☆ランキング☆
にほんブログ村 経営ブログへ

最新記事一覧

最新コメント

最新トラックバック

2023年05月13日

『生き続く企業とは?』~社会期待を見失った50年。これからの社会期待とは?~

生き続く企業の一つの実現態として、住友の事業継承と拡大の歴史を辿ってきた私たちですが、前回の記事では、永く拡大していく企業の真髄が「戦略的人脈ネットワークの構築」にあることに行きつきました。そして、同時にその根底には、徹底した「現実直視」があることも見えてきました。私たちが住友に学ぶべき点は、ここにあるのです。

しかし、住友が企業として存続・拡大してきた時代は、貧困の圧力⇒誰もが私権獲得に収束する私権のパラダイムの中にありました。私権のパラダイムにおける現実とは、私権闘争に勝って生き残ることであり、自集団の存続・拡大が第一義の課題でした。

それでは、住友をはじめとする私権時代の企業は、社会期待・社会課題に応えていなかったのでしょうか?

■どんな時代にも社会期待がある
明治以降の日本は、欧米からの侵略圧力に常に晒されるようになります。植民地化を防ぐために、富国強兵を進めて外国との戦争に勝つことが社会期待であり、自集団の利益獲得が第一に見える財閥企業であっても、そこに応えてきたからこそ存続・拡大が実現できたのです。

画像は世界の歴史マップからお借りしました

時代を遡ると、略奪闘争が始まるまでの始原人類(日本であれば縄文時代まで)は、圧倒的な自然外圧に晒され、仲間からの生存期待と充足期待が集団みんなの期待でした。

略奪闘争が始まって以降の時代(日本であれば弥生時代以降)は、略奪闘争に負ければ集団全体が滅び、生き残った者も子孫に至るまで奴隷身分に固定されてしまいます。一方の勝者の側も、いつ裏切られて敗者になるとも限らず、社会全体に生存期待・救い期待が満ちていました。それに応えるには私権闘争に勝たなければなりませんでした。

戦後の日本は、国土全体が焦土と化し飢えの圧力に苛まれて、国民全体に豊かさ期待が満ちていました。誰もが物的豊かさを求めていたからこそ、企業はそれまでの旧い枠組みにとらわれず攻めに徹することができ、豊かさを実現することが出来たのです。

時代によって「社会」の範囲が異なっていても、それぞれの時代の外圧に応じた社会期待が必ず存在し、それに応える活力を基盤として、集団・企業が存続・拡大してきたのです。

■社会期待を見失った 50 年。これからの社会期待とは?
しかし、日本が豊かさを実現した1970年以降、貧困の圧力が消滅。すると、国家も企業も社会期待を見失って、向かうべき先を見い出すことができなくなり、社会全体が活力を衰弱させていきます。

どんな時代にも、その時々の外圧によって規定される社会期待が存在します。ここ50年間、国家も企業も社会期待を見失っていたのは、外圧を捉えそこなっていたから。外圧を的確に捉えることさえできれば社会期待を掴むことは可能です。では、現代の社会期待とは何なのでしょうか?

画像は0fjd125gk87によるPixabayからお借りしました

現代には人工物質による環境破壊、肉体破壊、精神破壊などの解決するべき問題が山積みですが、これらは観念でしか認識できない領域のものばかりです。したがって、「社会ってどうなっているの?」「地球ってどうなっているの?」といった事実を構造化し、社会課題を明確に捉えるための事実認識が不可欠になります。

こうした社会期待・社会課題に単独の集団で応え切ることはできません。これからの企業が向かうべきは、対象世界を広げて社会期待を見い出し、社会課題に応える仕組みを自らつくり出すこと、つまりは共創・共動の場をつくり、広げていくことにあるのです。

そして、徹底した「現実直視」に基づく事実認識を塗り重ね、既存の枠を超えた新しいネットワークづくりの中核となる企業こそが、社会の期待を実現し、これからも生き続く企業となっていくのです。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "『生き続く企業とは?』~社会期待を見失った50年。これからの社会期待とは?~"

List   

2023年04月30日

「学びの行方」~与えられた枠の住人でいたいのか?自ら考え新たな仕組みをつくり続ける存在になりたいか?

「学びの行方」~与えられた枠の住人でいたいのか?自ら考え新たな仕組みをつくり続ける存在になりたいか?

前回の記事では、子どもたちの「学ぶ意味」を再生するためには、大人が「働く意味」を再生することが必要だとだということが見えてきました。※①
今回は、大人が「働く意味」を見失ってしまったのはなぜか?「働く意味」を再生していくためにどうする?を探っていきたいと思います。

◇「職場がゆるくて辞めたくなる」若者たち
ここ数年、働き方改革関連法、パワハラ防止などの制定に加え採用難の状況も相まって、労働時間をなるべく縮減し、ハラスメント研修を管理職層に実施、柔軟な働き方を認める方向へ舵を切る企業が増えていきました。※②

これらは一見、職場環境の改善とも見えますが、それは皮肉にも、実際に入社した若手社員の意識に「職場がゆるくて辞めたくなる」というギャップを生み出しています。※③

学校制度や試験制度など、答えありきの世界にどっぷりつかってきた学生時代を生きた若者たち。
そんな若者たちでさえ、いざ社会に出たら「緩い」と感じてしまう。この感覚はどこから来るものでしょうか?

◇若者たちが抱く欠乏。古い枠組みに翻弄する企業

学生時代彼らが生きてきた空間は、放っておけばいずれ崩壊してしまうこの状態から、なんとかして秩序を保とうと、学校は校則や点数で全てを評価する試験制度などに頼ることになります。そのため、旧い私権の強制圧力は強烈に働いているといえますが、「現実の圧力」という意味では、無圧力。

歪に囲まれたこの狭い世界で生きていく中で、次第に「こんな圧力下から早く脱出したい!」「広い世界に飛び出したい!多様な世界、多様な人々、それがどうなっているのかを知りたい!」という、解放欠乏を抱くように。そんな学生たちにとって、就職は、ようやく開かれた広い社会に出れる!新らたな世界を知れる!という希望でもあります。

いざ社会に出ると、狭い枠の中で、答えありきの世界で生きてきた思考では、現実の圧力には適応しきれないことを目の当たりにします。根本能力がないことに不安を感じた多くの若者は、目先的に資格や自身のスキルアップなどに向かい、自身に圧力をかけようとするものの、本来求められる力はそこでは得られないため悪循環を生み出しています。

