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2008年01月28日

どうなる日本?②~日本人は権威に盲従する無表情なロボット~


みなさん、こんにちわ
会社の席周りぐるりと風邪っ引き で、
チェックメイト感 😥 を否めないみっちーです
さて前回のはっしーさんの投稿にあった
『どうなる日本?① ~金貸しにとっての理想の社会~』
●日本の未来を憂う前に、敵の正体を知り、その意図を把握する必要がある
彼らに対抗するためにも、先ずは彼らが行った日本や日本人研究の中身に同化して、これまでの対日戦略の背景を探る必要があるのではないか。一体、彼らはどこまで日本人の本源性や最新の意識潮流を理解しているのだろう。

この敵の日本人分析の内容を明らかにすることが、非常に有効だと思いました。
戦後の日本人分析で大きな役割を果たした一人として、
親日家で有名なライシャワー米大使の名がよく耳にします。
今回はこのライシャワー氏が日本人のどんな情報を掴み、
またどのように分析していたのか?追求していきたいと思います

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ライシャワー氏について、
大変参考になる記事がありましたので以下引用します。

引用サイト:阿修羅ブログ
「親日家」ライシャワー本当の顔(山本武利 『文藝春秋』2003年11月)

ライシャワーは一九六〇年代前半、つまり彼らの親の世代が中学生だった頃の駐日アメリカ大使である。私は、そのライシャワーの〝大学人らしからぬ能力〟を示す二つの資料群を、アメリカ国立公文書館で発見した。そこには、日本の大衆があれだけ彼を歓迎したのとは裏腹に、日本の大衆を徹底して蔑視した、ライシャワーの冷徹な外交官としての素顔を見ることができる。
■ハル・ブームの到来  
 ライシャワーが日本であれだけ歓迎された背景は、彼がBIJ(Born In Japan=日本生まれのアメリカ人)であることと、彼の妻(ハル)が日本人だったことがある。ハル・ブームは、安保改定過程でささくれだっていた日本の対米世論を和らげるのに役立ったのだ。そして一般家庭に普及しはじめたテレビに登場する大使夫妻の言動がいっそうライシャワーの知名度を高めた。
 当時の日本はようやく高度成長期に入ったばかりの頃で、将来への自信は、まだ指導者にもなかった。それよりもアメリカに政治も経済も支えてもらっているという敗戦国の従属、劣等感のほうが根強かった。日本はアメリカの指導者や学者の注目を浴びる国ではない、と勝手に自己を卑下していたのである。
 ところが、日本文化や歴史を専攻し、日本生まれで、日本人妻を持つ一流大学教授が大使に任命されたことで、日本もアメリカに大事にされる国になったのではないかとの自信がいくらかわいてきた。指導者、大衆双方で、これを機に、いっそうの援助をアメリカから得られるのではないかとの甘えが生まれた。
 それがライシャワー人気の背景だった。さらに人気を定着させるハプニングが起こった。1964年3月24日に彼は精神障害の少年に大使館玄関口で包丁で刺され、大腿骨に達する重傷を負った。近くの虎の門病院で緊急の手術と輸血がなされ、一命をとりとめた。その際に彼が病床から出したコメントが日本人の琴線に強く触れた。
 各紙はそれを大きく報じたが、『毎日新聞』3月25日付け夕刊の見出しは卓越していた。“日本人にもらった輸血、これで、つながりが――ライシャワー大使、暖かい微笑”と。
 ライシャワーは、この時の輸血が原因で血清肝炎にかかり、それが慢性化して90年に死去するが、日本での医療を非難することはなかった。それがライシャワーの大衆人気を決定付ける。こうして作られた〝ライシャワー神話〟は、今日まで続くことになる。
■情報将校としての戦時の活躍
 そして翌四二年、陸軍省の要請で、ワシントン郊外において暗号解読と翻訳のための暗号要員学校の組織と運営にあたる。その後いったんハーバードに帰るが、四三年九月から陸軍諜報部(G2)のスペシャル・ブランチに所属し、連絡将校として活躍。そのときの地位は少佐だった。
 ブランチの首脳部は、解読した日本語暗号を素早く選別するかれの仕事ぶりに注目し、最優先で部下を選ぶ権利を与えた。かれは自ら育てた暗号将校に指示し、日本軍や政府の暗号文書で、アメリカ側が傍受した重要文書の解読を指揮した。
 「日本陸軍の一般暗号を解読しかけていたとき、思わぬ幸運が舞い込んだ。1944年1月、ニューギニア北岸を進んでいた米軍が、日本軍の暗号簿をそっくり手に入れたのである。解読の苦労は、一挙になくなった。以後は解読機械が滝のように情報を吐き出し、私たちは宝の山に埋もれそうになった」
