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2014年12月25日

新聞の歴史とこれから②~瓦版の普及からみえる日本人の情報への関心の高さ~

前回:プロローグでは、民間企業による地方新聞社を紹介し、民間では、御用新聞としての全国紙では報道しない、事実報道の可能性があることを知りました。

一方現在は、新聞離れが進み、今後もその流れは止まらない状況ですが、このまま新聞は衰退してしまうのでしょうか?ネットにその座を奪われてしまうのでしょうか?或いは新聞の復活はありえるのでしょうか?

それを占うためにも、今回は、これまでの新聞の歴史をたどり、人々はどのように新聞と付き合ってきたのか!?その背景は、可能性基盤はなにか?そして、これからの新聞はあり方とはどのようなものなのか?といった新聞の可能性を探っていきます。

まずは、江戸時代の新聞の前駆:瓦版、飛脚についてみていきます。 

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以下、【日曜版】新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第一回 かわら版と飛脚】

からの引用です。

*****************************************瓦板

◆瓦で印刷するから“かわら版”

現在、記録に残る最古のかわら版は、1615年の大阪夏の陣の様子を描いた絵図『大阪安部之合戦地図』とされています。天下分け目の合戦における各大名の陣地や大阪城が炎上する様子が描かれたこのかわら版は、当時の民衆にとっては一大ニュースであったに違いありません。

かわら版はその名の通り、瓦にする土を固めて天日に干したもの、またそれに火をかけたものに文字を彫り付けて版木として印刷したと考えられています。多くのかわら版は、心中や敵討ち、飢饉のようすなど絵で表した上に文字が書かれていました。多色刷りで描かれたかわら版の絵は大変美しく、絵師たちの筆によって臨場感たっぷりに事件が伝えられていたことがわかります。

しかし、江戸時代初期のかわら版売りは深い編み笠をかぶり、こっそりと人目を忍んで売り歩いており、身分の低い職業だったようです。しかし、江戸時代中期以降は編み笠をかぶらずに、かわら版の内容をリズムをつけて声を張り上げて読み上げながら売るようになりました。現代の時代劇に現れるのは、この時代のかわら版売りの様子のほうなのです。

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瓦版が、手間隙のかかる多色刷りで、かつ絵入りであったことは、驚きです。それほど、情報提供者の志が高かったということでしょうか!?また、売るための口上が一般的になったようすから、如何に人々の興味関心を喚起するかが、情報拡散の基本になるようですね。

引き続き、引用紹介します。

瓦版がどのような情報を、どのように伝えたのか?を伺い知ることのできる内容になっています。

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◆飛脚は江戸時代の通信社

ニュースを伝えたのはかわら版だけではありませんでした。幕府や大名、役人の書状を運んだ飛脚は、命ぜられて火災や洪水の取材をして情報を伝える役割を担っていたようです。また、徳川時代の中期以降は、飛脚屋が公式の災害通信を扱うようになり、大地震や大火事が起きたときにはめざましい活躍をみせています。飛脚は各地のニュースを集めるだけでなく、その情報を手書きや印刷して関係方面に知らせてもいました。かわら版を作る書店なども、飛脚をニュースソースにしており、江戸時代における通信社的な役割を担っていたといえます。

◆かわら版が伝えたニュース

かわら版は、戦争の陣地の様子や火事・地震や火山の噴火など災害のニュース、心中や敵討ちなどの人情話やウワサ(ゴシップ)のほか、江戸末期には徳川家と天皇家の動きなどの報道まで、人々が知りたがる情報を1枚ないし、2枚ほどの紙に刷り、読み聞かせながら売りました。かわら版の値段は、江戸時代を通じて3~4文。当時のかけそばの値段は16文ですから、庶民が気軽に手に取れる値段だったといえます。

しかし、かわら版は心中事件などをセンセーショナルに書き立てて煽ったため、ときには“人心を惑わすべからず”と幕府に取り締まられることもあったようです。幕末に、ペリーの黒船が来航したときなどは、幕府は「異国船についてあれこれ言い合うことはしてはいけない」と厳しく町触れを発したため、このことを伝えたかわら版は残っていません。しかし、異国船の来航が広く知られるようになり、幕府の支配が揺らぎ始めるにつれて、政治の動きを伝えるかわら版がさかんに発行されるようになっています。

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飛脚が通信社的な役割で、時には現地特派員として機能していたことは、初めて知りました。また、情報としては、戦争や火事、地震等の自然災害、人情話や噂話などとは、人々が興味関心を抱く内容は、現代も変わらないということでしょうか!?

つづきます。

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◆テキスト好きは日本人の特性?

