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2011年07月01日

「人口減少社会の衝撃!!これからの働き方はどう変わる?」10~労働法の狙いと社会背景2~労働組合法は日本弱体化のためつくられた

シリーズ10回目 、これまで扱ってきた内容は

Ⅰ.人口構造の変化・・・・・シリーズ1~4回目
Ⅱ.産業構造(生産様式)の変化・・・・・シリーズ5~8回目
Ⅲ.労働法の矛盾:新しい働き方が必要となる時代
労働法の狙いと社会背景1~明治維新~戦前まで・・・・・シリーズ9回目

前回は、社会や企業組織のあり方や人々の価値観を変えてきた労働法 について、明治維新~戦前までの法の目的(狙い)とそこに至る社会背景(外圧状況)を扱いました。
その中で、西洋式の賃金・時間管理制導入への反発など、様々な労使対立を生みながらも、日本の国力は西洋と肩を並べるぐらいになりました。その背後には、国家も企業も個人も、「富国強兵 」という共通目的があったからということが分かりました。
今回は、前回に続き「労働法の狙いと社会背景」の2回目、「戦後~’70まで」を扱います。
その前に♪
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◇GHQによる民主政策、労働組合を通じた要求運動の自由化
敗戦 によって連合国の占領下に置かれた日本は、GHQの民主化政策の一環として労働組合の結成が積極的に奨励されました。日本の労働関係法の基本的枠組みは、この時期に制定された憲法と「労働三法(労働組合法、労働関係調整法、労働基準法)によってできています
[労働法年表:戦後~’70豊かさ実現まで]
pic1.bmp
1947年には組合運動は官民問わず全面解放、8時間労働制が採用されます。そして、1949年には労働組合が1.2万組合、368万人組織(全労働人口の41%)まで増え、組合からの様々な要求(運動)に対する法制化が進みます。例えば、
1954 厚生年金保険法改正(定額部分の導入支給開始年齢60歳への引き上げ)
1959 低賃金・合理化反対、産業別統一闘争「春闘」展開
1959 最低賃金法公布、国民年金法(国民皆年金)

などです

◇労働組合法は日本企業弱体化のためにつくられた
労働組合法の制定以降、労働組合運動が全面的に開放されたとは言え、戦後わずか2年で368万人とは凄まじい勢いです しかも、人々の“働き方”を規定する労働基準法(1947年制定)よりも先に、労働組合法(1945年)に制定されたのはどのような理由があったからなのでしょうか?

pic2.jpg
写真は全労連より使用
以下、るいネット「何故、労働基準法よりも先に労働組合法が制定されたか?」から引用

「日本労働政治の国際関係史」より
占領初期の対日労働政策を確立したと評価される1945 年12 月28 日の国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書SWNCC92/1「日本の労働者組織の取扱い」は、次のような認識の下で執筆された。
すなわち、戦前日本の国際競争力が不当に高かったのは、半封建的で家父長主義的な労使関係ゆえである。労働組合を育成し、労働者の生活水準を向上させ、近代的な労使関係を発展させることによって、日本経済は低賃金輸出ではなく国内消費を基礎とするものに変化し、それまでの軍国主義的な性格を払拭するであろう。
軍国主義と闘ってきた労働組合を育成することは、総評の結成と左傾化に寄与するが、そればかりでなく、日本経済の構造を変化させ、占領政策の目的である非軍事化を促進する。要するに、前近代的な労使関係がソーシャル・ダンピングを可能にし、それが侵略主義的な日本の政治や経済の背景になっているという認識が、労働組合の育成策の根幹をなしていたのである。
******************************
この労働組合法制定の前に財閥解体令が出されている。つまり、アメリカにとって日本の労使協調的な企業組織を復活させることが最も脅威であり、それらを解体することが先決事項であったことがよく分かる。
すなわち、労働組合法の制定は日本の国力を弱体化することが最大の目的で、教科書に書かれている民主化とはあくまで建前であったということだ。

◇米の「対日占領政策変更(反共の基地)=経済力強化」と「豊かさ期待の実現」が労使協調を促す
ところが、その後日本 は目覚しい経済成長を遂げ、世界第二位の経済大国となり、アメリカの経済を脅かすほどの国力を持つようになります
日本は、労使交渉に於いて欧米のように激しく対立する訳でもなく、労働組合は年功賃金と雇用保障の獲得と引替えに、経営者側の労働時間の運用と雇用調整に柔軟に応じてきました。いわゆる労使協調路線が敷かれたのです。これにより企業は生産力を維持することができました
しかし、日本企業弱体化のため労働組合運動が開放されたのに、何故、日本企業は高い競争力を維持できたのでしょうか?
戦後労働組合運動が活発化する中で、戦前から治安維持法の下、沈静化していた共産系の組合運動が活発化しました 国際関係でも米ソの冷戦に代表される東西対立が激化し、1950年の朝鮮戦争を境に共産系労働運動の排除が行われます。これは対ソ封じ込め作戦「レッドパージ」と言われ、日本を「反共の基地」として機能させるために、アメリカは対日占領政策を変更することになります。つまり、これがその後日本の経済力を強化 することになる訳です。
[1950年当時の共産圏]
pic3.JPG
さらに

戦後の大衆運動や学生運動を担った者たちの動機は、潜在意識では私権追求であるが、顕在意識では「大衆のため」というのがその動機であった。つまり、潜在意識では豊かさ期待の実現という社会的な期待に応えるという大義名分を以って闘っていたのである
豊かさ期待は社会の意志(ベクトル)であり、この中に大衆も特権階級も包摂されていた。その点では大衆も特権階級も一体であり、だからこそ両者は繋がっていたのである。この見方は、’70年豊かさが実現され、豊かさ期待が衰弱すると同時に大衆運動が衰弱したという流れとも合致している。

以上「9/23なんでや劇場 (1)~大衆と特権階級を繋いでいた、豊かさ期待という社会意志」より引用
つまり、日本が戦後、奇跡的な復興を遂げた背景には「豊かさ期待の実現 」という社会の強い意思が働いていたと考えることができます。
ところが、’90以降は急速に日本経済は失速し、人々の働き方も徐々に変質していきます。
次回は’70以降の労働法の目的(狙い)とそこに至る社会背景(外圧状況)について紹介したいと思います

 

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