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2009年10月29日

「企業を共同体に変えるには?」⑥~民主主義=会議という固定観念~

シリーズもついに第6弾
前回のテーマ「対面会議の欠陥」について、さらに追求を続けます。
るいネットの投稿『民主主義=会議という固定観念』をご紹介~

とりわけ、最悪なのは、未明課題を突破すべき長時間会議が、定例化されているケースである。そうなると、答えを出せない大半の指揮官の下で、もたれ合いorぶら下がりが常態化する。それどころか、もっと恐ろしいことに、(何であれ対面会議は、何らかの共認を形成するので)当初の課題からズリ落ち、劣化した方針の共認が形成されてしまう。
要するに、各部門ごとに定例化された長時間会議を設けると、(本来は、皆に開かれた場である筈の)会議の場それ自体が、全社or他部門に対する密室空間そのものとなる。そして、全社課題に背反するorズレた共認集団が形成される。これは、営業的にも体制的にも、企業(全社)統合にとって、致命的な問題を発生させることになる。
冒頭に述べたように、会議の生命は課題の臨戦性にあり、未明課題を扱う会議もあくまで必要に応じて召集されるべきものである。従って、未明課題を扱う会議は、決して定例化してはならない。(注:その課題を充分に共認しており、発言もできるトップ級の会議なら、可だが。)
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本来の闘争課題が見出せない中で『対面での共認関係を築こうとする』ことは、
組織を悉くバラバラにしていく危険性を孕んでいます。
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最後に、(上記の例もそうだが)対面共認は、必然的に私的共認を発生させる、という事実も、対面共認が孕む重大な欠陥として、認識しておく必要がある。会議とは少し異なるが、例えば、3~5人の集団面接という場がある。そこには、不安(or警戒心)を抱えた応募者が集まる。もちろん、彼らはその日はじめて顔を合わせた訳だが、それでも会社の雰囲気とか、社員の態度とか、面接官の言葉とかで、少しでも彼らの不安(or警戒心)が刺激されるようなことがあると、帰りには忽ち私的共認が形成される。これは、原猿と同じで、不安を抱えているが故に、少しでも安心(相手もそう思っているんだという安心)を得たいからであり、同じ原理で、未だ闘争共認に同化できず不安を抱えた新入社員たちは、しばしば集まっては私的共認を形成する。
これは、対面共認の必然であり、(集団を超えた)社会空間での対面共認が孕む、構造的欠陥である。もっとも、原猿レベルの安心充足なので、その充足度は極めて低い。従って、闘争課題を共認し、もっと高度な充足と広い視野を獲得している真っ当な応募者や社員は、そんな低劣な私的共認の場には、加わらない。
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これまで、人々は、ホームルームから国会に至るまで、民主主義といえば「会議」と思い込んできた。ところが、どの会社でも、対面会議は上からも下からも嫌われ、厄介物となっているのが現実である。それも当然で、これまで述べてきたように、対面会議には様々な構造的欠陥が刻印されており、そろそろ民主主義=会議という固定観念を見直すべき時がきたように思う。

会議という形態は昔からありました。
ただし当時の実態としては、答えは会議が開かれる前に既に出ていたのではないでしょうか。会社の方向性は、社長を始めとする一部の上層部≒私権強者によって既に決められていて、会議は”民主主義”の名の下に、全社の総意を取り付けるためのツールに過ぎなかった(だから事前の根回しに奔走していた)。会議へのぶら下がり、という構造は、何も今に始まった問題ではなく、以前から存在していたが(それでも勝てたため)顕在化していなかっただけ、と言えそうです。

しかし私権⇒共認のパラダイム転換を経て、経営課題はますます難課題化し、一握りの経営層だけでは答えが出せなくなってきています。そもそも指揮官たる私権強者も消えつつある現在において、いよいよ「(対面)会議」が持つ構造的欠陥が浮き彫りになり始めた、ということではないでしょうか。

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