一方で企業はというと、激変する社会状況の中で生き残りを懸けた厳しい圧力下にありながら、働き方改革関連法、パワハラ防止の制定などにより、社員への圧力はかけられないという矛盾が生まれています。

この、別の意味での無圧力状態は、決められた枠組みの中で生きざるを得なかった若者たちが抱く欠乏と、旧いままの枠組みを用意することしかできない企業との狭間でギャップを生み出すことになります。

ここが、強制圧力を受けてきた学生からすると、「緩い」と感じてしまう理由ではないでしょうか。

◇「枠」を超えて、社会課題に応えることが、子どもたちの「学ぶ意味」を再生させる
学校における試験制度にしても、企業の働き方改革関連法、パワハラ防止の制定にしても、これらの枠組みをつくったのは国=お上でしかありません。結局、私たちはどこまでいっても、その「与えられた」枠の中でしかおらず、そんな枠組みに強制的に従わせられ、若者も、企業も、「働く意味」を見失しない、活力衰弱に陥っています。

しかし、「現実」を生きていると、「枠」なんてないことに気が付きます。
現実はどこまでもシームレスで、拡がりがある世界。そこでは自由だし、本当は自分たちで変えていっていいもの。その現実の中でなら、自らが、新たな仕組みを、どうにだってつくっていける。未知な分、怖さもあるけれど、その中に面白さも見出していけるはずなのです。

1970年頃を境に豊かさを実現してからもなお市場拡大を推し量った結果、現在、環境問題一つとってもだれもが見過ごせない、深刻な社会問題となっています。
そんな状況下ともあり、人々の意識も、自分の、あるいは自集団のみの利益追求のために働く、といったところから、「SDGs」などを例とした、社会課題に社会全体で取り組んでいく方向へと変化しています。
今やそれらの流れは企業において、社会課題を起点としないと事業化できないところまできており、同時にそこで働く人々の意識も自分たちの利益のためだけでは誰の活力にもつながらず、どれだけ社会の役に立てるか?というところが働く側の活力、企業の活力につながる時代へと変化してきています。※④

それらの社会的な課題は、今や一企業だけでは応えきれるものではなく、枠を超えて、色んな力が終結して初めて実現の可能性を拓いていけるもの。

こうした現実を直視し、応え続ける企業が増えていくこと、そして今後は、そのような志をもった集団が集まり企業間で生み出される「共創関係」の拡がりが、若者たちの「働く意味」の再生となり、それが子供たちに、本来の「学ぶ意味」を見出すことにつながっていくのではないでしょうか。

私たちがこのシリーズで導き出した「学びの行方」は、ここに行き着きました。

最後に、次代を担う、子どもたち、若者たちにエールを。

「与えられた枠の住人でいるのか?自ら考え新たな仕組みをつくり続ける存在になるのか?
活力を失い、充足しないのは人のせいじゃない。与えられるのを待ってるから活力がなくなっていくんだ。自らつくっていける!つくっていこう!! 」

(参考)
※①:『学びの行方』~「働く意味」があって「学ぶ意味」が生じる~
※②: 【新しい言葉】「SDGs」は人類一丸となった追求時代の幕開け?
※③:大手企業の新入社員が直面する職場環境を科学する
※④:職場が「ゆる」くて、辞めたくなる

 

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "「学びの行方」~与えられた枠の住人でいたいのか?自ら考え新たな仕組みをつくり続ける存在になりたいか?"

List   

2023年04月29日

江戸時代の教育像に迫る! ~江戸時代の学びの活力源って何?~

前回のブログの中で寺子屋について紹介しましたが、今回は藩校や私塾を取り上げます。それぞれの学び場にはどんな人が集まり、何を学んでいたのか。それら3つの関係性はどういうものだったのかについて迫りたいと思います!

(上の写真はこちらのブログからお借りしました)

■藩校について

藩校は”お国(藩)を治める”を軸に、城内で藩主の子供や城に登城できる武士の子弟や有力な庄屋の子など、身分が高い家の子供たちが儒学(主に朱子学)を学んでいた。

そんな藩校が増えたきっかけは、江戸時代が文治政治であったからであるといえる。

江戸時代以前の日本は武力で国を支配するいわゆる戦国時代。それから豊臣秀吉が天下を統一し、秀吉の死後に徳川家の幕藩体制となった。

これを機に世の中は平和になったことで、武力で支配する時代が終わり、政治や学問(朱子学)で「お国を治める」時代へと変わった。

それにより各藩で学問が必要とされたため、幼少期から自身の「お国を治める政治力」(=統治力)をつけるために学び始めた。

(「ペリー提督日本遠征記」より。横浜開港資料館蔵

■私塾の教育内容について

私塾は、寺子屋で儒学や読み書きそろばんをすでに学び終えた、言語能力や追求力を備えた15歳以上の人たちが通っていた。彼らは、日本という共同体の枠を超える異国からの外圧を捉え、学んでいた。

私塾の教育内容には大まかに2種類があったという。

一つは漢学塾。16世紀から普及し、儒学(朱子学、陽明学)を中心に学んでいた。

もう一つは洋学、蘭学塾。18世紀後半から普及し、オランダから得た医学や語学、軍事技術、土木などの知識を学んでいた。

(当時外交していた西洋国はオランダのみだったため、オランダを通じて知識が普及した。)

ここで注目したいポイントは、漢学塾は16世紀から19世紀に普及しているが、18世紀後半から19世紀にかけては蘭学塾は爆発的に増加している点。

(★これだけ蘭学が普及しはじめた当時の外圧はどんな状態だったのか? 当時の状況や人々の心情、欠乏はどうだったのだろうか?)

