2012年07月11日
日本のものづくり 製造業はどうなる?~後編~
現在、製造業の各企業は、年々海外シフトを強め、海外への工場移転以外は生き残る術がないような様相を呈しています。一方で冷静に考えると、それほど必要とされていないものを次々に生産し、消費意欲の過剰刺激によって無理矢理売上を伸ばそうとするさまは、既に社会的な目的意識を見失っているようにも思えます。
今回は、問題の根本原因から、製造業の向かうべき方向性を明らかにします。
まずは、現在の問題の構造を、前編の復習を兼ねて再度押さえ直します。
■製造業の直面する問題の構造
●アメリカ型経営への転換が閉塞の発端
バブル崩壊以前、日本企業は、社員を大切にする、共同体的な日本的経営によって営まれていました。社員を大切にすることは、国や社会における企業の存在意義を確立することと同義であり、かつてそれは「国・社員を豊かにする」ことでした。重要なのは、社員を守る、社会に貢献することが企業の第一義の目的であったことです。利益を獲得することは、時代状況に鑑みたときの手段に過ぎなかったのです。
しかし、バブル崩壊を境に、状況は一転します。日本的経営が「経営効率」という近視眼的なモノサシによって槍玉に挙げられ、アメリカ型経営への転換が強引に進められます。実際に日産自動車等のリストラを核とする改革事例が生まれ、マスコミも一斉に成功事例として賞賛し、後押しします。株主利益を最大化することが目的化していくのです。
しかし、これは、かつて日本の企業が持っていた、社員を守るという目的を完全に放棄したということに他なりません。
その後も、自社利益を伸ばそうとグローバル戦略一辺倒になり、更には日本人の人件費が高いとなると、海外に工場を移転、海外シフトを強めます。そして、大量生産を前提とした効率化を推進し、価格競争に勝ち抜いていかなければ生き残っていけない、そのためには海外シフトしかないということが絶対条件のように語られ、出口が見出せずにいます。
●短絡化するのは、経営の目的意識を失ったから
当然、製造業が持つ、生産効率を最大限に高めなければ勝ち残っていけないという特性はあります。しかしそれ以上に、企業の目的意識が自分たち(経営者・株主)の利益を上げることに矮小化されたことで、経営戦略が次第に短絡化し、目先の利益を確保することしか考えられなくなっているという要素の方が強いように思えます。製造業を保護する国の政策も、間違いなくこの短絡化、目先化を促進する要因となっています。
急速に円高が進み、経営戦略を大きく見直さなければいけなかったバブル前は、外圧に応じて試行錯誤しながら適応していました。バブル崩壊後に一気に短絡化してしまうというのは、そこに何らかの大きな転換があったとしか考えられません。
●枠組みの中でしか思考できない試験エリート
現在、大企業の経営を司るエリートの多くは、大半が貧困=本当の私権圧力を知らず、従って本当の目的意識を持ち合わせていません。彼らは、単なる試験制度発の「合格」という無機的な目的意識を植え付けられてひたすら試験勉強に励み、「特権」を手に入れたのです。
また、彼らの大半は、試験制度という与えられた枠組みの中でひたすら「合格」を目指してきただけで、その前提を成す枠組みそのものを疑うという発想が極めて貧弱です。
従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の制度の枠組みの中で走り続けることになりますが、もはやそこでは、既存の制度によって与えられた特権の維持という目的以外の目的意識など生まれようがありません。
参考:「大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち」
製造業においても、効率化、人件費削減、海外進出などが枠組みとなり、その中で走り続けているのが現状と言えるでしょう。TPPの推進など、まさに自分たちの特権の維持を目的としており、自家中毒の典型です。
バブル崩壊以降の20年、産業界はグローバル経営(アメリカ型経営)の扇動で市場拡大・経済成長が全てに優先するという空気になりつつあり、製造業大手は「これからは海外市場、アジアの成長を取り込む」「TPP」「原発再稼働」の方向に進んでいますが、本当にそれでよいのでしょうか。
この国のエリートは視野狭窄→思考停止に陥っているというほかなく、根本的な発想の転換が必要でしょう。
少なくとも下記の視点を真剣に考える必要があります。
金融危機→世界経済失速→市場崩壊の危機が現実のものとなりつつある。これは金融のみならず実体経済に深刻な打撃をもたらす。
環境破壊。あくなき大量生産・大量消費、莫大なエネルギー消費を続ける現在の経済・産業構造はいずれ維持不能となる必然。
※参考:環境産業の可能性はどこにあるのか?
