2012年12月13日
『共同体経営とは?』5-1 ~日本の村落共同体とは?① 主体性の高い集団自治
(画像はコチラからhttp://www.flickr.com/photos/sunday_driver/4754588160/)
こんにちは!
生物の誕生から始まった本シリーズも、いよいよ私権の終焉を迎え、共認原理へと移ってきましたね。これまでの記事をまとめて少しおさらいすると、
生物の誕生→群れの形成→人類の誕生
共認原理→私権原理
私権統合の終焉→共認原理
という流れで、生物の誕生から群れの発生、人類の誕生から統合様式の変遷について、時間軸に沿って紹介をしてきました。
そこで今回はちょっと立ち止まって、その先を考える上で重要になってくる時代認識についての追求を深め、共認原理の可能性について更に理解が深まるよう、 私たちが住む日本のことについてご紹介をしたいと思います
1. 人類の本源性 -共認原理の基盤-
1-1. 私権原理の終焉→共認原理へ
約5,000年前から人類を統合し続けてきた私権原理は、私権を絶対的価値においた略奪闘争(戦争)を生み、近代(始まりは近世)以降は、武力支配→資力支配へと力の構造をシフトさせ、更に勢いを増していきました。その過程の中で、原始時代に我々を統合していた人類の本源性としての共同体は次々と解体され、私権社会へと移っていったのです。
しかし、近代を迎えて二つの大戦を終えると、本格的な国際社会へと移っていきます。すると世界中で市場が一気に拡大して、これまで人類をずっと脅かし続けてきた飢餓の圧力(生存圧力)は驚くスピードで解消されていき、遂に70年代には(物的)豊かさが実現されました。このことは、人類史上において非常に大きな転換点となります。生物の誕生から続く、我々(生物全般)の本能に深く刻まれた生存圧力が衰退してしまったのです。
そうなると、飢餓の圧力(生存圧力)を前提に私権の絶対的価値を共有して成立していた私権統合は、徐々にその効力を失っていくのが自然の流れです。しかし、この時期に起きた世界的な経済の停滞に対しても、先進各国(資本主義国家)は未だ市場に可能性を求め続け、新自由主義や新保守主義といった概念に飛びつき、各国民は目先の効果に惑わされ続けてきました。つまり、本来であれば私権の絶対的価値を放棄するはずが、作り出された架空の価値に洗脳され続けたことで、私権への執着を強要されたとも言えるでしょう。
このように人類を統合してきた歴史を振り返ると、この先どうすればいいの?とわからなくなりますよね。しかし、前回記事に書かれていたように、実は次代への可能性は徐々にその芽を出しているのです。振り返ってみると、読者の皆さんにも当てはまることがいくつかあるのではないでしょうか?
1-2. 自分たちの生きる場を自分たちで創ってゆく
前回、前々回の記事を併せて人類史を広く俯瞰した結果、人類の集団統合の様式は、「共認統合」と「私権統合」の二つしかありませんでした。そして、今現在が私権統合。もうお分かりですね。私たち現代人に開かれた次代への可能性は、「共認統合」にあるのです。例えば、身近な学校や職場における場面を想像してみてください。決まって問題になることは、勉強や仕事の内容よりも人間関係の方がずっと多く、注目度も高いはずです。それらは裏を返せば、良好な人間関係をつくりたい、という欠乏の現れなのではないでしょうか。その証拠に、昨今の企業に求められる人材の能力は、職能を超えた幅広い認識や、その土台となる環境の構築に重きを置かれ始めています。具体的に挙げてみると、
・先の状況を見通す能力
・本質を掴む能力
・皆がスッキリできる答えを出す能力
・論理的に伝える能力
・相手のやる気を引き出す能力
・相手を巻き込む能力
・人間関係で充足を与える能力
・場に充足を生み出す能力
・相手の期待を掴む同化能力 etc.