■世界情勢と西洋諸国からの外圧

18世紀後半の世界情勢と、日本国内の「外圧」や「国内の状況」を考えてみると、当時の日本に対する大きな外圧は3つあったといえる。(※ここでいう外圧とは、「外国からの圧力」という意味だけではない。人が感じる“圧力”、それらの総称といったもの。)

〈自然外圧〉

当時は世界的に寒冷期で、その影響もあって日本でも3大飢饉が起き、噴火が多発したり大地震がおきたりと災害が多かった。

〈西洋諸国の世界への侵略〉

日本は中国が1番栄えていて強いイメージを持っていたが、イギリスがアヘン戦争で中国に勝つなど、西洋が世界中に植民地を増やしていた。西洋諸国の台頭。

特に日本には、ペリーの黒船やロシア船、イギリス船らが来航していた。この時、蒸気船など科学技術の進歩を目の当たりにし、「戦争をすれば負けるのでは……」という意識になった。

〈世界市場〉

西洋諸国が世界へ侵略し、侵略した場所に拠点(市場)を作り、金や特産物を求めて貿易を行い、為替でも儲け始めて世界に市場を拡大していた。(例えばアヘン戦争のように、アヘンを売り、中毒者を出して、その国を内部から崩壊させて植民地にしようとする侵略行為とも繋がっていた。)

以上の外圧は、藩だけではどうしようもできないレベルのものだった。だからこそ、当時の人たちはこの外圧を感じ、西洋諸国を対象化しようとした。

中でも、下級武士は危機感を覚えて「どうにかしないといけない」という欠乏から私塾に入った。西洋の事を知るためにまずは語学、つまりオランダ語を学び始めたのだ。

●まとめ

藩校は武力では治められなくなり、お国を治める力(=統治力)を付ける目的に学びを始めた。私塾に関しては、「日本」という観念の範疇(はんちゅう)を超え、西洋諸国を外圧として対象化したことによって西洋に対抗しようとする人が増え、私塾も増え始めました。

(私塾で教えていた講師は藩校でも講師をしていた事例もあり繋がっていたといえる)

そして農民などが通う寺子屋は飢饉が起こり、農業だけではなく商業にも取り組んだので、読み書きそろばんが必要となって、その学びを始めたのです。

これらはどれも、江戸時代に目まぐるしく変わった社会の構造を再び「秩序化させていきたい、良くしていきたい!」という思いを社会全体で持っていた証だといえる。

そして、その思いが武士から農民まで共通していたからこそ、江戸時代の人々の学びへの活力になっていたのではないでしょうか。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "江戸時代の教育像に迫る! ~江戸時代の学びの活力源って何?~"

List   

2023年04月27日

【次代の先端市場を切り拓く】バイオものづくりで世界をリードするには?

以前の記事で、日本がどの領域で世界に立ち向かおうとしているか?について、国の重点投資対象である「量子技術」について言及をしました。AIの追求では付加価値づくりには人間の力が必要なことがわかり、量子技術の追求では、人間の力を助長する方向で発展していることがわかりました。

今回の記事では、AI・量子技術を基盤に、バイオテクノロジーの領域でどのような展望があるかを探っていきます。

なぜバイオなのか

バイオテクノロジーは、「健康・医療産業」「化学産業」「環境・エネルギー産業」「食品産業、農林水産業」などの幅広い領域(以下バイオという)で社会問題解決に寄与すると期待され、いま世界中で注目を集めています。

世界のバイオ産業の市場規模は、2020年時点で7,528億8,000万米ドル(約100兆円)。日本は5兆円(現状「健康・医療産業」が市場全体の87%を占めている)。今後5年で世界の成長率は5%にも及ぶとされており、その背景には、これまで記事としてまとめてきたAIや量子の急速な技術革新が基盤となり大きく寄与しているのです。

これらの技術に加え、ゲノム解析・編集技術の劇的な進歩も原動力として、「食品産業、農林水産業」と「工業の各分野」も急成長すると予想されています。

まさに第五次産業革命と呼ぶに値する産業構造のパラダイムシフトが起こりつつあるのです。

 

日本では骨太方針2022において、国益に直結する科学技術分野としてバイオ産業を、「バイオものづくり」と「再生・細胞医療・遺伝子治療等のバイオテクノロジー」に分類し、戦略を実行しています。

本記事ではとりわけ、第五次産業革命の核となっていくと予想される「バイオものづくり」についてまとめていきます。

バイオテクノロジーとは?

バイオテクノロジーの基礎用語辞典

 

テーマは、

①何がすごいのか?

②バイオものづくりの”いま”

③さらなる発展に向けた企業・教育機関の動向

①何がすごいのか?(何ができるのか?のほうが興味をそそる)

バイオものづくりは、遺伝子技術(合成生物学)により、微生物が生成する目的物質の生産量を増加させたり、新しい物質を生産するテクノロジーであり、海洋汚染、食糧・資源不足など地球規模での社会的課題の解決と、経済成長との両立を可能とする、二兎 を追える研究分野です。

(事例があると分かりやすい、身近なもので)

②バイオものづくりの”いま”

米国や中国では兆円単位の投資が行われ、国際的な投資競争が激化してます。

・米国の合成生物学ベンチャーへの民間投資額:2019年約4000億円→2021年約2兆円

・中国の戦略的投資:11兆円(山西合成生物産業エコロジーパーク(山西省)約1400億円、合成生物技術イノベーションセンター(天津市)約360億円)

・日本:大規模生産・社会実装まで視野に入れた、微生物設計プラットフォーム事業者と異分野事業者との共同研究開発の推進(エコシステムの構築)、味噌・醤油・酒類など全国の事業者が強みを有する微生物の発酵生産技術やゲノム合成・編集技術等の基盤技術の開発支援・拠点形成や人材育成等、バイオ分野で世界をリードしていくために中長期的視野で大胆かつ重点的な投資を行っていく必要があります。

 

バイオものづくりでは、合成生物学を活用した上流側の微生物開発では、AI・ロボットを用いた効率的な微生物構築技術、下流の発酵生産では、培養・精製技術の高度化とった、バリューチェーンの段階に応じて全く異なる高度な技術・設備が必要です。

また、バイオものづくりは、生物情報のデータ化・デジタル化と生物機能のデザインを行い、DBTLサイクル(Design/Build/Test/Learn)を循環させることでスマートセル(物質生産性を高度に高めた細胞)を生産しています。このサイクルの中で、D(Design)の部分で人間の創造的思考が必要になります。

③さらなる発展に向けた企業・教育機関の動向

※画像出典:我が国におけるバイオものづくりの産業化にむけて~関西の「次の産業の核」とするために

・バイオものづくりの発祥の地と言われている関西。長年にわたって我が国のバイオものづくりをリードしてきた歴史的背景から、バイオものづくりに関わるアカデミア、企業、インフラ等の集積が進んでいます。また、バイオコミュニティ関西(BiocK)の設立等、集積を連携へと発展させる取り組みも進められている。

