時代 - http://bbs.kyoudoutai.net/blog -

地方紙の研究 ~河北新報編①~引き継がれる土着の心

前回のプロローグ [1]に続いて、今回から「地方紙の研究」(潮出版社)を引用して、普段馴染みの薄い私たちにも分かる地方紙の熱い歴史と特徴を取り上げてみましょう。河北新報は宮城県仙台市に本社のある河北新報社の発行する日刊紙で、発行部数は朝刊で約45万部と言われています。記事そのものは1998年のものですが、地元の人たちも実は内容については初耳の部分もあるかもしれません。それでは宮城県のみなさんも是非どうぞ。

「白河以北一山百文」
 明治政府の東北に対する「一山百文」扱いは、“負ければ賊軍”の仕打ちでもあった。その差別をバネに、不羈(ふき)独立と東北振興を目指した悲願が『河北新報』の題字に深くにじんでいる。
 東北はエミシ、エゾの地である。蝦夷がアイヌと同義であるか、それとももっと広範な北方住民を指していうのか、学説は分かれている。異民族としてのアイヌも含めた「大和朝廷にまつろわぬもの」との説が強くなっているようだが、中央政府のエゾ征伐は、東北人にとっての忘れがたい屈辱の史実である。『河北新報』創刊の気運には、平定された蝦夷の復権の意思がこめられていた。
(中略)
 岩手出身の原敬が雅号を「一山」としたのも、東北人の憤怒の表れのようだ。かつて帝国議会で、盛岡から三陸海岸を走って釜石に到達する「山田線」の敷設が論議されたとき、原敬は「そんな山奥に鉄道を敷いて、総理は山ザルでも乗せる気ですか」と絡まれた、と伝えられている。(「地方紙の研究」より)


「白河」とは今でいう福島県白河市のことで、「百文」は今でいうと約1800円だそうです。つまり福島県白河市から北の土地価格は、「ほとんど価値のない荒地」に等しい、という侮辱的な表現なのです。「坂上田村麻呂による蝦夷征伐」は私が中学校時代の教科書で普通に習っていました。まさに“歴史”とは、常に勝ち組目線なのです。

『河北新報』は、山ザル論議の23年前、1897(明治30)年に仙台の財界人、一力健治郎の手によって創刊された。健治郎33歳だった。書店経営から地元の実業界に進み、仙台電灯取締役、宮城貯蓄殖林社長、仙台米穀取引所理事などを務め、宮城県議でもあった。
このころ。県内には『奥羽日日』と『東北日報』、それに『東北新報』と鼎立していた。このうち。改進党系の『東北日報』が経営難に陥っていた。知人に依頼されて健治郎がその経営を引き受け、『河北新報』と改題した。この動きに対して議会控室で、ある県議がメモを書いて健治郎によこした。眼を移すと
「県会議員の一力が 新聞買って紙刷って すってすってスッテンテンテン」
と戯れ歌が書かれていた。それからしばらくして、件の議員と会ったとき、健治郎は返歌をシタタメテ手渡した。
「県会議員の一力が 新聞買って紙刷って すってすって百万枚」
豪気である。それから百年、今『河北新報』の発行部数は50万部。スッテンテンにはならなかったが、創業者の目標にあと50万足りない。それでも創刊当時は5000部だったから、部数を千倍に伸ばしたことになる。(「地方紙の研究」より)

[2] 一力健治郎氏

朝日、読売、毎日の全国紙と、地元に根強い各県の県紙の間に挟まれながら苦闘を続けているのは、藩閥政治に苦渋を嘗めた東北の奮起と振興が、創刊以来の社是であるからだ。創刊号に掲載された社説には、こう書かれている。一力健治郎が執筆した。
「主義の為に一身を犠牲に供したるは、河北の傑士高野長英にあらずや、大儀九鼎よりも重く、成敗利鈍を顧みず、孤軍天下の大兵を抗戦しうるは、30年前の河北武士にあらずや」(河北新報の百年)
あるいはそれは河北武士のことばかりではなく、「征夷大将軍」坂上田村麿を迎え撃った、蝦夷の総帥・アテルイのプライドをも引き受けたもののように私には思える。(「地方紙の研究」より)

当時東北学院文化教師であった島崎藤村は創刊のお祝いの言葉として
「第一の自然をけがしてはならない。そして詩や歌は第二の自然だ。私は、東北の読者の為に、新聞は心を癒し、心を豊かにする第三の自然になるべきだと思う。その為に、新聞社、記者の仕事が大事で、きっと読者に役立つ新聞として成功するだろう。」 と述べています。
第一が人を取り巻く自然環境で、共認充足を表現する詩や歌を第二の自然としたら、新聞がなるべき第三の自然とは一体何だろう?
「社会を映す鏡」と言われる新聞は、特に社会規範を浮き彫りにすることが私は重要なのだと考えます。
それは中央から通達される、受け売りの規範ではなく、もっと大地深く生やした根に支えられた土着の規範。それがアルテイから引き継がれた河北の想いなのです。

[3] [4] [5]