2010年09月22日
★シリーズ『会社って誰のもの?』 ~3-1.高度経済成長期の日本
数回にわたり会社形態の変遷や日本企業集団の歴史・由来を見てきましたが、今回は、高度経済成長期(戦後~1970年)の日本企業を考察し、今後の新しい企業のあり方のヒントを探ります。
1945年8月15日、日本の敗戦により第二次世界大戦は終結しました。日本が受けた被害は大きく、戦死者は約200万人で、国富の4分の1が空襲などで消失したといわれています。
その後日本は、歴史に名を残す驚異的な高度成長を遂げました。1956年~1973年の18年間、年平均成長率が+9.1%にも達し、現在の中国に匹敵するような高い経済成長を20年近くも継続させることになったのです。
もしかするとこの驚異的な成長は、明治~大正末に誕生した多くの株式会社が、その機能を効果的に発揮たからなのか?(『~2-5.近代(明治以降)の会社形態の変遷~』
まずは、その要因から探っていきましょう。
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1)企業を取り巻く環境の変化
戦後~1970年の間、日本企業を取り巻く環境は大きく変化します。時代を追って見ていきましょう。
①GHQによる財閥解体(1945年~52年)
敗戦国日本の戦後経済はGHQによる財閥解体から始まります。「財閥が侵略戦争遂行の経済的基盤となっていた」という理由から、戦前の日本経済を支えていた全ての財閥が解体されました。財閥所有の持株会社の解体、財閥家族所有の株式の買い上げ、財閥家族の役員就任の禁止、商号使用禁止、企業規模の制限などを規定した法律(独占禁止法、過度経済力集中排除法、財閥同族支配力排除法等)が定められ、1952年半ばまでに全ての財閥が解体手続きを終えることになりました。
②企業集団の再結集(1953年)
財閥解体後、GHQは一転してその政策を転換をします。いわゆる「逆コース」呼ばれるもので、日本を反共主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑、アメリカ国内の資本家達の思惑が反映されたのです。独占禁止法も大幅に緩和され、他の会社の株式所有(株式持ち合い)も容認されました。これにより、かつて解体された大企業が再結集することになり、財閥系の三井、三菱、住友と銀行系の三和、第一勧銀、芙蓉の六大企業集団が成立しました。
(『有力企業集団変遷図』へのリンク)
③戦争特需(1950年~55年)
1950年に勃発した朝鮮戦争により、日本国内では、連合国軍の物資や兵器・車両の生産、建物の建設などの特需が相次ぎました。これにより戦後の経済不況で落ち込んでいた日本経済は、一気に活気を取り戻しました。
④神武景気(1954年~57年)、岩戸景気(1958年~61年)
オリンピック景気(1963年~64年)、いざなぎ景気(1965年~70年)
戦争特需をきっかけに立ち直った日本経済は、「貧困を消滅=豊かさを実現」という全国民の共通課題を背景に、その後15年間に渡り世界でどの国も経験をしたことがないほどの急激な経済成長を果たしました。
2)高度経済成長の要因
敗戦で廃虚と化した状態から、たった25年で世界第二位の経済力を持つに至った日本経済ですが、その成果はどのようにして生み出されたのでしょうか?その要因を考えてみましょう。
①護送船団方式による金融資本体制
「護送船団方式」とは、軍事戦術として用いられた「護送船団」が船団の中で最も速度の遅い船に速度を合わせて、全体が統制を確保しつつ進んでいくことになぞらえて、日本の特定の業界において一番経営体力・競争力に欠ける事業者(企業)が落伍することなく存続していけるよう、行政官庁がその許認可権限などを駆使して業界全体をコントロールしていくことを言います。戦後我が国の金融体制には、この護送船団方式が採用されました。「国家による保護を受けた銀行は絶対に潰れることがない」という安心感から、国民は積極的に銀行に預金をするようになり、銀行はその預金を資金として多くの企業に融資することで、経済復興と成長を支える役割を担うことになったのです。
②銀行の資金を生かした企業集団の形成(メインバンク制)
戦後形成された六大企業集団の大きな特徴は、銀行を中核としたグルーブ編成です(六大企業集団のトップに立つ有力銀行は、三井銀行、住友銀行、三菱銀行、富士銀行、第一勧業銀行、三和銀行となり、その他日本興業銀行、大和銀行なども独自の企業集団を設立)。企業集団内の「銀行」が資金を融通し、「メーカー」がモノを作り、「商社」がモノを流通させるという役割分担が出来上がったのです。
(『有力企業集団変遷図』へのリンク)
③株式の持ち合い
「株式持ち合い」とは、事業会社とメインバンクや取引先企業が、それぞれの株式を相互に保有し合うことをいい、日本特有の資本取引慣行です。戦後の財閥解体時期より1980年代まで、株式の持ち合いの比率は高まり続けました。それぞれが株主となり、かつ大量に株式を保有することで、安定株主工作が出来る為、証券市場を通じた企業買収などから企業を防衛することが出来、経営の安定を図ることができました。
④傾斜生産方式
「傾斜生産方式」とは、当時の基幹産業である鉄鋼、石炭に資材・資金を超重点的に投入し、両部門相互の循環的拡大を促し、それを契機に産業全体の拡大を図るというもので、工業復興のための基礎的素材である石炭と鉄鋼の増産に向かって、全ての経済政策を集中的に「傾斜」するという意味から名付けられました。