・関西では①バイオものづくりの産業化を担うアカデミア発スタートアップの登場 / ②公的支援の拡充 / ③播磨臨海地域(兵庫県)における水素へのエネルギー転換に向けた取り組み / ④2025年大阪・関西万博等、バイオものづくりの産業化に向けた機会が拡大しています。これらの機会を捉え、産学官が連携して戦略的に取り組むことにより、関西においてバイオものづくりの産業化を実現していくことが期待されています。

①アカデミア発スタートアップ

・神戸大学スタートアップ『バッカス・イノベーション」はDEFTAグループ、ロート製薬、太陽石油や島津製作所などから出資を受け、微生物開発、生産プロセス開発を実施する統合型バイオファウンドリサービスを展開。

②公的支援の拡充

・バイオものづくり革命推進事業(経済産業省 2022年度2次補正予算)3,000億

・革新的GX技術創出事業(文部科学省 2022年度2次補正予算) 496億

バイオものづくり技術によるCO2を直接原料としたカーボンリサイクルの推進(経済産業省 国費負担額上限)1,767億

・ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業(経済産業省 2022年度2次補正予算)1,000億

③播磨臨界地域におけるエネルギー転換に向けた取り組み

播磨臨界地域は関西の製造業の中核拠点(AGC、神戸製鋼所、カネカ、三菱重工業、川崎重工業など)であり、同地域において水素細菌を活用したバイオものづくり等に取り組み、石油を起点とする既存のバリューチェーンを水素起点に再構築していく。

2025年大阪・関西万博

全世界から約2820万人の来場が予想されており。関西のバイオものづくりに係る取り組みを広く世界にPRしていく貴重な機会としていく。

 

バイオものづくりの領域は、AIや量子などの他領域に比べても、優れた発酵技術を有する日本ならではの技術革新で、世界をリードしていく可能性があります。

そのため、国策や他企業・他大学での連携を強化することが不可欠であり、またそれぞれの強みを上手く活かし、創造的な人材の育成・または社会課題を解決する力のある企業を創出する必要があります。

日本の新しい産業の創出・革新は、優れた個人とそれが集積する複数の企業、そして様々な機関との連携に期待が集まります。

見えてきたものはやはり、現代にないモノを生み出す創造力と、複雑化する事業における共創する力が未来の日本に必要になります。

 

▼参考文献

バイオトランスフォーメーション(BX)戦略

1.OECD, “The Bioeconomy to 2030: designing a policy agenda”

2.THE WHITE HOUSE.FACT SHEET:President Biden to Launch a National Biotechnology and Biomanufacturing Initiative

3.内閣府バイオ戦略

4.経済財政運営と改革の基本方針2022(骨太方針2022)

5.生物資源(bio)の量(mass)を示す概念。動植物に由来する有機物である資源(化石資源を除く)

6.菌根を作って植物と共生する菌類のこと。例えば、森林の地上に発生するキノコは、多くが菌根菌。土壌中の糸状菌が、植物の根の表面または内部に着生したもの。

7.内閣府 バイオコミュニティ

8.MassBio

9.Biocom

10.経団連 スタートアップ躍進ビジョン

11.Good Manufacturing Practice(医薬品の製造管理及び品質管理の基準)

12.経済産業省「バイオものづくり技術によるCO2を直接原料としたカーボンリサイクルの推進」プロジェクト

13.複数の種類の原料(例:バイオマス原料等と化石燃料由来の原料など)により製品を製造した際に、特定の材料(例:バイオマス原料等)の投入量に応じ、製品の一部にその特性全てを割り当てる方式

14.New Dietary Ingredients(新規ダイエタリーサプリメント成分)

15.Contract Development and Manufacturing Organization

16.英国では2021年11月に20万人分の全ゲノム情報を網羅した「UK Biobank」、米国では2022年3月に10万人分の全ゲノム情報を網羅した「All of US」が公開されている

17.Decentralized Clinical Trial(分散型臨床試験)

18.医薬品開発において、動物試験で安全性と有効性が確認された後、ヒトに初めて投与する段階の治験のこと

19.Sustainable Aviation Fuel

20.Feed-in Tariff

21.産業構造審議会 商務流通情報分科会 バイオ小委員会 バイオものづくり革命推進ワーキンググループ バイオテクノロジーが拓く『第五次産業革命』

22.経済産業省 商務情報政策局 商務・サービスグループ 生物化学産業課  「バイオものづくり革命」の実現に向けて

23.国内の注目「バイオ」ベンチャー・スタートアップ企業一覧【厳選20社】 コンサル転職&ポストコンサル転職のアクシスコンサルティング【公式】 (axc.ne.jp)

24.バイオモノづくり 大学:人材育成 

25.バイオ業界ランキング2021【年収・売上・将来性】 | 金融エンジニア (lanchesters.site)

26.世界が挑む「バイオものづくり」、日本は高機能化学品にチャンス:材料技術(1/2 ページ) – MONOist (itmedia.co.jp)

27.人生100年時代を可能にする最先端医療 (pictet.co.jp)

 

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "【次代の先端市場を切り拓く】バイオものづくりで世界をリードするには?"

List   

2023年04月22日

先端企業の戦略(6)~革新のDNA:任天堂の流儀(自由な発想と挑戦)~

社会現象ともなった任天堂の「あつまれどうぶつの森(あつ森)」。大ヒット作の裏側には社員の自由な新しい発想を否定せず、失敗した人にもチャンスを与える京都の老舗企業ならではの懐の深さがあります。任天堂の「流行を追いかけず独自の流儀にこだわる姿勢」が大ヒット作を産み出しました。そして、これを支えてきたもの、これが「革新のDNA」を育む土壌になっています。
常に時代の変化の先端にあった京都には、「自分たちの生きる場は自分たちで作る」という精神が溢れています。その日本の古都で約120年前に創業した任天堂は、花札の製造販売を手掛ける工芸品メーカーから、世界を代表するエンターテイメント企業となりました。
任天堂の創業は1889年(明治22年)に遡ります。職人魂を持ち、商才にたけた山内房治郎が京都の地で花札を製造販売したことが始まりです。伝統を守りつつも、「よそとは違うこと」に挑戦していく姿勢こそがその原動力となっています。危機の度に、それを乗り越え、強く大きくなり続けた任天堂を動かす「任天堂の流儀」は、京都の「かるた屋」の精神から生まれ、進化発展したものです。

