2022年07月02日
【今週の注目情報】真似るからオリジナリティは生まれる
日本の武道や芸事では、先生や師匠から基本の「型」を教えてもらい、その「型」を「真似る」ことから「学び」は始まります。職人の世界でも、「師から技を盗め」といわれます。これは師の技を「真似る」ことに他なりません。ビジネスの世界でも、「上司の背中を見て学ぶ」と表現します。
この「真似る」ことの大切さを説いた人に白洲正子さんがいます。
白州さんといえば、随筆家として有名です。日本の伝統文化に造詣が深く、日本人の女性として初めて「能」の舞台に立った人物です。
世阿弥「風姿花伝」は「物真似」の書
「能」といえば、その源流にいるのが観阿弥、世阿弥の親子です。
父「観阿弥」の教えを元に世阿弥が書いた『風姿花伝』には「物真似」という言葉が、繰り返し出てきます。現代語訳すると次のようになります。
「名人ぶった芸をひけらかすなど何ともあさましい。たとえ人にほめられ、名人に競い勝ったとしても、これは今を限りの珍しい花であることを悟り、いよいよ物真似を正しく習い、達人にこまく指導を受け、一層稽古にはげむべきである。」
『風姿花伝』の、第二章は「物学條々」(ものまねのじょうじょう)というタイトルです。この「物学」と書いて「ものまね」と読むのです。「物学條々」は、こう始まります。「物真似の品々は、筆には尽くしがたい。とはいうものの、この道の肝要なのでこれらの品々をくれぐれもよく嗜(たしな)むべきである。おおよそあらゆるものをすみずみまで、そのまま真似ることが本意である」
随筆家の白洲正子さんが、世阿弥について記した本『世阿弥―花と幽玄の世界』(白洲正子 講談社)の中に、こんな言葉をみつけます。「世阿弥を育てたのは、まったくこの物真似の精神に他なりません。独創ばやりの世の中では、真似とか模倣とかいうことは、えらく落ちぶれてしまいましたが、本来それは学ぶから出た言葉で、まなぶ、まねる、まね、という風に変わって行ったと聞きます。だから、「物学」という字を当てて、ものまねと読ませているのですが、近頃、独創がしきりに叫ばれているのも、本気で学ぶ気持を失った為か、と勘ぐれないこともありません。(中略) 模倣も極まれば独創を生むことを、身をもって示す結果となりました。」
「型」があるから「型破り」ができる
文章の技量を高めようとしたら、小説家や作家の名文を書き写してみる。これは定番の文章上達のノウハウです。真似てみると、その作家独自の「型」を感じ取ることができます。その「型」と自分の「型」を混ぜ合わせていくことで、さらに独自の「型」が生み出されてきます。これが独創です。
まず「型」がある。これを破っていくのが「型破り」です。「型破り」が独創性につながります。そもそも「型」がなければ「破る」ことができません。これを「形なし」(かたなし)といいます。
「形なし」の意味は、「本来の価値が損なわれ、何の役目もしなくなる・こと(さま)」(三省堂「大辞林」第二版)です。「台無し」と同じ意味です。
下の一文は、早逝された歌舞伎界の名優中村勘三郎が、よく口にしていた言葉として広まっています。
「形を持つ人が、形を破るのが型破り。形がないのに破れば形無し」
引用元:学ぶことは真似ることから始まる
- posted by kumagai at : 10:00 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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