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2010年05月10日

4/29なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(3)「興味関心発の理解」は近代のダマシ

4/29なんでや劇場レポートも3回目ですが、今回のテーマは『興味関心発の理解はダマシ』
…衝撃的な内容になりそうです…。

戦前以前の「門前の小僧」は意味もわからず暗唱するだけだったが、現代人よりはるかに言語能力は高かった。現代人は文章の意味を理解しようとしてきたが、何も身についていない。また、個人主義に基づく戦後教育では本人の興味関心が第一に置かれてきたが、完全に失敗したことは明らか。これらの失敗事例から見えてくるものは何か?
自分の興味関心や理解しようとして読んでも何も身につかないのは何故か?

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4/29なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(3)「興味関心発の理解」は近代のダマシより

興味関心発というのは尤もらしいがダマシではないのか?
興味関心の中心にあるのは本能的欲求(自我も含む)である。本能のままに生きていれば快楽(楽チン)主義に向かうのは必然であって、興味関心に基づく読み方は人を堕落に向かわせる。これは堕落の勧めであり、ダマシではなかろうか。本人の興味関心第一(個性第一)の背景は個人主義であり、その背景は市場社会である。市場社会の支配者=金貸したちにとって、大衆は堕落してくれた方が都合がよいから、興味関心第一というダマシによって大衆を染脳してきたのではないか。そのことをしっかりと見抜く必要がある。
また、理解しようとして読む。この「理解」の中身も極めて疑わしい。『実現論』のように歴史事実であれば読めば自ずとわかる。それ以上に理解するために余計な頭を使う必要はない。ところが、デカルトの「我思う故に我あり」とはどういう意味なのか?作者は何を言いたいのか、あれこれ考えないと意味が掴めない。
これは、私権時代の書物は全て詭弁だからである。デカルトの「我思う・・・」に代表されるように、正常な神経では理解できない。正常な感覚から曲解しないと意味が通じないからこそ理解が必要になる。そのような文章を理解しようとすればするほど洗脳されていく。
デカルトの「我思う故に我あり」は、あらゆるものを疑っても疑っても、疑っている自分自身の存在は疑いようがないということが根拠になっているが、デカルトのように疑い続けている人間は滅多にいないのであって、「実は疑い続けている自分自身がおかしいのではないか?」という懐疑だけは見事に欠落させている。もちろん、疑い続けている自分がおかしいということになれば、彼の立論は崩壊する。
このように都合の悪い現象事実は捨象しているのが詭弁の構造である。これは哲学や思想に限ったことではない。それよりも詭弁が許される表現様式が小説や漫画である。自然科学も同様。無数の要素が相互に絡み合って成立しているのが現実の自然世界であるが、自然科学者たちは、関係する要素をほんの数個に限定し、その他の要素を捨象した人工的な架空空間で実験を繰り返してきた。これは、現実にはありえない実験という架空空間での特殊限定事実にすぎず、決して普遍的な事実なのではない。ところが、現在の科学者の多くは、そのことを忘れた振りをして、非現実の特殊空間においてのみ証明できる特殊事実を、あたかも普遍的な真理であるかのごときものとして我々の前に提示する。
このように、私権時代の書物はその詭弁を理解するために無駄なエネルギーを費やし、結局、何も定着しないで終わり、何も使いこなせないという結果に終わる。
以上のことから、教育論として正しいのは、理解ではなく暗唱である。
認識転換すべき点は
【1】厳選されたテキストに同化した反復千回。これが言語能力上昇の最も有効な方法論である。逆に乱読では大した言語能力は身につかない。
【2】理解することよりも記憶に定着させることの方がはるかに有効。暗唱できる所まで定着させてはじめて、その認識を使いこなすことができる。

問題は、昔であれば論語という反復千回するに値するテキストがあったが、現在は存在しないことである。国語の教科書に載っている随筆・小説といった駄文を暗唱しても言語能力は身につかないし、読む方も興味がわかず、同化できない。また、論語は私権時代の産物であり、現在は共認時代の新しいテキストを必要としている。それはまだ存在しないが、現在それに近いのは『実現論』である。
【結論】
言葉そのものは記号にすぎず、それ自体に意味はなく、無秩序で統合されていない。右脳の共認機能発でその意味や解釈を掴もうとするのが観念回路である。共認回路と記号との断層をつなぐためには、反復千回が不可欠。ストーリーとして暗唱できるところまで記憶に定着させてはじめて、使いこなせるようになる。
重要なのは、理解したかどうかよりも、使いこなせるかどうかである。
小学校~大学まで勉強したが、何の役にも立っていないことが端的に証明している。それは興味関心発(個人発)の理解だからであり、使いこなせる所まで反復していないからである。理解したつもりになって読み飛ばしてきただけで、ほとんど忘れてしまった認識を使える訳もないだろう。
さらに言えば、興味関心発の理解とは近代西洋文明のパラダイムである。今や近代西洋文明は終わりつつある。そして、それ以前の歴史をさかのぼれば、論語反復千回によってはるかに高い能力を形成してきたという事実が浮かび上がるのである。

次回は4/29劇場レポートシリーズのラスト!「観念力とは何か?」(4)観念力の本質である考える力とは?につづきます

 

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