■400年続くカルタ屋の精神
任天堂の歴史を紐解く前に、かるたの歴史について触れておきます。かるた屋は長い歴史の中で、娯楽商売の旨みも厳しさも知っており、環境の変化に柔軟に対応することで、生きてきました。その最高傑作である花札をルーツとする任天堂も、400年以上続くかるた屋の精神を受け継いでいます。
16世紀後半ポルトガルから伝わった「かるた」は、江戸の鎖国政策による西洋娯楽の禁止や、「数票」の賭博との結びつきを理由に禁止されるなどの憂き目にあいながらも、「歌かるた」(百人一首)や教育用の「いろはかるた」などを産み出してきました。賭博に使われる「数票」は禁止されるため職人たちは知恵を絞り、数票でなく日本独自の四季折々の絵柄を組み合わせた「花かるた」(花札)を生み出していきます。1885年(明治18年)、花札の販売が解禁され、花札を始めとするカード類は再び人気の娯楽となり、全国に次々とかるた屋が開業されます。山内房治郎が店を構えたのもこの年(1889年)でした。

■任天堂の流儀
三代目社長山内溥氏は言います。
「我々の商売は、本来なくてもいいもの。目が覚めたら市場が消えているかもしれない」
「子供たちはゲームにすぐに飽きてしまう」
「ヒットは、はかない。ヒットしているうちに善後策を考えておかないと手痛い目に遇う」
そして、必要なのは、
①博打を打つ(新しいものを世に出す)ための独創性
「よそとは違うことをやれ」
は代々受け継がれた言葉。同じことをしていては生き残れない。
新しいものを産み出す「任天堂流雑談」。会話の行きつく先に正しさを求めない。重視するのは瞬発的なアイデアとリアルな体験。
②常に博打を打ち続けるチャレンジ精神
「運は天に任せて」
は、任天堂の社名の由来。任天堂三代目社長の山内溥が「人生一寸先は闇。運は天に任せて、与えられた仕事に全力で取り組む」と定義しています。また、「『運』を実力と過信するな」とも。
③枯れた技術の水平思考
最新技術で戦う必要はない、枯れた(陳腐化した)技術の転用や組み合わせといった柔軟な思考で戦え。
④勝ちを引く確率を上げる
勝ち負けに右往左往せず、「勝ち」も「負け」も次の博打に勝つための糧とする。
⇒任天堂は新製品を発売したら売れ行き動向が判明する前に「反省会」を開く。発売日という締め切りがある以上、100%満足な製品は完成しないからだ。「次回は満足できる内容でやろう」と考えを巡らせる。新たなアイデアは結果的に営業上では失敗しても次の製品につながる。
⑤博打の資金
博打で勝つには資金が必要。常に次の博打が打てるように準備する。
⇒任天堂の財務体質は強固で、2000年代以降は1兆円以上のキャッシュを保有し、無借金経営を貫いている。多額のキャッシュは、将来へのリスクに備えると同時に、パートナー企業に無茶を言っても取りっぱぐれないと思ってもらえる。安易な規模拡大やM&Aはせず、商品が売れたからといっても社内が華やぐでもない。

■任天堂の博打(失敗と成功)の歴史
任天堂は様々な勝ち負けにを次の博打のヒントとしてきた歴史があります。そこには、常に「任天堂の流儀」があります。
●かるた需要低迷
家庭用花札は需要が少なく売り上げが伸びない状況が続きました。⇒需要低迷から脱却するため、賭博場に自社のかるたを持ち込み売上が急増。プロの博打打ちは、イカサマ防止のため1組の花札を1回しか使用せず、勝負の度に新しいものをおろします。品質を重視する勝負師に対し、房治郎は品質に徹底的にこだわります。色むら、キズ、張りむらなどのない任天堂の高品質な花札は京都や大阪で人気商品となりました。
●かるた課税
1902年(明治35年)、明治政府はかるた類に大幅な課税をしました。任天堂だけでなく、活気にあふれていたかるた業界は一転して奈落の底に突き落とされます。
⇒競合が消える中、任天堂は輸入一辺倒だったトランプに目を付け日本で初めてとなるトランプの製造に着手。加えて房治郎は旧知の仲だった明治のたばこ王「村井吉兵衛」の協力を得ることに成功。村井が全国に持つたばこ屋の販売ルートを利用して、カード類の販路を大きく広げていきました。トランプ・花札は、たばことサイズが似ており、博打打ちが好むという点でも相性がよかったのです。

任天堂の歴史|任天堂アーカイブプロジェクト

20世紀初頭の日本で全国に流通網を持っていたのは、村井の「日本専売公社」(現・日本たばこ産業株式会社)と「富山の薬売り」くらいでした。「よそとは違うこと」をして、任天堂は日本最大のカードメーカーとして全国にその名が知れ渡るようになりました。その後も任天堂は、日本初のプラスチック製のトランプやディズニーキャラクターを使った「ディズニートランプ」と成功と躍進を続けます。
任天堂はこの後も「負け」を糧に次の「勝ち」を掴みとっていきます。
●異業種参入の失敗
「娯楽」以外の他業種に参入するも、ことごとく失敗⇒本業の「娯楽」に1本化
●オイルショック危機
業務用大型レジャー施設に先行投資するもオイルショックが原因で失敗。
⇒世界初の携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」世界的な大ヒット。アーケードゲーム事業に本格参入。アーケードゲームのキャラクター『マリオブラザーズ』や『ドンキーコング』の誕生。
●アタリ社の失敗
「カセット」を入れ替えるだけでさまざまなゲームを遊べた米国アタリ社のアタリVCSが他メーカーの低品質ソフト乱発で人気が急降下。
⇒ファミリーコンピューター(ファミコン)の開発と大ブレイク。任天堂からライセンスを供与されたソフトメーカーだけが、ファミコン向けのソフトを開発できるという管理体制を構築。『スーパーマリオブラザーズ』『ドラゴンクエスト』など、国民的な大ヒット作品が生まれ、ファミコンブームは日本中に拡大。
●ライバル(ソニー)出現の危機とニンテンドウ64の失敗
ソニーが「プレイステーション」でゲーム事業に参入。メディアに大容量のCD-ROMを採用したプレイステーションに、64ビットCPU搭載のカセット式「ニンテンドウ64」で対抗したがソフト開発に技術力と時間と資金のかかる「ニンテンドウ64」から『ドラクエ』『FF』などの大人気シリーズがプレイステーションに移籍。多くのユーザーやソフトメーカーが任天堂ハードから離脱。
⇒「ゲームキューブ」。開発者にやさしく、大容量かつ読み込み速度にも優れた小型の8センチ光ディスクを採用。
●ゲーム離れ
高性能ゲーム機の登場により、ゲームは格段に「進化」したが、それと同時にゲームが急速に重厚長大化・複雑化し、ゲームから離れてしまう人が続出。⇒「ニンテンドーDS」と「Wii」。CPUの計算能力やグラフィックの綺麗さなどの「進化」ではなく、タッチペンやWiiリモコンに象徴されるコントローラを進化
「僕らが最もすばらしいゲームをと頑張った結果、時間やエネルギーをゲームに割けない人たちが『もういいや』と静かに立ち去っていたのです。調べれば調べるほど、これは本当に深刻だと感じました。」4代目社長 岩田氏談
●スマートフォン普及
スマホの普及により、DS/Wiiブームは終焉。投入した裸眼での3D画像を実現した3DSも失敗。
⇒ニンテンドウスウィッチの開発と大ヒット

