2011年08月13日
企業が「地域密着」で成功するには? ~劇団わらび座の60年にわたる活動~
株式会社わらび座は、1951年に創業し、1971年に株式会社化された秋田県の企業で、日本の伝統芸能を中心にした演劇興行のほか、温泉やホテル、地ビール生産等を多角的に経営しています。
宝塚歌劇、劇団四季に次ぐ規模の劇団ですが、その存在は意外に知られていません。
それは、芸術家集団にありがちな“唯我独尊”路線でもなく、かといって欧米文化べったりの華美な大衆路線でもなく、日本芸能の実践を秋田県仙北市という地域に根ざして活動するという、どちらかと言うと地味な存在だったこと。
そして、もともと共産党の文化工作隊という左翼系の活動として始まったことが、アメリカべったりの戦後日本の主流とは相容れない、異色の存在として映ったことが影響していると思われます。
【2011年の活動】※以下写真は同社HPより
しかし、素人意識に根ざした彼らの60年間にわたる活動は、今後の日本における共同体企業のあり方や、地域共同体の再構築にあたり、多くの示唆を与えるものです。
今回の時流探索は、長年東北の地で活動を続け、今回の震災復興でもその力を発揮しつつある株式会社わらび座を取上げ、その歴史を追う中で、企業が「地域密着」で成功するためのポイントを抽出してみようと思います。
なんで民俗芸能なのか?
創設者である原太郎氏は、1931年に日本プロレタリア音楽家同盟に加盟し、翌年には書記長に選出されるという作曲家であり、活動家でした。彼は戦時中に、戦争を止められなかったという後悔から、人民の中にしっかりと根を張った芸術活動を志します。そして、1947年に日本共産党に入党し、1951年にわらび座の前身「海つばめ」を立ち上げ、労働者が集まる場で歌や踊りを行う活動を始めました。
彼は、民族芸能に対して「研究」「保存」するのではなく、「実践」という形でアプローチしました。その方法も採集した民謡をそのまま上演するというよりはむしろ、現在において再創造するかたちをとりました。
「民族遺産をその前近代的な殻からひき出して、新しい息吹のうたごえとするならば、それは日本人が、日本人の誇りをうたい上げるのに役立つだろう」と彼は述べています。
なんで「わらび」「秋田」なのか?
前身の劇団「海つばめ」は、その後1952年に舞台芸術家同盟の先頭になって警察と対峙したことで、目を付けられることになり、北海道に拠点を移しますが、そこで大きな壁にぶつかります。地方の農民が期待していたのは、彼らの身近にある歌や踊りではなく、むしろ非日常的なもの、都会的なもの、あるいは外国の音楽だったのです。
しかし、彼らは都会に戻るわけにもいかず、1953年「民謡民舞の宝庫」といわれる秋田県の現在の地に拠点を移すと同時に、わらび座と改名します。
「昔、東北の人々は大凶作で作物がひとつもとれなかった時、わらびの根っこを堀り、その澱粉(でんぷん)で餅をつくって、飢えをしのいだといいます。1度掘るとその場所からは2度と芽が出なくなるので、部落の共有財産とし、みんなで話し合って掘る場所を決めたといいます。そんな話から、生きる力の根っこになるような仕事をしよう、人々と共に、土にしっかり根をはり、暮しに役立つ仕事がしたいと『わらび座』と名付けました」(同社HPhttp://www.warabi.jp/info/yurai.html)
演劇で食べていけるのか?
その後、「わらび座」は分裂や運営方針をめぐる意見の相違から弱体化の危機に陥りますが、一時座を離れていた原太郎氏が戻り、より大衆に近い共産党の文化工作隊という軸で再統合されます。こうして「東北の農村で民族民舞を上演する集団」が維持されることになりました。
やがて、
1962年 民族芸術研究所の建設開始
1971年 株式会社化
1974年 民族芸術研究所が財団法人の認可
1974年 わらび劇場完成
1977年 全国初の農業体験学習旅行の受け入れ開始
1989年 初の訪欧公演(仏・伊・東独・ソ連)
・・・
と活動が展開していきましたが、地方の劇場に融資する金融機関もない中、彼らはどのようにして専用劇場(わらび劇場)を建設できたのでしょうか?
それは大衆の支援により実現しました。約6億円にのぼる劇場建設費は、全国の支援者800万人による募金、3年間据え置きの年利3%の「一口1万円貸付金」、劇場の座席を1席買う形の「1万円椅子基金」などによってまかなわれたといいます。
【わらび劇場】
ただ、今でこそ年商20億円規模の事業体になっています(※劇団四季で30億円)が、劇場部門だけの採算で見ると、2006年までは毎年約3,000万円程度の赤字経営だったそうです(2007年に初の黒字転換)。しかも、せっかく作った劇場も開館以降約20年間は自社使用がほとんどで、ホール運営に対して戦略的な方針はありませんでした。
転機は?
このような状況を打破するため、1993年に劇団員は米国の先進的なシアターマネジメントの視察を敢行します。そこで「地元に密着し、観客を何よりも大切にする視点」に触発され、以降わらび座は演劇を軸にそれ以外の事業も取り込んだ一大リゾート経営へと大きく経営方針の転換します。この劇団の変化には、創設者である原太郎氏の死去(1988年)も当然影響していると思われます。
1995年 ロングラン公演開始(※当時は都会でしか成立しないと考えられていた)
1996年 「たざわこ芸術村」(温泉ゆぽぽ、田沢湖ビールなど)本格オープン
1997年 初の米国公演
1998年 長野オリンピック文化・芸術祭にて招待公演
2001年 「アテルイ」(※平安時代、蝦夷の軍事指導者)の公演開始
2005年 「棟方志功」がNHKで舞台中継
2006年 「坊っちゃん」がNHKで舞台中継
2007年 「小野小町」がNHKで舞台中継・・・
わらび座が成功した理由は?
