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2010年08月25日

★シリーズ『会社って誰のもの?』2-4 日本における企業集団の歴史・由来

シリーズ投稿の前回、 「株式会社=資本主義における最先端様式」 では、
 
>資本主義にも、アメリカやイギリスに代表される競争をあおって私権獲得を最大化しようとする「市場原理主義(新自由主義)」と、ドイツや日本に代表される連帯を重視する「集団主義」のふたつの系統に分かれる
 
と述べているが、日本における企業集団はどのように発展してきたのだろうか
 
日本には創業100年を超える企業が10万社もあると言われる。その中には飛鳥時代に設立された創業1400年の建築会社「金剛組」だとか、創業1300年になろうかという北陸の旅館、1200年以上の京都の和菓子屋など、千年以上の老舗企業も少なくない。
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また、アジアの億万長者ベスト100のうち、半分強が華僑を含む中国系企業であると言われるが、その中で100年以上続いている企業は1社もない。
 
100年以上も企業が存続するには、それを支えるだけの独自技術とそれらを伝承していく教育システム、或いは組織力が日本の企業にはあるからと考えられる。いったいそれらはどこから生まれてきたのだろうか
 
先を読む前に、 ポチッとお願いします 🙂
 
 

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1.中世以前の集団形態
中世以前は企業集団に相当するような集団はほとんど存在せず、集団と言えば古くから存在した住民の自治単位、現在で言えば町内会に相当する。
 
現在の市町村の単位は、戦後GHQによってもたらされたものに過ぎず、自治単位の基本は、旧くは連、結、講、座、或いは若者組といった、顔の見える範囲の人間関係で結ばれた集団であった。
 
これらの自治集団は、どういうことを担っていたのか るいネットに詳しい記事がありましたので、紹介します。日本の自治組織より引用

例えば組では「若者組」が有名である。「中世では村を守る軍事組織でもあるが、江戸時代以降、祭の施行が主な目的になった。祭だけではなく、祭にかかわる地芝居、相撲、花火、各種の踊り、競馬、お囃子、綱引き、裸祭など、遊びにかかわること全般が、若者組の活動となった」。もちろん遊んでばかりいるわけではない。消防、警備、災害時の出動などで若者組は重要な役割を果たした
 他に相互扶助の組織として結や講があった。臨時の相互補助活動が結であり、恒常的にそれが組織されたものが講である。田植え、稲刈り、家の建て換え建て増し、屋根葺きなど、一時に大量の労力が必要になる時、結が組まれた。それだけではない。「屋根の茅葺きだけでなく、道普請、用水の保全や掃除、宮の掃除、火災・洪水の際の出動、風呂を振る舞う結風呂、食事を振る舞う結、大火などの時に隣村から駆けつける見舞い人夫、<不幸組><無常講><同行>などと呼ばれる葬儀の実施、婚礼などの儀式。そして<出世無尽>と呼ばれるものは、孤児の救済にあたるものだった。
 講は資金の共同積み立て組織の例が多く、「伊勢講」が有名だ。村人の間で資金を積み立て、毎年、かわるがわる伊勢参りを行う。当時で言えば、現在の海外旅行に相当するような大型レジャーであった。一般に講は、鎌倉仏教、とくに念仏宗の拡大とともに村々に拡がっていったとも説明される。

これらの自治集団の組織化はあくまで任意であり、自主的な結成を基本とし、相互の結束=充足を高め、集団単位での自立性、安定性を高めていくことにその目的がある。
 
日本はこのように自治単位の自立性が非常に高かった。武力支配の時代でも、村落共同体は武士に対して村が年貢を納めて、村自体が自治組織として機能していた。この単位集団を統合していく方法論が、企業にも引継がれていったのではないかと考えられる。
 
2.前近代、江戸における(企業)集団形態
江戸期における商人、後に企業に繋がる商人集団にも、自治集団の統合手法が生かされているのではないかと思われる事象がいくつもある。
また、商業が発達してくると、域内を越えた人間や集団を相手にどのように生き残っていくのか?についてもこれからの企業のあり方を考える上で参考になりそうな事例があるので、ここに紹介します。
 
●近江商人の事例
近江商人の商業理念を伝える「売り手よし、買い手よし、世間よし」を意味する「三方よし」という言葉には、栄枯盛衰が激しい商業の歴史にあって、長く事業継続を果たしてき商人達の行動原理が反映されている。
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広域に活動した近江商人は、当事者だけにとって好都合な取引のみでは満足せず、第三者の目、すなわち周囲や、地域の人々のことを絶えず視野に入れていた。そうした社会の一員意識を持たなければ、商人としての立身も、外来商人としての永続的な存続も繁栄もありえないことを、商いを通じて習得していたのである。
 