■任天堂の今と未来ビジョン
ゲームのハード・ソフトの両方でトップを走る唯一無二のゲーム会社である任天堂ですが、今後は幅広い年齢層に受け入れられる強力な自社IPを武器としてさらなるファンの拡大と,ゲーム事業一本足打法からの脱却を目指しています。これまで基本戦略として掲げられてきた「ゲーム人口の拡大」からさらに踏み込み「任天堂IP(知的財産)に触れる人口を拡大する」と表明しています。
娯楽産業は、独創的なソフトを生み出す「ソフト体質」が優先される世界です。京都という町でこれまで培われてきた任天堂の流儀は代々受け継がれていきます。

 

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "先端企業の戦略(6)~革新のDNA:任天堂の流儀(自由な発想と挑戦)~"

List   

2023年04月13日

先端企業の戦略(5) ~・よろづ屋『TOPPAN』:技術と人脈を活かした事業拡大・~

凸版印刷という企業をご存じでしょうか?

最近では「TOPPA!!!TOPPAN!」というテレビCMを見られた方も多いかもしれません。
ホーム|凸版印刷

トッパンと聞くと印刷事業をイメージされる方も多いかもしれませんが、現在では「情報コミュニケーション」「生活・産業」「エレクトロニクス」など多くの事業分野に取り組み、様々な場面で私達の生活を支えています。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "先端企業の戦略(5) ~・よろづ屋『TOPPAN』:技術と人脈を活かした事業拡大・~"

List   

2023年04月07日

自分達で教育を創る意欲の源泉は? ~私教育最盛期の江戸時代に学ぶ~

前回の記事リンクでは、この間の日本の教育問題は私教育の衰弱と、国家も、大人も、子供も「教育」のイメージが噛み合わず混乱していることが大きな原因ではないかと追求してきました。

・では、私教育は何をどう学んでいたのか。公教育が制度化される以前、世界一の識字率を誇った江戸時代の日本の教育に注目したいと思います。そこに現代の私教育の再生につながるヒントがあるのではないでしょうか。

写真は浮世絵で書かれた江戸時代の一風景です。

■江戸時代にあった3つの教育
江戸時代に登場した教育機関は大きく3つあります。参考

①寺子屋

画像は当時の寺子屋の浮世絵です。

農民や町人も含めた庶民の子供が受講者の中心になっていました。江戸時代初期から、ぽつぽつと増え始め、1700年~幕末期以降からは爆発的に増えました。この時代の教育機関の中で最も規模が大きいです。「日本教育史資料」の調査によると、全国の寺子屋数は15,560校であると記載されております。(参考)

村の有志が、地域の欠乏や期待に応えて運営していたので、地域によって教える中身が異なる部分もありますが、中心は丁稚(でっち)奉公へ赴く際必ず必要になる読み・書き・そろばんの指導が中心となっています。

②私塾

適塾(wikipedia)から、画像をお借りしました。

松下村塾」「適塾」が有名です。下級武士や当時の最先端の技術や学問を学びたい人たちが集まっていました。学びの中身を引力として、村を超えて遠方からも受講者を集めており、現代の私立大の前身とも言えます。

③藩校

写真は藩校の一場面を浮世絵にしたものです。 

御家人・旗本といった統合階級・官僚層が、「どう集団をまとめるのか」を学ぶ場となっていました。ちなみに、天皇・将軍は藩校ではなく家庭教師で、帝王学を学んでいました。

ここでまず驚くべき点は、寺子屋だけが爆発的にその数を増やし、しかも学校制度が始まるまで減少することなく増え続けたことです。なぜ、ここまで数を増やし続けることが出来たのかについて、考えてみたいと思います。

■生き残るための追求と、貨幣経済の浸透が、仕事と学びを結び付けた
庶民の学ぶ意欲が急上昇した背景に、三段階のステップがあるのではないかと考えています。

①市場ネットワークの構築→発展
江戸時代に始まった参勤交代の制度によって、江戸・大阪への流通網の発達が進化しました。

そのことを基盤として、地域同士や、地域と都会が市場を介してつながる市場ネットワークが形成されるようになったのです。

②村落の枠を超えた生産力の共有
そこへ、寒冷期を原因とする3度の飢饉が襲いました。自前の生産力で生きてゆけない村落が急増し、農民には「生きるためにどうする?」という強烈な外圧が働くようになりました。

生きる糧を生産できない農村は「市場を通して金で買う」ことに活路を見いだし、貨幣を得るためのモノづくりに励むようになりました。南部鉄器や風鈴、浮世絵といった伝統工芸品など、各地域独自の物産が江戸時代に数多く誕生したのもその為です。つまり江戸時代後期は、自集団で完結できていた生産形態が、生産力と豊かさを他集団と共有することで共存・共栄する産業構造へと転換していった時代とも言えます。これによって、農民レベルにまで貨幣を使った市場・経済が浸透していきました。

③貨幣経済の浸透と市場拡大に適応するための学び
そのような状況で、必然的に増加する市場でのやり取りに適応すべく、「読み書きそろばんの必要性が急上昇」したと考えられます。こうして寺子屋急増の背景に遡ってみると、寺子屋はまさに「『学びの行方』~「働く意味」があって「学ぶ意味」が生じる~ |の実現態だったのだなと思わされます。

寺子屋の教育が爆発的に広がった背景が見えたところで、さらに藩校や私塾の教育がどうなっていたのかなど追求を深めて、現代のヒントになる本質を抽出していきます!

