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2023年04月07日

自分達で教育を創る意欲の源泉は? ~私教育最盛期の江戸時代に学ぶ~

前回の記事リンクでは、この間の日本の教育問題は私教育の衰弱と、国家も、大人も、子供も「教育」のイメージが噛み合わず混乱していることが大きな原因ではないかと追求してきました。

・では、私教育は何をどう学んでいたのか。公教育が制度化される以前、世界一の識字率を誇った江戸時代の日本の教育に注目したいと思います。そこに現代の私教育の再生につながるヒントがあるのではないでしょうか。

写真は浮世絵で書かれた江戸時代の一風景です。

■江戸時代にあった3つの教育
江戸時代に登場した教育機関は大きく3つあります。参考

①寺子屋

画像は当時の寺子屋の浮世絵です。

農民や町人も含めた庶民の子供が受講者の中心になっていました。江戸時代初期から、ぽつぽつと増え始め、1700年~幕末期以降からは爆発的に増えました。この時代の教育機関の中で最も規模が大きいです。「日本教育史資料」の調査によると、全国の寺子屋数は15,560校であると記載されております。(参考)

村の有志が、地域の欠乏や期待に応えて運営していたので、地域によって教える中身が異なる部分もありますが、中心は丁稚(でっち)奉公へ赴く際必ず必要になる読み・書き・そろばんの指導が中心となっています。

②私塾

適塾(wikipedia)から、画像をお借りしました。

松下村塾」「適塾」が有名です。下級武士や当時の最先端の技術や学問を学びたい人たちが集まっていました。学びの中身を引力として、村を超えて遠方からも受講者を集めており、現代の私立大の前身とも言えます。

③藩校

写真は藩校の一場面を浮世絵にしたものです。 

御家人・旗本といった統合階級・官僚層が、「どう集団をまとめるのか」を学ぶ場となっていました。ちなみに、天皇・将軍は藩校ではなく家庭教師で、帝王学を学んでいました。

ここでまず驚くべき点は、寺子屋だけが爆発的にその数を増やし、しかも学校制度が始まるまで減少することなく増え続けたことです。なぜ、ここまで数を増やし続けることが出来たのかについて、考えてみたいと思います。

■生き残るための追求と、貨幣経済の浸透が、仕事と学びを結び付けた
庶民の学ぶ意欲が急上昇した背景に、三段階のステップがあるのではないかと考えています。

①市場ネットワークの構築→発展
江戸時代に始まった参勤交代の制度によって、江戸・大阪への流通網の発達が進化しました。

そのことを基盤として、地域同士や、地域と都会が市場を介してつながる市場ネットワークが形成されるようになったのです。

②村落の枠を超えた生産力の共有
そこへ、寒冷期を原因とする3度の飢饉が襲いました。自前の生産力で生きてゆけない村落が急増し、農民には「生きるためにどうする?」という強烈な外圧が働くようになりました。

生きる糧を生産できない農村は「市場を通して金で買う」ことに活路を見いだし、貨幣を得るためのモノづくりに励むようになりました。南部鉄器や風鈴、浮世絵といった伝統工芸品など、各地域独自の物産が江戸時代に数多く誕生したのもその為です。つまり江戸時代後期は、自集団で完結できていた生産形態が、生産力と豊かさを他集団と共有することで共存・共栄する産業構造へと転換していった時代とも言えます。これによって、農民レベルにまで貨幣を使った市場・経済が浸透していきました。

③貨幣経済の浸透と市場拡大に適応するための学び
そのような状況で、必然的に増加する市場でのやり取りに適応すべく、「読み書きそろばんの必要性が急上昇」したと考えられます。こうして寺子屋急増の背景に遡ってみると、寺子屋はまさに「『学びの行方』~「働く意味」があって「学ぶ意味」が生じる~ |の実現態だったのだなと思わされます。

寺子屋の教育が爆発的に広がった背景が見えたところで、さらに藩校や私塾の教育がどうなっていたのかなど追求を深めて、現代のヒントになる本質を抽出していきます!

 

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