3)各要因の背後にある日本人の共同体意識
各要因の背後には、日本人が持つ共同体意識が見え隠れします。
①日本人の集団意識
「銀行を中心とした企業集団の発展」は、日本人の持つ集団意識によって生み出されています。当時の人々は、銀行に預けた自らのお金が、銀行から企業に融資され、新たな企業活動の資本になることを理解していたのです。つまり、自らの「労働」で得たお金の余剰分を銀行に「貯蓄」することで、国家の復興と成長に貢献できることを潜在的に感じていたのでしょう。
「傾斜生産方式」も同様です。国が特定の産業、企業を重点的に支援するなんて個人主義社会の現在では考えられないことですが、当時は大きな反対もなく「国が豊かになるなら」「みんなのためになるなら」と、自らの権利や要求を主張することもなく全国民がこの政策を受け入れていたのです。
②日本の企業集団の自治意識、自主管理意識
日本企業は「株式の持ち合い」によりお互いの株を大量に持ち合うことで、目先の成果を求める投機的な株主の圧力を抑制し、長期的な視点に立った経営を行う道を選択しました。株式制度と言う制度の形は取り入れましたが、株主を最優先することでより多くの資金を集めることができる本来の株式制度は実質上封印していたのです。
③日本企業の共同体意識と社会意識
戦後復興期の日本企業は、共同体意識と社会意識により大きく発展しました。戦後の日本経済を代表する京セラ稲盛氏の創業当時のエピソード、そしてソニーの設立趣意書を紹介します。
まずは、京セラ稲盛氏の創業当時のエピソードから。
もし、自分の技術者としてのロマンを追うためだけに経営を進めれば、たとえ成功しても従業員を犠牲にして花を咲かせることになる。だが、会社には、もっと大切な目的があるはずだ。会社経営の最もベーシックな目的は、将来にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せを目指していくことでなければならない。
何か胸のつかえがスーッととれる思いがした。京都セラミックは、稲盛の個人的な理想実現を目指した会社から、全従業員の物心両面の幸福を追求する会社に生まれ変わった。
しかし、それでもまだ足りない気がした。自分の人生は従業員の面倒をみるだけで終わってよいのだろうか。自分の一生をかけて、社会の一員として果たすべき崇高な使命があるはずだ。そこで生涯をかけて追い求める理念として「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と付け加えた。
次に、ソニー創業時の設立趣意書の一部を紹介します。
一.真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」
一.従来の下請工場を独立自主的経営の方向へ指導育成し、相互扶助の陣営の拡大強化を計る
一.不当なる儲け主義を廃し、飽迄内容の充実、実質的な活動に重点を置き、徒らに規模の大を追はず
共通するのは「相互扶助の精神」や「自社利益だけではない社会貢献を強く意識した企業活動」です。この企業の持つ共同体意識、社会意識に人々は共感し、生産体と消費者の信認関係が構築され、結果として戦後の日本経済を大きく発展させることとなったのです。
5)まとめ
敗戦による壊滅的な状況から脅威的な復興を可能にしたのは、江戸時代の「講」にみられる相互扶助の精神、近江商人にみられる社会貢献的な企業意識、明治期にみられる官民一体となり欧米列強に対抗した集団意識、そして戦時中「お国のため、みんなのために」と自ら尊い命を犠牲にしていった強靭な集団意識など、戦前から貫かれた日本人特有の共同体意識であり、所有者、経営者、雇用者が完全に分断され、資本家に支配されるアメリカ型の株式会社という企業形態がもたらしたものでは決してないのです。
会社は株主の為の物であると言う事は、稲作の集団生活を営んできた文化では、共認されなかった。会社は、稲作の村社会と同じ共同体であり「会社は会社の構成員、皆のものである」と言う暗黙の共認下で、統合されてきた。
(中略)
株式会社は資本家がお金を儲ける為の箱(=仕組み)であるとの概念だが、日本での会社の位置付けは、資本化(=株主)の利益優先ではなくて、社会の為になる業務を行うことで社員が幸せになれる(=充足感とお金を得られる)事を目的とするという価値観をもっていた。
(るいネット「『和の集団』の日本の文化が、私権競争社会のアメリカ文化の株式市場に駆逐されていく」より)
1970年豊かさの実現により貧困が消滅して以降、目標を失い活力を無くした日本企業は、アメリカの意のままに操られ続けています。現在に至っては、企業、会社は資本家がお金を儲ける為の箱(=仕組み)にまで成り下がりつつあります。
日本には日本人に適した企業形態,会社形態があり、おそらくそれは、日本人が過去から一貫して持っている集団性や社会性に根ざした共同体意識をもとに構築されていくのでしょう。
今回はここまでです。
次回は、1970年貧困の消滅以降の迷走した企業の実態を明らかにし、今後の新しい企業のあり方を模索していくことにします。
- posted by isgitmhr at : 12:15 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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