2011年02月07日
共認時代への道しるべ~潮流4:輸血経済(自由市場の終焉)
はじめまして 😀 岩井です
今回はじめてブログを書きます。
私事ですが、ネットサロンに参加して5ヶ月が過ぎます。勉強していくにつれて、初めはわからないことでも点が線になってつながってくることを実感します。こうなるとストンと何かが落ちてくる感覚がして、活力が出てどんどん楽しくなってきます。
そんなこんなでブログですが、今回は経済のシステムについて根本から立ち返りながら、時代ごとの意識の変化を見ていきます。それでは、早速本文に入っていきましょう。
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生存圧力が衰弱すると、私益追求の欠乏も力強さを失って徐々に衰弱してゆく。そして’70年、三種の神器が行き渡り、ほぼ豊かさが実現されると、物的充足が飽和限界に達したことによって需要が頭打ちとなり、市場は拡大を停止するしか無くなった。
生存圧力とは飢えとの闘いであり、私益追求も飢えから逃れるために誰もが必要としました。
ところが、当時みんなが憧れた三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)までもが、ほぼ全世帯に普及すると、物が欲しいという願望はどんどんなくなっていったのです。
需要の頭打ち(→市場縮小)に危機感を感じた財界、政界および学者、官僚、マスコミの者たち(以下、特権階級と呼ぶ)は、不足する需要を補うために、今日までに900兆もの資金を市場に流し込んできた。そして残されたのが、もはや返済不可能な国の借金である。(注:但し、金貸し=中央銀行から紙幣発行権を剥奪し、国家紙幣を発行する形に切り換えれば、忽ち国の借金はゼロになる。)
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物が欲しくなくなると物は売れず、やがて市場は縮小過程に突入します。
それを良しとしない政府は、お金をバラまいて無理やり需要をつくる手段にでました。
そして、全予算の30%の歳出を占める、ばら撒きの典型である福祉政策もこの頃から始まったのです。
’70年以降の大本営が発表するGDPから、毎年市場に注入された国の借金(国債・地方債etcの借入金)によって作られた人工需要を引くと明らかなように、毎年のGDPはマイナス成長となる。つまり、自由市場は、豊かさが実現された’70年以降、縮小過程に入ったのである。現在の市場は、国家による資金注入という輸血装置によって生き延びている人工市場なのであって、決して自然な需要と供給に委ねられた自由市場なのではない。従って、当然、大きな歪みが発生してくる。
今まで政府は、国力=経済力(GDP)という幻想の中にいました。だからこそ、豊かさが実現した70年以降は、実態経済は下降の一途を辿り、『輸血』という生命維持装置でごまかすしかなかったわけです。ただし、それはごまかしであるから、身体からは歪が生じてきます。それが900兆円という現実味のない数値の借金として存在するようになったのです。
需要が飽和している所に、巨額なマネーを流し込んでも、市場は余分なマネーでジャブジャブになるだけである。しかし、いくらマネーでジャブジャブになっても、常に供給過剰・需要不足なのでインフレにはならない(=余分なマネーが吸収されない)。そこで、必然的に余分なマネーは土地や株式etc供給に限界のある投機商品に流れ込み、投機商品のハイパーインフレ=バブルを生み出す。
こうして’85年以降、日本経済は世界の先頭を切って、バブルによってGDPを水膨れさせる偽りの経済=バブル経済に突入していった(続いて’90年以降、米欧はもちろん、新興の中露も巻き込んで世界中がバブル経済に突入してゆく)。
つまり、’85年以降、市場はバクチ経済の段階に突入したのである。
今の株式制度だと、会社は、株主に牛耳らて何も身動きがとれなくなってしまいます。ファンドが日本企業を買い漁る中、まさに現在、金融の魔の手から脱却しなければいけないときにきているのだと感じます。「一体会社とは誰のもの?」という根本的な疑問をもう一度振り返る必要を感じずにはいられません。
自分たちの企業は、自分たちでつくる共同体企業の時代になった今、それが実現できる時代へとなったのですから。
次回は更に踏み込んだ経済の世界をみていきます。ではまた。岩井でした。
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