こうなればいいなとか、もっとこうすればいいのにとか、みんなでこれからの生き方や社会について考えたい!と思っている人も多くいることでしょう。より多く、より深く周りの期待に応えて充足したいという欠乏が、上記の能力の獲得に繋がる原動力となり、「自分たちの生きる場を自分たちで創ってゆく」可能性が開けてくるのではないでしょうか。
前段が長くなってしまいましたが、このような背景から私たちが暮らす日本の歴史を振り返ってみると、私権統合の歴史の中でも人類の本源性である共認原理の基盤が、近年まで残存していたことがわかってきました。そして上述した「自分たちの生きる場を自分たちで創ってゆく」ということをごく当たり前に実践していたようです。そんなすごいことを当たり前にやっていたなんて、想像しにくいかもしれません。しかし、それは特別な階級や地域の人々ではなく、ごくごく普通の一般庶民が暮らす村々にあったのです。呆気にとられるような答えかもしれませんが、事実です。
それでは、そろそろ具体的な事例を見ていくことにしましょう。村で暮らす人の集団を総称して「村落共同体」と呼びますが、今回は特に日本の江戸時代の村落共同体に焦点を当てて、共認原理に回帰する現代における次代へのヒントを探ろうと思います。
(画像はコチラからhttp://blog.new-agriculture.net/blog/2010/04/001096.html?newwindow=true)
2. 主体性の高い集団(集団自治)
江戸時代の村落共同体の特徴として、先ず挙げられるのが「主体性の高さ」です。その背景を探っていくと、江戸幕府260年余りに渡る安定政権下で、農民の安定に対する期待が充足したことにより、自主的な集団自治が確立していったのではないかということ考えられます。「主体性の高さ」の秘訣は、どうやら農民たちによる集団の自治活動にありそうです。
また歴史を遡ってみると、私たちが一般的な学校の授業で習って江戸時代の農民に対して抱いてしまった、貧困に窮して支配されているというイメージとは全く違って、実は農民たち自らが自らの手で生きる村を自在に発展させ、充足たっぷりに生きてきたことがわかりました。そしてその集団による自治活動には、面白い取り組みが数多くあることにも驚きます。それらの取り組みは地域ごとにも微妙に形態を変えており、全部挙げだしたらスゴイ量になりそうです。
江戸の農民たちはアイデアマンだったんですね!
それでは、それらの中でも特に優れているもの・面白いものを抜粋してご紹介していきましょう。
2-1. 村の自治形式
(村掟(むらおきて):画像はコチラからhttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2003lec/2003lec23.html)
ある程度規模が大きい村になると、複数の集落を包含していきます。村の多様な相互扶助機能や共同体機能は、多様な集団によって分有されていました。その中でもとりわけ重要な役割を果たしていた集団のまとまりが村落共同体です。それらの多くは、独自の領域と住民を持ち、限定的な法(村定)を制定し、罰金を行使できるなど、自治的行政組織を持った集落である村請制村でした。つまり、村落共同体の形成が集団を統合するための高い自治体制を作ってきたということです。
その自治体制の運営を主体的に担っていったのが、名主(なぬし)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)などの村役人(村方三役)。名主(庄屋・肝煎(きもいり))は村役人の長として、村政全般に責任を負っていました。当初は、必ずしも三役が存在していたわけではなく、江戸後期までに段階的に整備され村役人制度が整っていったようです。
2-2. 村役人と農民との関わり
村を統治する村役人には、当然農民との関係能力が求められます。例えば、村を運営する行政能力や、困窮した小百姓のために年貢などを立て替えることのできる経済力が必要で、また、蔵書を村人に貸し出すというような文化面での貢献や、村人の相談に対応できるだけの農学的・医学的知識が求められることもあった、と言われるくらい多様な役割を担っていたことが伺えます。この役割は有力百姓が世襲したり、輪番制をとったりしていたようですが、村人による投票(入札)方式をとる村が次第に増えていきました。
(村民たちの合意を示す連判状:画像はコチラからhttp://www.hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/sonota/00000087/5.html)
村の運営については、年貢勘定のように、庄屋が主導権をもって村人たちの運営の実態を公開することで、運営への参加を促すという一面がありました。それと同時に、惣百姓(百姓全体)は、自分達の問題は自分達で解決しようとし、方針が決まったあとで庄屋の了承を求め、庄屋もまた惣百姓の意向を尊重するという一面もありました。それらが同時に成立しつつ、バランスよく保たれていたと言いますから、その信頼関係やお互いのことを認め合う慣習に興味が湧いてきますね。こうした相手への同化意識をもった関係の構築が、村の自治体制を後押ししていたのではないか、と想像させてくれます。
2-3. 土地と年貢の自主管理体制
江戸時代は、土地は検地帳に登録された百姓(名請人)の名義になっていたようですが、それによって個人の私有地になったわけではないそうです。なんと土地は村が所有していた、とのことです。その事例が以下の四つです。