人々の意識、根源回帰の大潮流。「もったいない」「節約」「足るを知る」。過剰情報で物欲を刺激する手法はもはや通用しなくなる。
※参考:市場の縮小と根源回帰の大潮流
■製造業を巡る問題の本質構造
1.利益優先、拡大至上の経営から脱却できないこと。こうした経営は必然的に大量生産・大量消費の市場を求め、資本効率の高い大企業体制を必要とし、価格競争から安い労働力を要求します。昨今の「これからは海外市場しかない」というかけ声も、利益のためには成長拡大が全てに優先するという発想が前提となっています。グローバル経営(アメリカ型経営)の矛盾と限界は冷静に考えれば明らかです。いったい誰のための仕事なのか、何のための会社経営なのか、その根本=「会社経営の志」から考えれば、別の道も見えてくるのではないでしょうか。
2.製造業の社会的射程範囲として、「つくりっぱなし、売りっぱなし」が許容されているという問題。製造・販売の「あとさき」が捨象されています。自らの生産活動が社会的にor次世代にどのような影響をもたらすのか、社会の公器としての企業にはその責任があるはずですが、次世代にツケが先送りされています。「製造業」という概念自体の見直しが必要かもしれません。
3.上記の結果、膨大な社会的浪費と非合理が放置されています。必要以上の物量を生産するために、あるいは物欲を刺激する機能や性能を開発するために、膨大な資源やマンパワーが投入されていることは社会的に非合理です。製品差別化のための膨大な品種に分割された生産、自動車産業など労働をより多く吸収する産業への傾斜(嗜好品に労働が乱費されている)、世界物流などです。結果、人類社会が「自然の摂理」から大きく逸脱しつつあることに根本的な違和感を覚えます。
■これからの製造業、ものづくりの進むべき方向性
1.会社経営の志=目的意識をどこに据えるか。グローバル市場に翻弄され利益に奉仕し続けることは本望ではないはずで、呪縛からの解放が必要です。「社会の本源期待に応える=社会の公器としての企業」「(物欲刺激による市場拡大ではなく)共認充足を目的とした生産消費」「皆の生きる場を皆の手で築いてゆく=共同体経営」に転換してゆくことが、長期的に企業が生き残る戦略となるでしょう。
2.ものづくり、技術の目的意識も変わります。経済利益のための技術、物欲のための技術ではなく、「維持可能な社会のための技術」「自然の摂理と調和する技術」へ。これまで真剣に目が向けられなかった分野でもあり、新しい挑戦です。その意味において科学、技術の重要性は変わりません。こうした新しいベクトルを持った技術革新、創造競争を促進する仕組みが必要となります。
3.工業製品の基本的な要求性能は「丈夫で長持ち、いつまでも使いやすい」ことです。これまでの製品は、複雑、巧妙、自動、高速、大容量、高性能、多機能に傾斜しすぎで人間の肉体機能や感覚から乖離するものが多いですが、今後はより「人間に寄り添った技術」「自然の摂理に則った技術」が必要になります。資本集約型の労働ではなく、頭と技を使った生産様式が重視されます。
4.つくりっぱなし、売りっぱなしではなく、そのあとが重要。「修理、リサイクル」を重視する仕組みが必要になります。従来の製造業ではなく、「製造と維持、製造と環境を一体的に捉えた業態」に変わっていくことが社会の要請になるでしょう。
5.技術者に求められる資質も変わってきます。次々と新しい製品や必要以上の機能を開発することが目的ではありません。これからは、技術のみならず、「人間、環境、社会とのより深い相互関係への認識」が必要となります。また技術の負面に対する研究や評価はより慎重に行うべきであり、科学技術に対する楽観的な万能感ではなく、「自然の摂理に対する謙虚さ、学ぶ姿勢」が求められます。
■社会の仕組みを変える政策が必要
現在の国の統合機関(政府、官僚、学者、マスコミ)は、国民のための政策ではなく、市場のための政策に舵を切っていますが、企業の方向性を転換していくためには、社会の仕組みを変えていく必要があります。
例えば以下のようなものになるでしょう。
①新しい会社法