また、天候や自然災害に景況が大きく左右された時代、職人の仕事がなくなると、商人の本家は、そういった時期にあえて豪華な家を作ったり、改築や修理などを行い、地域の経済を活性化させる事業を行った。このような行為は「お助け普請」と言われ、京都に店を持った中井正治右衛門は、1000両を拠出して現代では30億円にも相当する瀬田の唐橋の架け替えを完成させている。
 
さらに、鎌倉時代から続く近江商人たちが編み出したしくみは、日本の共同経営の起源だとも言われる。以下、http://fxthegate.com/2008/01/67.htmlから記事を引用。

江戸時代に京都、大坂、江戸の三都市を中心に行商をしていた近江商人は、早くから情報の共有や競争の回避、旅行の安全などを目的として「講」という団体組織を作っていました。「講」はもともと出身地別または行商先別に結成されていましたが、のちにこれが発達して権益や商権の保護なども行うようになり、株仲間のような同業者組合的性格を持つようになりました。
彼らは経営の範囲が広がると個人が資本を出し合い、乗合商合組合商合を行いました。これは一種の共同企業体で、個人事業では資金面、技術面、人材面、労力と時間の観点からリスクが伴うプロジェクトを合資制度による企業体形成で実現しようとするものです。共同出資にすることでリスクを分散するとともに、ヒト・モノ・カネ、情報、技術、信用などの経営資源を共同で利用し、その有効活用を図ったのです。

●江戸の定年「のれんわけ」制度
以下、退職金から支援金へ~江戸時代の定年「のれんわけ」制度の可能性~からの引用

「のれんわけ」制度は、もともとは奉公人の年季明け(奉公契約期間の終了)に、奉公人の独立手助けに「のれん」を現物支給したのが始まりで、やがて「のれん代」という独立援助資金に変わり、さらには長年の奉公への報奨や慰労のお金へと変わっていったようだ。
この制度が優れていた点は、概ね以下の3点にあると考えられる。
1.奉公人が奉公を終了しても職を失わない。
  (根無し草にならない)
2.のれんわけされた分家の評判は、直接主家への評判に繋がる。
  売り上げの一部は主家に上納される。
  (地域や時代によって差がある)
  のれんわけすることで、主家・分家がともに栄えていく。
3.優れた技術継承システム=供給者育成システムとなっている。
  奉公人は「独立」を目指して頑張る。
  つまり「のれんわけ」は活力源でもある。

この定年「のれんわけ」制度は、江戸幕府も支援していた。現代風に言えば、政府・企業・個人が一丸となって支えあい、技術を継承し、活力を生み出していた と言える。
 
3.まとめ
このシリーズの前半の記事で紹介した、西洋を中心に発達してきたギルドや株式会社は、個人或いは出資者は互いの私権を維持・拡大するために組合や会社組織をつくり、争いを避ける為に契約によって人と集団が結びつく
 
これに対し、日本の自治集団や商人集団は、集団が安定的に生き延びていくために、個人の利害よりも、皆の充足=活力を高めていくことが優先される。その核となる共認内容は、上から与えられるものではなく、自分達で行動規範を定め、自主的に集団を運営していくことが結束軸となっている。
 
さらに、集団を超えた企業活動においても、自集団の権益を拡大することよりも、地域や社会の永続的な繁栄があって始めて自集団も安定的に商売ができるという思想のもと、経営方針を判断し、それが結果として長く社会にも受け入れられ、企業が存続していく原動力となっている。
 
次回は、 「近代(明治以降)の会社形態の変遷」について紹介です。
 
引き続き、応援よろしくお願いします

 

コメント

>私権追求の欠乏が衰弱してゆく以上、「自由」を追求する欠乏も無意味化し、空中分解してゆくが、顕在意識は相変わらず「自由」という観念に支配されたまま
確かにこれは怖い。
この、一見誰も反対することができない「自由」を振りかざして経済的にも、政治的にも他国を支配してきたのが米国。
でも今、そんな米国の「自由」の裏に隠れていた狡さが、エジプト“革命”やTPPを巡る議論で露呈し始めている。
そんな姿を見ているといよいよこの「自由」という価値観念も崩壊過程に入ったと感じています。

  • 羊熊
  • 2011年2月3日 11:53

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