☆ランキング☆
にほんブログ村 経営ブログへ

最新記事一覧

最新コメント

最新トラックバック

2010年06月02日

日本一辺鄙な場所にある会社『中村ブレイス』

石見銀山の麓、太田市大森町は人口650人(現在500人)に『中村ブレイス』の本社はあります。

honsya.gif

義肢装具は障害を受けた方に処方され、製作する医療用具です。人々の元気の「もと」となることを願い、そして過疎化のすすむ史跡の町”石見銀山”再生の一助になればと、社員とともに一丸となって努力を続けてまいりました。 昭和57年(1982年)に法人化(株式会社)し、今日、日本国内の医療機関・義肢装具製作会社、さらに海外の多くの国々とも交流するまでに成長することができました。

 2007年7月、本社のある大森町は、「石見銀山遺跡とその文化的景観」としてユネスコの世界遺産に登録され、国内外のみなさんと一緒に、世界の宝となった感動と喜びを分かちあいました。

『中村ブレイス株式会社』

≪会社概要≫

本社のほか、メディカルアート研究所(大森町)と東京事務所(東京)を持つ。
1974年に創業し、従業員は65人。

2007年9月期の売上高は7億6000万円。経常利益は8000万円。

人口がたった650人。過疎の町の中に、若者中心の65人の従業員がいます。彼らのなかには、都会から来た人がたくさんいます。そして、この会社の製品は世界から評価を受けています。日本で一番辺鄙な町にあり、都会から来た若者が生き生き働き、世界から注目を浴びる会社。その成功要因は?

にほんブログ村 経営ブログへ


『中村ブレイス』。

ブレイスという言葉は、勇気を与える、支えるという意味を表します。ここでは、義手、義足、コルセットなど医療用装具を世界二十カ国に送り出しています。そして、世界中の義肢装具メーカーで、シリコン製の義手や人工乳房を作っているのはここだけです。世界で認められる製品を、過疎の町、石見銀山から発信することが中村社長の願いでした。
中村社長の経歴は、
 

私は一九四八年に大森町で生まれた。団塊世代で競争も激しい。大田高を卒業した時、人がやっていない仕事に就きたかった。姉に紹介された京都市の義肢装具会社の工場を見学したのが最初の出合い。「面白い仕事に出合わせてもらったな」というのが第一印象だった。

働くうちに、もっと基礎から勉強したくなった。二十三歳の時、自分の貯金を全部使って、技術の最先端といわれる米国の会社や病院を訪ね歩いた。偶然にも江津市出身の親を持つオーナーに出会って、翌年から雇ってもらいながら留学ができた。うそのような夢物語。自分はなんと運の強い男だと思った。

当時の米国は治安が悪かった。ある夜、英会話学校に自転車で通っていると後ろからひき逃げされた。気が付くと、そこは霊安室のベッド。骨折で手も足も動かず、耳から血が出ていた。

 この経験は私の考えの基本になった。人間がどん底になった時、何をしてほしいか。経験した人にしか分からない願いがある。義肢装具づくりは「喜ばれる仕事」が原点。技術力と一緒に、優しさも売っている。つらい人の立場に立って、ものづくりをしなければならない。

 故郷に一度帰った時、過疎化が激しい大森町で起業して、地域を勇気づけようと考えた。不安視する人もいたが、米国での経験と強い運、そして何よりも、やる気を持っていた。

中国新聞『私の夢』より

です。

通常、起業に当たっては、需要を調査し、立地戦略や販売戦略を考えます。その上で、収益が上がりそうであれば起業を決断します。この需要発という常識はいまや通用しなくなってきています。なぜならば、みんながこの画一的な思考で起業や経営を考えるため、どの会社も同じような戦略になり、きびしい競合状況になってしまうからです。

その理由は、人々が求めるもの(欠乏の構造)がすでに変化しているからです。貧困が消滅した現在、物的欠乏は衰弱し、大量に物をつくっても売れない状況にあるからです。だから、物が売れた時代の需要発の戦略は、いまや通用しなくなっているのです。