 「戦争末期の1年半ほどの私の仕事ほど面白いものは、あの大戦中にも例が少ないだろう。日本陸軍やその配置に関する情報は、すべて私の手を通り、外交電報もほとんどを見た私は、日本の立場から戦争全体を眺めることができた」(以上、『自伝』)
 彼は戦時中、自分が生まれ育ち、人も風物も愛している国を相手に戦っていたが、日系二世が感じたような、アメリカと日本の「二つの祖国」という葛藤や精神的苦悩を感じなかったようだ。それどころか軍国主義退治のために、アメリカの勝利のためにベストをつくす点で、なんら迷いはなかったという。
 日本語や日本の歴史に通じた情報将校として、彼は、日本軍の暗号解読、情報分析で輝かしい実績を残した。この功績で、彼は陸軍から勲功章を与えられたほどである。
■日本人大衆への蔑視
 戦後、とくに大使就任後の彼の言動には、戦時の提言に見られた大衆蔑視を露骨に示すものが見当たらない。彼は数多い日本人論の中で、大衆を論じることは少なくなかったが、大衆を馬鹿にした表現は慎重に回避している。たとえば、「日本人は権威に盲従し、無表情なロボットのような社会的同調性の強い民族である」と再三指摘しているが、提言にあるような露骨な表現はない。責任ある著名人の彼は大使就任以降ホンネを吐かなかったのである。
 しかし大使時代、野党や労働組合指導者とは会っているが、一般庶民と会合することは稀であった。会おうという姿勢があれば、大使館でもホテルでもどこでも面会可能であったはずである。会わなかったのは、会う必要を感じなかったからだろう。つまり大衆は指導者に支配された「従順な羊」という見方が依然として彼のなかにあったわけである。
 しかも、戦前になかったテレビが急速に普及し、夫妻の一挙手一投足を捉え、彼の意図に沿った報道をしてくれていた。大使時代、大衆は戦前の日本指導者以上に御しやすいとの考えが強まったと思われる。
■マスコミの利用と攻撃
 さらに戦中の彼の提言に、「日本のマスコミは指導者のきびしい検閲を受けて、大衆操作に使われている」との指摘がある。つまりマスコミと大衆を同列に置いている。記者も受け手も大衆も社会的同調性が強く、指導者に従順と見ていた。しかも、彼はポピュリストとしての立ち居振る舞いを見事に演じられるタレントであった。「歌えと命じられたので口を開くと、不思議や声は滑らかに出て聴衆は歓呼した」(『自伝』)。 ライシャワーはマスコミを通じてアメリカの政策、方針を大衆に伝播し、彼らの操縦に成功した。
 ライシャワーは、自らの人気の余勢を駆って、一九六五年十月五日、大阪での記者会見で、毎日新聞の大森実外信部長のベトナム報道を名指しで批判した。この記者会見は、センセーショナルに各マスコミに報道された。しかし新聞の編集権に対する外国大使の介入と猛然と批判するメディアは現れなかった。それどころか肝心の毎日新聞社の主筆がライシャワーを訪ねて謝罪をした後、友好的な関係を続けるように要請したと、『自伝』は記している。
 ライシャワーの攻撃から記者を守るべき同紙幹部が、ライシャワーの平身低頭したわけである。その幹部はライシャワーの意向を忖度し、大森処分を決断したと思われる。大森は社内で窓際に追いやられ、結局翌年退社せざるを得なくなった。毎日新聞社はアメリカ大使という権力に屈服すること、同社へのマスコミ他社の声援がないこと、そして権威に弱い大衆はアメリカ大使を支持することを見抜いた上での打算的攻撃だった。これは、彼の戦時からの日本大衆やマスコミ観の実践であった。
結局、ライシャワーは、日本の大衆が彼に感じていたような、無制限な親日家ではなく、冷徹な外交官であり、大衆に対してはかなり厳しい蔑視感情を持っていたのである。

つまりライシャワーについて簡単にまとめると、
日本生まれであり、また妻が日本人であることで人気を獲得する。
表では美談などで親日家で通っていたが、実態は日本人大衆蔑視の持ち主であった。
祖国アメリカのために自らの人気を最大限に利用し、マスコミを操り徹底的に日本人を情報操作した。
その情報操作戦略は、冷徹なまでの彼の分析能力と、諜報部時代に日本の機密情報を掌握したことが大きな成功要因となっている。

『日本人は権威に盲従し、無表情なロボットのような社会的同調性の強い民族である』
という彼の分析を基にした情報戦略は、見事なまでに戦後の日本支配に大きな役割を果たした。
しかし、『大衆は指導者に支配された「従順な羊」』とみなし、
大衆分析を怠ったことは、実は大きな穴なのではないか?と考えられそうだ!!

 

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