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凡人を最強兵力へと変える仕組みづくり ナポレオン・ボナパルト「革命戦争」

今回は「余の辞書に不可能の文字はない」で有名なナポレオン・ボナパルトを取り上げます。 「孫子」 [1]「アレクサンダー大王」 [2]「マーレー」 [3]に続き、「戦略の教室」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)を参考にして展開します。

イタリアからの移民の子であったナポレオンが、一気に皇帝まで上り詰めたきっかけは、フランス革命戦争でした。
1789年のフランス革命によって、それまでの「聖職者」「貴族」「平民」という3階級による身分制度を打ち崩したフランスに対して、身分制度を保持したいイギリス、オーストリアなどの列強諸国は、革命の影響を恐れてフランスに干渉。
1792年4月、フランス革命政府は、耐えきれずオーストリアに宣戦布告。これがフランス革命戦争の始まりです。
待ってましたとばかりに欧州各国は、対仏大同盟を結成し対抗します。自ら宣戦布告したフランス革命政府でしたが、当初から負け続けます。将軍・士官だった貴族が革命で海外に亡命して、指揮や統率が混乱していたからです。

そこに登場したのが、ナポレオン・ボナパルトでした。

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ナポレオンが欧州を席巻した原動力は大きく3つありました。

1.フランス革命で高まった国民の「当事者意識」
2.大軍を出現させた「国民徴兵制」の導入
3.「師団」制度、さらに改善した「軍団」制度の遠征力と機動力

1.フランス革命で高まった国民の「当事者意識」
既存の序列制度が解体され身分下位の者にも私権獲得の可能性が開かれたことで、国民の活力は上昇。それに加えて他国軍の侵入によりフランス国民の危機意識が一気に上昇。これで国民の当事者意識が大きく高まったのです。実際に義勇軍が次々と立ち上がり前線に向かったそうです。

2.大軍を出現させた「国民徴兵制」の導入
多くの王政国家からの宣戦布告で、窮地に陥ったフランスは、1793年8月に「国家総動員」を発令→国民徴兵制により、新たに120万人の兵士を結集させます。傭兵が軍の主力だった他国に比べて、愛国心に満ちた国民軍が前線の兵力として威力を発揮していきます。
最終的にナポレオンを破ったプロイセン王国のクラウゼヴィッツ(軍人・軍事学者)は「王族による戦争は傭兵を使う半ば八百長試合だったが、ナポレオンはフランスのために命をかける兵士を育て、敵を殲滅するまで戦う戦争に変えた」と評しました。

3.「師団」制度、さらに改善した「軍団」制度の遠征力と機動力
大兵団を機能的に動かすために、個別に独立作戦行動を可能にする師団制度を構築します。これは夫々の「師団」が自己完結型で作戦・補給を展開する制度で、巨大な兵力で多数の敵国と戦うために不可欠な組織管理体制でした。さらに軍の規模が20万人を超えた時から「師団」を複数にまとめて「軍団」としました。例えば11個師団を4つの軍団にするなど、複数の師団で進軍し、一つの師団が敵に遭遇した場合、各個に反撃して敵を食い止め、その間にナポレオンの指揮で他の師団が、足止めした敵の側面か背後を衝くなど。複数師団を機動的に活用する戦術で各国軍を撃破したのです。

師団制度はビジネスの「事業部制」に似ています。一つの製品、一つの顧客に絞って独立採算制をとっている点も、補給部隊まで個別に持つ師団に類似します。 軍団は複数の師団がグループ化されたものなので、いくつかの事業部をまとめて関連会社化した、と考えると分かりやすいでしょう。

200年前の戦争の歴史は、現代ビジネス組織の運営に役立てる点があります。危機的状況においても、リーダーの効果的な目標設定によって社員の当事者意識からモチベーションを極限まで高め、団結力や各チームの素早い連携から機動的な取り組みにつながる仕組みをつくることで、逆境に負けない強大な組織を生み出せると歴史は教えてくれています。

※余談ですが、ナポレオンには「最大の危機は勝利の瞬間にある」など有名な語録を残していますが、その中に「私は百万の銃剣よりも、三枚の新聞紙をもっと恐れる」というのがあります。マスコミの怖さは既にこの時代から存在していたようです。

 

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