それに対して現在は、

類的需要は極めて普遍的に潜在している欠乏であるけれども、同時にそれは答えの供給なくして決して顕在化することはないからである。

今若者が仕事選びにおける選択基準は「給料や余暇をいくらもらえるか=需要主体になれるか」でなく「仕事のやりがい=供給主体としての充足」にある。

今若者が仕事選びにおける選択基準は「給料や余暇をいくらもらえるか=需要主体になれるか」でなく「仕事のやりがい=供給主体としての充足」にあるし、そうした欠乏はこれまでは単なる消費主体としてしか見なされてこなかった、高齢者や障害者の欠乏としても見て取れる。今や彼ら「旧来の社会的弱者」は「弱者として消費=需要する権利を主張する」なんて地平を脱却し「同じ社会の当事者として役割を持つこと=供給者になることを求めている」。

「需要発から供給発へ」

のように、意識が変化しています。その中で、

中村ブレイスでは、誰でもが供給者になりたいという欠乏を捉え、障害者の義肢義足を作ることにより、彼らの社会参加を可能にすることを仕事としてやっています。そこでは、営業職と技術職を分けず、社員が共認充足をダイレクトに感じる体制をとっています。

そして、社員は、一人一人のお客様の要望を直接聞き取り、その方のために全力で応え義肢義足を作っていきます。そして、お客様の喜ぶ姿を見ることが出来ます。

その、障害を持たれたお客様は、中村ブレイスが提供する義肢義足により、自ら同じ社会の当事者として役割を持つこと=供給者になることが可能になります。これは、普遍的に存在する潜在的な類的需要を、解決策(義足という答え)を提示することで開花さたということです。

この結果、双方の共認充足はきわめて大きいものになり、社員もやりがいを感じて仕事に取り組むことが出来るようになります。このように、どこを切っても『共認充足と』『需要発から供給発へ』の転換が実現されています。

しかし、いまだに需要発の視点しかない多くの企業は、技術力があっても採算が合わないと判断し、この業界に参入していません。

また、実際の彼らの仕事場は、石膏やら埃やらで、3K職場そのものだそうです。それでも、若者が都会から訪れ、生き生きとした表情で働いています。そして、きつい仕事にもかかわらず労使問題は無いそうです。ここには、お金のために働くという市場原理の価値を超えて、共認充足がすべてという価値へと完全に転換しているのだと思います。

その結果、需要や立地という市場原理に基づく価値判断など全く関係なく、日本一辺鄙なところにある会社で、社員の活力を上げることが可能になり、世界から評価される製品を作り出していけるのだと思います。

 

コメント

>最初は“よそ者”で警戒されていたと思われる企業の方々が、どんな風に田舎の人たちとよい関係を作っていったのか、巻き込んでいったのか、このへんが最も気になるところですね。
★確かに昔は農村の保守性、閉鎖性が大きな壁になってましたが、最近は様変わりしてきているようです。
先日、北海道の農家の高齢夫婦と話をしましたが、企業の参入をあまり歓迎していなかったのは昔の話で、最近では企業の参入は当たり前という意識になってました。
★シンポの報告、また楽しみにしています。

  • 羊熊
  • 2010年11月4日 11:43

私もシンポジウムの内容が気になります!(雅無乱さんは参加されたのですか?)
レポートを期待して待っています☆

  • みらら
  • 2010年11月4日 11:48

行ってきましたよ~^^)w
最後の講演のマイファームさんの話が特におもしろかったです。
西宮に貸し農園をつくったら、周囲に他の18の貸し農園ができて、クレープ屋とか苗屋とかができて体験農園のメッカになってきた…なんて話もあり、すごい!と思いました。
また追々報告しますね~

  • 雅無乱
  • 2010年11月4日 12:26

trackbacks