取締役(劇団代表)の是永氏は以下のように語っています。
「田沢湖は、日本一の水深を誇る優良な観光地だ。周辺には、武家屋敷や桜の角館といった強い観光資源がある。この田沢湖角館ゾーンの入れ込み観光客数は、2006年段階で623万人に達しており、宿泊者数は35万人もあるのだ。角館や田沢湖エリアの仙北市内は人口3万2000人に過ぎないが、滞在力のある観光地を武器にすれば、劇場の観客動員は飛躍的に伸びる(※年間50万人。引用者注)。わらび座によるミュージカルを鑑賞した後で、体験学習者が実際に踊りを体験できるプログラムが人気を呼び、全国から予約が殺到している」
【たざわこ芸術村遠景】
「劇団は創立した頃と現在では、まったく違う姿になっている。構成員の350人は、60%が地元出身だ。よく第3セクターではないかと聞かれるが、バリバリのエンターテインメント企業だと思ってもらって良い。ユニークなことは、劇団の公演をコアに、農業体験、ブルーベリー摘み取り体験、わらじ作り教室、木工・陶芸・オカリナ教室、健康体操教室、民舞教室などを同時並行で展開していることなのだ」(亜紀書房「こころから感動する会社」泉谷渉著P119、130~130。以下「同書」)
このように、わらび座は地域の文化資源、観光資源をあたかも地方自治体のごとくとことん活かし切っていることがわかります。
そして、今年創立60周年の節目に起きた3.11の大震災以降も、非常に厳しい外圧状況の中にもかかわらず、収益の一部を被災地に寄付したり、訪問公演を積極的に行うなど、精力的な活動を続けています。
※同社HP参照
企業の「地域密着」とは何か?
世の中には「地域密着」を謳う企業はたくさんあります。わらび座は「演劇」を軸に地域とつながりましたが、それぞれ得意分野を軸に地域とつながろうとしています。でも、その大半はわらび座ほどの地域密着度はなく、言葉倒れの中途半端な関係に終わっている企業が多いように思います。
この違いはどこにあるのでしょうか?
確かに演劇という分野が持つ大衆性はプラスに働いていると思います。しかし、今回同社の歴史から見えてきたのは、「地域密着は地域だけ見ていたのでは達成できない」ということです。
例えば、わらび座の地域密着の成功を支えたのは、むしろ地域以外の人を巻き込んだ三つの活動です。それは、わらび劇場以外での巡業公演、そして民族芸術の研究、そして農業体験学習旅行です。
秋田県にあるわらび劇場での公演だけでも年間200ステージですが、このほかにも7つの公演グループが全国を駆け回り、年間1200回もの公演を行なっています。また、海外でも米国、欧州、ブラジルなど16カ国に展開しているのです。
【海外公演】
そして、1962年に始まる民族芸術研究所の活動ですが、「日本国内の民謡や民族芸術の蔵書や音源の収集としては、日本随一を誇り、文部科学省のスタッフや大学の研究者、文化行政担当者などがよく訪れてくる。何しろ、全国の民謡7万曲を収集しており、この分析を行なっている」(同書P119)
【民族芸術研究所】
また、体験型修学旅行ですが、「わらび座が仕掛ける運動論として実にユニークなのは、農業体験学習旅行の受け入れを77年からスタートし、30年以上も続けていることだ。(中略)この運動に長く携わってきた営業企画室長の大和田しずえ氏は、こう語る。『コンクリートジャングルである都会で失われていくものは、数知れない。地域社会の崩壊、家庭の崩壊が進み、今回の大不況で会社までもが崩壊の危機にさらされている。こうした状況下でスキンシップを知らない子供たちが増えている。自然の美しさに触れることの少ない都会の子供たちこそ、体験学習を通じて農家との交流が必要なのだ』」(同書P126)
【農業体験】
このように、地域という枠を超えて、国や歴史といったより広い射程で社会を対象化しているからこそ、彼らの「地域密着」は成功しているのだと思います。
おわりに
今回わらび座の歴史をネット等で調べていくと、「共産党との関係が深い」「昔の良さが消えた」云々、といった政治的なコメントに出会うこともありました。確かに同社の出自や思想は共産党との関係抜きには語れないでしょうが、同社の歴史を辿れば明らかなように、途中で米国の事例を真似たことで事業として成功しているなど、右とか左とかいう議論はナンセンスであることに気づきます。
むしろ、日本という国や民衆、社会全体や歴史を対象化したからこそ、本当の意味で「地域に密着する」ことができた、というのが同社の成功から我々が学ぶ点ではないでしょうか。
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参考:
「こころから感動する会社」亜紀書房・泉谷渉
「一九五〇年代における文化運動のなかの民俗芸能」西嶋一泰
「たざわこ芸術村 劇団わらび座 わらび劇場」GRIPS
「演劇をビジネスに!アートマネジメントを学ぼう!」磯崎美奈
「わらび座」ウィキペディア
劇団わらび座HP
- posted by seiichi at : 1:07 | コメント (1件) | トラックバック (0)
コメント
様々な角度から検証した上で「転換期」である事が導きだされ、かつ時代認識に基づいた可能性の軸が提示されており、あらゆる方針を組立てる腕の基礎認識として、とても役に立ちそうです。
これも、切り口としての「概念装置」の有効性ですね!
ありがとうございます。
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