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "自分達で教育を創る意欲の源泉は? ~私教育最盛期の江戸時代に学ぶ~"

List   

2023年04月03日

【次代の先端市場を切り拓く】あらゆる産業の基盤となる量子の世界

以前の記事で、日本がどの領域で世界に立ち向かおうとしているか?について、国の重点投資対象である「AI」について言及をしました。人にしかできないと思われていたような領域もAIに代替されていっていること、一方でつくる過程での付加価値づくりには人間の力が必要なことがわかってきました。
今回の記事では、そんなAI技術にもつながる「量子技術」について、どんな展望があるかを探っていきます。

なぜ量子なのか

・量子技術(Quantum Technology)では、量子の特徴を演算分野(コンピュータ・シミュレーション)や、通信・暗号分野などで活用することが期待されています。
→その特徴が、二重性、重ね合わせ、もつれ。※詳細は割愛しますが、興味のある方は調べてみてください

>量子コンピューター特有の計算ステップを巧妙に工夫し、計算ステップ数を劇的に減らしつつ、多数の「計算結果」の中から「正解」を浮かび上がらせることのできるアルゴリズムが、量子コンピューターには不可欠なのです。ここで注意すべきは、最終的な「正解」は計算前には把握できないということです。計算前には分からない「正解」を、計算によって浮かび上がらせるのが、巧妙なアルゴリズムの働きとなります。
>現時点ではこういったアルゴリズムは数十種類程度しか知られていませんが、その中に大きなインパクトをもつ量子化学シミュレーションや、機械学習・AIへの応用が期待されるものも含まれており、量子コンピューターの強力な開発動機となっています。

三菱総合研究所より引用(https://www.mri.co.jp/50th/columns/quantum/no01/

とあるように、AIをはじめとする技術の発展に大きく寄与する可能性があるのです。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "【次代の先端市場を切り拓く】あらゆる産業の基盤となる量子の世界"

List   

2023年04月01日

『生き続く企業とは?』~永く拡大していく企業の真髄は戦略的人脈ネットワークの構築にある~

前回の『生き続く企業とは?』~婿入り→継承~では、婿入り婚戦略が市場の中で永年生き残り、拡大してきた企業の優れた継承システムであることを明らかにしました。
今回は引き続き、生き続く企業の「戦略思考」の真髄に迫っていきます。

■「銅の可能性」に照準をあて、基盤となる技術を戦略的に取り込んだ
住友家の初代・政友(1585~1652)は、京都で「涅槃宗」(リンク)の開祖に弟子入りし僧侶になります。政友がいた涅槃宗は、後陽成天皇の庇護を受け、大名や京・大坂・博多の商人に幅広く信徒を獲得します。政友が、中国・欧州との交易の最前線である北九州と、商業の中心地である京・大坂を繋ぐ信徒の情報網から、最新の海外情報を得て、今後の銅貿易の可能性を掴んでいたのは間違いありません。

画像は『鎖国下日本と世界に繋がる海の交易ルート:西鶴文学を視座として』森田雅也
関西学院大学人文学会2018.2からの抜粋

同じ頃、後に住友家の「業祖」と呼ばれることになる蘇我理右衛門(1572~1636)が、京都で銅精錬と銅細工の店「泉屋」を開業します。理右衛門は異人から聞いた方法を基に、当時の日本には存在しなかった粗銅から銀を分離する「南蛮吹」の技術を完成させます。そして、理右衛門は涅槃宗の熱心な信徒でもありました。

住友家が刊行した南蛮吹の様子を収めた『鼓銅図録』。
画像は住友グループ広報委員会からお借りしました。

涅槃宗が江戸幕府の宗教政策で天台宗に吸収された後(1624年頃)、政友は京都で「富士屋」という書物と薬の店を開きます。戦国の世から太平の世へ移り変わって市場が大衆にまで拡大する動きと、銅貿易の可能性を掴んでいた政友は、その実現基盤となる銅の精錬技術を持つ理右衛門(蘇我家)との関係を強固なものにします。


住友家と蘇我家の関係図:⓵住友政友と蘇我理右衛門は義兄弟。 ⓶友以が蘇我家から住友家に婿入り。 ⓷友以の最初の妻(政友の娘)と政友の息子が早世すると、お亀を友以の後妻にする。

住友家が婿入り婚によって戦略的に銅の精錬技術を取り込んだことが、ここまでの経緯から見て取れます。

住友家を継いだ友以は、人脈ネットワークを戦略的に築いていきます。まず、水運が発達し物流の拠点となる大坂に出店と銅吹所(銅の精錬所)を設けます。
さらに、最先端の技術を大坂の同業者に公開することによって、大坂を銅精錬の中心地とし、銅貿易拡大の基盤となる人脈ネットワークをつくり上げていったのです。

■国内外市場の拠点に人脈ネットワークを築いた
17世紀初めの日本では、幕藩体制が確立し国内秩序が安定したことにより、将軍・大名をはじめとする上流階級に広がった絹織物などの贅沢品の需要を満たすべく、海外からの輸入品(中国→ポルトガル・後にオランダ商人を経由した絹糸)が増大します。その代金として支払われた金銀が、日本から大量に海外へ流出していく状況にありました。そこで幕府は、金銀の海外流出を抑制するために、銅の輸出を奨励します。

一方、江戸・大坂といった城下町では都市住民が増大し、上流階級と大商人層だけではなく庶民層にも貨幣経済が浸透していきます。庶民層の商取引に金銀の貨幣では価値が釣り合わないため、幕府は自国の銅銭である「寛永通宝」を発行します。こうして、通貨の原料として銅の需要が著しく高まっていくのです。

住友家はこの様な状況の変化に対して誰よりも早く照準を絞り、新たな戦略を立てて動いていきます。

銅需要の拡大を読んで、京→大坂へ本店と銅吹所を移すとともに、国内市場の中心地である江戸と、海外貿易の中心地である長崎に相次いで出店を設けます。

さらには年々増大し続ける銅の需要に応えるべく、1690年には日本最大の銅の鉱脈を持つ別子銅山を開坑。銅精錬→銅貿易→銅山開発へと事業を展開し、住友家は江戸時代を通して日本の市場経済を支え続ける地位を確立します。