・割地
=不公平が生じないように、何年かに1度、定期的に、くじ引きなどによって所有地を交換する取り決め
・無年季的質地請戻し慣行
=村人の没落を防止するため、質に入れた土地を無期限・無利息で請戻しされる慣行で、何年経とうと元金だけ返せば土地を取り戻せるというもの
・村議定での取り決め
=他村の者に質入れ、売却、譲渡を禁止し、村人に、取引相手の斡旋、村がお金を出して土地を質に取るなど、村人の援助措置
・都市への移住などの場合
=村に土地を返却するという定め
また、村をつくるという意味での「村普請」は、村の自主性を特に育んだと言えます。村毎の納入額と割付の原則を示し、個別の割当・徴収は、すべて村に任せていた「年貢割付状」というものがあります。領主が提示した額を百姓が了承して請け負うという形式ですが、納得ができなければ、異議申し立ても可能というものだったようです。さらに、年貢を徴収する前提として、領主には一定の責務が求められ、大河川の治水工事など農業基盤の整備に努め、不作のときには困窮百姓に米や金を支給していました。領主は百姓に「仁政」を施し、「百姓成立」を支えるべき責任を負うという役割分担の上に成り立っていたことが伺える事例です。
(画像はコチラからhttp://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/1261767.html)
(画像はコチラからhttp://www.geocities.jp/general_sasaki/osaka-hattori-ni.html)
このように江戸の村落共同体の人々は、個人単位ではなく、自分たちの村という単位で物事を考えていたようです。村の土地を守り、年貢徴収に付随する役割分担を領主と村が互いに共認することで、大きくは領地全体が栄え、自然に自主管理の体制が整えられていたことがわかりました。
2-4. 村八分
江戸時代に成立した規範の一つとして有名な「村八分」という概念があります。
一般的には、仲間外れ、除け者にする厳しい制裁として捉えられていますが、実は「村八分」も日本特有の規範なのです。
「村八分」とは、共同性、つまり集団規範を守ることで生活を維持していたからこそ、規範破りには制裁を加えるという、至極当然の取り決めに過ぎません。「付き合い十分」という生活の基本となる共同規範(誕生、成人、結婚、死亡、法事、火事、水害、病気、旅立ち、普請)がまず先に有り、村の取り決めを守れないものには、火事と死亡のニ分を除いた八分に関しては力を貸さない、という取り決めです。共同体の中に全ての生活基盤が組み込まれていた時代ですから、八分を外されるだけでも実質生きていけないくらい厳しいものであったのは事実ですが、それでも尚火事と葬式だけは最後まで見捨てずに面倒を見る、というのが「村八分」の本質部分であったようです。仲間として期待しているからこその制裁でもあったのでしょう。
勿論、それ以前に火事は誰が原因であろうと対処しなければ成りませんし(村全体が巻き込まれる可能性がある)、亡骸を放置するわけにも行かないという実情もあっての事でしょうが、村を追い出す事は無かった、という点こそが注目ポイントでしょう。裸一貫で村から追い出されたら、それこそ生きていくことなど出来ないわけですから、どんなに勝手ワガママな振る舞いであったとしても、厳しく対処しながらも見捨てることはありませんでした。そして、亡くなれば村人総出で葬式を上げ、全ての過ちは許す、といった心粋とも感じ取れます。
2-5. ゆりかごから墓場までを村全体で見守る体制
大家族制度で知られる飛騨白川郷からの江馬三枝子氏の考察も面白いです。
(白川郷:画像はコチラからhttp://www.geocities.jp/general_sasaki/osaka-hattori-ni.html)
飛騨白川郷の大家族の家々では、一軒の家の縁側に、嬰児籠(エジコ、エズメ)と呼ばれる藁でつくった入れ物が六つも七つも並べてあり、その容器に赤ちゃんたちを入れて、母親たちは田畑へ農作業に出かけていきます。仕事を終えて家に帰ってきた母親は、まず泣いている赤ちゃんに乳を飲ませます。それは誰の子でも差し支えないそうです。満腹して赤ちゃんが泣きやんだら、自分の子に乳を飲ませますが、前の子に充分飲ませるために自分の子が飲み足りないことがあります。すると次にやってきた母親に自分の子供を渡して、乳を飲ませてくれと頼み、また働きに出かけていく、といった日常の風景であったようです。
(嬰児籠:画像はコチラからhttp://www.akita-gt.org/data/noson/noson-04.htm)
この話は、真の共同生活を確保するためには、女たちの育児の共同性にまで及ばないとならぬことを示唆している事例と言えるでしょう。子供が生まれた場合、母と子の強固な紐帯が生まれることで、他者との連帯を脅かすようになることは必至です。白川郷の場合、それが巧みに抑止されている様が伺えます
生産集団である共同体を基盤として、それを維持するための規範に基づく行動が残存していていたことがわかりました。共同体を構築、維持するためには生産・闘争過程だけを共同にするだけでは不十分で、子を育てるといった生殖過程も包含しなければいけないことを現しています。また、誰の子という拘わりなく育てていくことで女性の自我も自然と抑制される、または自我が萌芽しないと言った方がいいかもしれません。