江戸時代においては、庶民が幕府や藩の政治に対して口出しをするということはご法度中のご法度。かわら版が伝えるニュースは、社会記事に限られていました。“世の中が知りたがるニュースを伝えて共有する”ことがかわら版の主な役割であり、風刺やからかいを文章や絵にこめることはあっても、何らかのオピニオンを伝えるものではありませんでした。

江戸時代を通じて発行されつづけたかわら版は、民間で発行されたメディアとしては、その歴史の古さと種類の豊富さでは東洋一と言われています。このかわら版文化の隆盛は、現在の日本におけるネット上のテキストメディア(メールマガジンやブログ、掲示板の書き込み)の多さに通じるように思われます。身近な出来事や世の中の関心事を書き綴り、またそれを読むことを好むのは今も昔も同じ日本人の特性なのではないでしょうか。

現在、ネット上にあふれているテキスト群も、400年後の世界で「当時の日本におけるブログおよび『2ちゃんねる』と称する掲示板の書き込み量は世界一ともいえるものでした」などと書かれ、歴史資料になっているのかもしれませんね。

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当時、瓦版は、民間メディアとしては東洋一とのことで、その背景に、日本人は昔から現代まで、情報に対する欠乏が最も高い民族の一つである可能性が高いということです。

そのことは、よその地域情報や特技等を持っていれば、旅籠に無料で泊めてもらえたということからも伺えます。

また、江戸時代の寺子屋の普及や識字率の高さ(80%余りと言われています)などからも、情報そしてその活字媒体に対して庶民が慣れ親しんでいたことも明らかです。

(以下の記事参照)

参勤交代によって発達した交通網や、誰でも安心して旅ができる秩序化された社会、そして、お金が無くても地域の情報や、絵や和歌などの素養があるだけでも宿に泊めてもらうことが出来たといわれるほど、対外情報に対する好奇心旺盛な人達が数多く存在していたということ、さらには、うまくいっている人・集団から学ぶ、“まねる”という本源価値を有していたということがあげられます。

このことから、1800年前後から急激に増え始め、後期には15,000余りを数えた寺子屋という、世界に例を見ない【自主】学校の普及や、当時の世界でも群を抜く高い識字率の背景には、文字による共認形成が不可欠な共認社会であったという側面と、村人自身が文字を実現基盤、或いは充足基盤と捉えていた側面があったように思われます。

江戸時代の村落共同体のありよう(7)~主体的な勉強意欲の秘密~

情報への欠乏の根本的な動機として、以下の記事を紹介します。

このように、生物にとっても外圧の把握は最先端課題であるが、とりわけ人類にとっては未知なる外圧への収束と追求が第一義課題となっている。この未知収束の回路こそが、追求充足と観念機能を生み出した源泉であり、人類の知能を著しく進化させた本体である。 (たいして中身がないと分かっていながらも、メールやラインやテレビを見ずにいられないのも、彼らにとって仲間圧力が、未知なる世界=「いつ、どう変わるか分からない」外圧だからである。)

『追求のススメ1.未知なる世界への収束と追求(4)』

ここで書かれているように、根本的な要因として未知収束回路があげられます。但しこれは、人類共通の意識構造で、特に日本人の特性を示すものではありません。

日本人が少なくとも江戸時代までは、庶民に至るまで、情報と活字に高い欠乏を抱いてきた背景には、日本では、文字により情報を共有し、楽しむ文化が長い間育まれてきたということだと思います。奈良時代の前後には、日本書紀、古事記や万葉集などが登場し、人々に親しまれてきました。

特に、平仮名の登場などは、まさしく広く人々に普及する切っ掛けになったと思われます。

万葉集古事記

それに対し、欧米では文字の歴史は古いですが、その使われ方が、禁止や罰則事項、復讐や戒めの神話などが主流で、それが原因で、人々が観念に慣れ親しむ機会を失ったと考えられます。紀元前1800年頃の「目には目を・・・」で有名なハムラビ法典等などが有名ですね。また、11世紀には大学が登場しますが、当時の大学の役割は、教会と神聖ローマ帝国の勢力争い、つまりお互いの主張(架空観念)の正当性を証明するという詭弁の習得に終始しており、それでは、庶民の観念欠乏の喚起には繋がらないと思われます。その証拠に、それからかなり時代が下った18世紀においてさえ、識字率はロンドンが30%、パリが10%程度だったそうです。

ハムラビ法典

このことから、今後の新聞を占うとすると、少なくとも日本に於いては、欧米のように目を背けたくなるような罰則規定や現実の役に立たない架空観念のような阻害要因がなかったことが幸いし、現実に役立つ観念に慣れ親しんできた長い歴史の塗り重ねにがあり、それにより、好んで情報を得ようとする意識が育まれてきたことが、可能性基盤として押えておくべきことだと思われます。

次回は、欧米列強が押し寄せ、西洋化への道へ進む切っ掛けとなった江戸末期の日本発の新聞の登場等の状況を押えていきます。

 

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