■生産→販売→物流を貫通する人脈ネットワークを構築
こうして住友家は、長崎に出入りする日本人の商人、オランダ・中国(清)の商人とも強固な関係を築き、最新の国際情勢を直接得ることが可能になりました。そこで得られた新たな情報から照準・戦略を組み替えていった住友家は、明治維新を迎えた際にも新政府と対等に交渉を行い、別子銅山の経営権を守り抜き、富国強兵を進める近代日本の経済を牽引する財閥企業へと発展していきます。

住友家は銅を軸として、生産→販売→物流を貫通する人脈ネットワークを戦略的に構築、上流から下流まで多様な情報を獲得して事業の領域を拡げていくことを実現したのです。

住友家がいかに事業を継承、拡大してきたのかを通じて、「婚姻」も「技術」も「営業」も「情報」も、全ての戦略は人脈ネットワークを構築する手段であることを明らかにしました。

生き続き拡大していく企業の真髄。それは、「戦略的人脈ネットワークの構築」にあるのです。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "『生き続く企業とは?』~永く拡大していく企業の真髄は戦略的人脈ネットワークの構築にある~"

List   

2023年03月30日

先端企業の戦略(4) ~・店は客のためにあり・~

「店は客のためにあり、店員とともに栄える」
これは、めざましい躍進を続けるアパレル業界のリーディングカンパニー、株式会社ユニクロ代表取締役会長兼社長、柳井正氏の「座右の銘」です。「ユニクロ」の誕生から、その後の発展の歴史は、「この言葉」の実践の歴史と言えます。

〇窮地からSPAへ
実父が石炭会社「宇部興産」の企業城下町の商店街に開業した紳士服店「小郡商事」に、柳井正氏が入社したのが1972年、1984年には代表取締役社長に就任します。

この頃、エネルギー革命による石炭産業の衰弱と生活圏の郊外化により地元商店街は衰退の真っ只中でした。

(写真はユニクロ創業の地、山口県の宇部商店街 ※写真はこちらからお借りしました

柳井氏は、「客のため」になっていない商店街の服飾店という業態には未来がない!と感じていました。
このとき柳井氏が目指した「客のため」の業態こそ、当時は業界内で誰も注目していなかったSPAでした座右の銘である「店は客のためにあり」は「人々の意識を掴み迅速に商品化する」という「目標」となり、SPAの成功へと具現化され、「ユニクロ」の誕生へとつながっていきます。

アパレル商品の企画から製造、販売までの機能を垂直統合したビジネスモデルで、日本語では普通「製造小売業」と訳されます。企画から製造、販売までを垂直統合させることでSCM(原材料の調達から最終目的地での製品の配送までの製品やデータなどの管理)のムダを省き、消費者ニーズに迅速に対応できます。

柳井氏は、SPAを「客が求めるもの、客の表情を、小売店だけでなく、メーカーで共有するためのもの」と捉え、SPAが『客のために』を実現すると考えました。SPAであれば原価がダウンするから儲かるという単純なことではなく、客の声を共有するための手法だと柳井氏は言います。

SPAという「入れ物」に魂を込めなければ機能しません。そこで、ユニクロは、PMF(Product Market Fit)つまり、顧客を満足させる製品を提供し、それが適切な市場に受け入れられている状態を目指すことを徹底していきます。

〇顧客を満足させる製品と適切な市場の模索
ファミリー層が求めるのは、年齢や性別に関係なく着用できる普段着。買い求められるのは1商品あたり1000円前後、客からは「コストと品質」がシビアに要求されます。

ユニクロにとっては、安くて品質が高い普段着を仕入れることが至上命題となります。品質の良いカジュアルウェアを安価に確保する必要がありました。そこで、中国メーカーに大量発注するために、店舗数を急拡大していきます。

1984年、広島市内の繁華街にユニクロ1号店を開業するも、業績は振るわず都心型店舗展開は頓挫します。

しかし、翌年には嗜好を変えロードサイド郊外店へと舵を切り替え、下関市に「ユニクロ山の田店」を開業します。当時、ロードサイド店舗は珍しい存在でしたが、自動車を所有するファミリー層から支持されました。このロードサイド店舗展開がユニクロにとっての適切な市場となっていきます。

(写真は1号店があった場所 photo taken by Taisyo

〇PMFを動かす両輪(人とシステム)~客と共にあるための人材育成
柳井氏は言います「日本の商業の一大欠点は、他人のものを売っていると思っていること。だから、中国冷凍ギョーザのような事件の時に、対応がすっきりしない。自分でつくって、自分で売る気概が必要です」

これは単に製造販売を統合するSPAをすればよいということではなく、同時にPMF(市場適合)の実現が必要なのです。このPMFの実現こそ店は客のためにあり」の実践であり、それは、客の声を聴くことに始まります。

「店を客のためのものにする」には、「店員が客と共にあること」が必要不可欠です。柳井氏は「客の声を聴ける」人材育成と人事制度の確立に力を注いでいきます。ユニクロは、急速な店舗展開と共に、人材育成のための人事制度を整備していきます。そして、年功序列ではなく実力主義による人事を基本方針に据えました。

〇「実力」=「客と共にある力」を評価基準に、そしてDXの先駆者
店舗運営においての評価基準は「買いやすい売り場づくり」を行なっているかどうかで判断されました。実力主義によって昇格・昇給が決定され、年功序列を排除したシステムを導入しました。降格もあり得る人事制度で、当時の日本企業としては異色の評価制度を導入したのです。

ユニクロは今話題のDXの先駆者でもあります。「店員が客と共にあるために」瞬時に正確に客の声を掴み、店員と共有する必要があると考えました。1992年に店頭の販売データを即時に共有できるコンピュータシステム(POS)を稼働させ、瞬時に正確に客の声を掴むことを実現しました。

SPAという枠組みとPMFという魂。それを動かす両輪「人材育成」と「DX」。全ては「店は客のために」の実践のための必然だったのです。

この徹底した「客のために」が大きな飛躍の原動力となり急成長を遂げます。
その後、1997年に始まったフリースブーム、東レとの提携、そして、ヒートテックなど数々のヒット商品を生み出し、今や年間総売上約2兆円でアパレル業界世界3位、2021年には株価時価総額10兆円を超えアパレル業界世界1位(現在は円安、日本株安もあって約8兆円、世界第3位)と、登りつめ、現在も躍進を続けています。

にほんブログ村 経営ブログへ

続きを読む "先端企業の戦略(4) ~・店は客のためにあり・~"

List