この事例を見ると、村落共同体とは「闘争と生殖が包摂された集団」であったことがわかります。安定した社会基盤を持ってしても、生産というかたちの闘争に常に生活が付随しているのです。意識が個人に分割された現代での、お互いの助け合い(情報交換)といった母親たちの動機に比べると、集団に立脚している分、闘争過程と生殖過程に隔たりがなく、相互扶助の度合いの高さを私たちに教えてくれますし、村落共同体の女性の方により強さを感じます。
また、七五三や節句などの行事に見られるように、江戸時代は(子どもにとって強い生存圧力があったため)子どもが無事成長することが一番大切だったことは明らかです。7歳になれば「子供組」という集団を組み、大人の指導の下、様々な行事を行い、15歳になれば、一人前の村人と認められ、男は「若者組」、女は「娘組」に属し、それぞれの仲間の交流を深め、集団の規律を学びます。このように段階的に集団での生活を学ぶ体制を村全体で支えていたことが村落共同体を形成して存続させる大きな要因だったことは想像に難くありません。
加えて、世界的にも高い識字率を誇っていた江戸の教育の中心であった寺子屋の師匠や村人全員に関わる医師の調達には、村が率先して雇っていたり、婚姻・葬儀・祖先祭祀といった村の大きな関心事も村全体で担い、老人・病人・孤児といった社会的弱者への保護・救済機能も村で担っていたこともわかりました。
(村の祭り:画像はコチラからhttp://www.art-museum.pref.yamaguchi.lg.jp/artmuseum/cgi-bin/detail?attrul=AE&id=00000346)
このように、ゆりかごから墓場まで村をあげて担っていたのが村落共同体の真の中身(本質)とも言えるでしょう。
3. まとめ -主体性の高い集団自治-
いかがだったでしょうか。
私権の終焉→共認原理を契機に、日本の村落共同体の歴史を探ってきました。江戸時代を中心に歴史を振り返ってみましたが、実に多くの気づきを与えてくれました。また、本記事で挙げた村落共同体における「主体性の高い集団自治」は、「自分たちの生きる場を自分たちで創る」という冒頭に挙げた考え方の実践とも言えます。
また、物的財産ではなく、その可能性や仕組み・考え方を次代に継承していくために、子どもの教育にその可能性を模索したことで、1800年前後を境に農村まで含んだ庶民の間で寺子屋が急激に増えました。この時代の日本は、世界にも稀な「主体的な勉学」への意識が高まっていたのです。そして主体的な活動は、必ず村全体(みんな)に思いを馳せることで成立していたことでもあります。個人の自我に立脚した活動であれば、必ずどこかで頓挫していたことでしょう。それは、現代においても同じことで、昨今のKY(空気が読めない)という流行語の出現は、現代に生きる人々が共認原理への回帰を無意識に渇望していることの顕われ以外のなにものでもありません。
また、今回の記事のために村落共同体を調べていく過程で、「主体性の高い集団自治」と共に重要な認識として、村落共同体とは「闘争と生殖を包摂した集団」である、という認識も得られました。次回は、この「闘争と生殖を包摂した集団」ということに焦点を設定し、江戸時代という枠のみならず、より広くその構造を明らかにしたいと思います
(田植え:画像はコチラからhttp://hibakama.seesaa.net/upload/detail/image/NGY200905250005-thumbnail2.jpg.html)
参考・引用文献&参照記事
・「百姓の力――江戸時代から見える日本」(渡辺尚志:著)
・村落共同体の規範について
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=3753
・江戸時代の村落共同体のありよう(1)~農民自治の広がり~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240154
・江戸時代の村落共同体のありよう(2)~村の多様な役割~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=240155
・江戸時代の村落共同体のありよう(3)~領主との関わり
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240157
・江戸時代の村落共同体のありよう(4)~村どうしのネットワーク~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240158
・江戸時代の村落共同体のありよう(5)~貨幣経済の浸透~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240162
・江戸時代の村落共同体のありよう(6)~豪農も共同体を守った~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240174
・江戸時代の村落共同体のありよう(7)~主体的な勉強意欲の秘密~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=240175
- posted by asato at : 23:59 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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