投資家圧力発でなく長期的視野で経営する仕組み。投機のみを目的とした株式は制限、それに代わって社員共同出資の奨励。企業規模の制限など。「集団の自律性、社員の充足、活力上昇」あたりを軸に制度を変える。
②工業製品の耐用年数の引き上げ
製造から、修理、リサイクルまでの義務づけなど、一貫性を射程に入れた仕組み。こうした仕組みをつくるには、現在の大企業と下請けというようなピラミッド体制ではなく、「相互の信認関係を基にした企業ネットワーク体制」が適しているだろう。
③国際貿易の制限
基本は自分たちでできることは自分たちの手でやる、自国でできないことは互恵的に交易。現在の自由貿易主義は市場拡大だけが目的であり、国益=国民の充足とは一致しない。過度な国際分業は非効率だし、民族の自律性を損ねる。自給自足型、地産地消型の経済へ。
※参考:自然も人も壊す拡大型社会
■大量生産、大量消費から脱した製造業の企業事例
製造業が閉塞してゆく中で、旧来の利益獲得を第一とする大量生産・大量消費ではなく、修理・リサイクルを重視、維持可能な社会のための技術を模索している企業があります。
◆株式会社マウスコンピューター飯山工場(リンク)
受注生産で一台一台心をこめてつくられるオーダーメードのパソコンを手がけるマウスコンピューターは、熟練の職人さんがセル生産方式(一人が責任を持って一台のパソコンをくみ上げる)で作り上げるので、細かい注文も受注可能。
出来上がったパソコンは全て品質検査が行われ、お客さんに届けられたパソコンには、どの部品が使われ、誰が組み立てたかまで全部分かるようになっているほどの徹底ぶり。国内生産を貫き、品質向上に努力し続ける信頼のおける企業です。
◆信越電装株式会社(リンク)
自動車用スターターモーターなどの部品を扱う信越電装は、Remanufacturing(リマニュファクチャリング)という寿命を終えた製品から利用できる部品を取り出し、新品同等の性能を持つ製品に作り上げ提供することを1960年代から手がけ、「自家用車の寿命は10年」という常識をくつがえす“再生ものづくり”会社です。
◆中村コンプレッサー製作所(リンク)
大量生産、大量消費、つくりっぱなし、売りっぱなしという製造業が多くなってしまった現在、「自分で作ったところの責任を全うしたい」「お客さんに迷惑をかけない」「つくりっぱなしにはできない」と、製品全てに履歴書をつけて管理。
製造だけでなく商品の取り付けや販売、メンテナンスまで行う「製造・販売・技術」が一体となった業務業務スタイルを取り、日本でしかできないものづくりをおこなっています。
◆(有)多田プレシジョン(リンク)
どんな難しい注文でも断らず、人に出来ないものをいかに早く、希望する値段でつくりあげる。お医者さんでも休みはとるが、多田プレシジョンに休みはなく24時間ものづくりを引き受けるいわば「ものづくりの緊急医」。
そんな多田社長は、寝室でもトイレでも電話は離さず連絡はいつでもどこでもOKの状態になっているという。
プロとは、難しいものや人ができないものだけを作る人ではない。連絡が取れる、すぐやってくれる、当てになる人。それが本当の腕のいい人なんです。しかもそういう人は必ずいいものを造るんですよ。と金属加工50年余の多田社長の言葉からは、面倒見の良さ、職人教育、人間教育の経営が伺えます。
これらの企業の取り組みが示唆するのは、製造業の各企業も、あらためて「社会の公器」として会社経営の志を見直すべきときを向かえており、だからこそ、そこに向き合えば可能性が開けてくるということではないでしょうか。
そこで働く人、お客さん、地域、社会の期待に応える!喜んでもらう!という気迫ある企業が増え、研鑽する中で、永続的に社会の役に立つ本物の技術が生み出されていくことは間違いありません。目先の生き残り戦略を超えた、根本からの意識転換こそが、製造業が生き残っていく道だと言えるでしょう。
- posted by doUob at : 21:57 | コメント (0件) | トラックバック (1)
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