2011年09月15日
見守り介護で福祉の世界に風穴を開ける!大起エンゼルヘルプ①~活力を引き出す介護☆~
皆さん、こんにちは
今日は、今後の日本において必要不可欠である高齢者福祉の業界で、これまでの介護の常識を覆し、入居者も職員も活力溢れる場へと転換させた 「大起エンゼルヘルプ」 さんをご紹介します (右の写真はリンクよりお借りしました☆)
日本の高齢化問題は、誰もが目を逸らす事の出来ない身近で深刻な問題となっています。全国の待機老人の数はなんと42.1万人(平成21年12月厚労省集計)にも上り、国を挙げて高齢者施設の増設に取り組んではいますが、ただ単に施設を増やせば良い、という問題ではありません。
少子高齢化の流れには歯止めが掛からず、かと言って核家族化の進行と共に、家庭内での介護も限界があり、福祉施設の入居志望者は年々増える一方。しかし、介護の仕事は現実的にかなりハードであり、常に介護職の人材不足という問題も抱えています。(右は代表取締役の小林由憲氏。写真はリンクよりお借りしました。)
この問題の根本には、市場ではペイしないけれども、社会的に絶対必要な仕事に対して、福祉と称して非生産者にバラ撒くだけの政策、あるいは市場優位の中で効率化を最優先させた結果としての管理型施設の横行という、過去の大きな失敗事例が横たわっています。
(実現論:序4.統合階級の暴走で失われた40年(上)参照)
しかし、本来の介護とは、お年寄りの活力を奪うことでは無い という考えのもと、それまでの常識であった管理型施設を完全に捨て去り、 『見守り型』『響き合い』といった新しい介護の道を切り開いて来たのが「大起エンゼルヘルプ」さんなのです。その大起エンゼルヘルプさんについて、
最小限介護の実現態、「見守り型」介護とは?
大起さんのスタッフがみんな元気なのはなんで? に分けてご紹介します
まず、今回は 最小限介護の実現態「見守り型」介護とは? についてご紹介します
最小限介護の実現態「見守り型」介護とは?
大起エンゼルヘルプさん(以下:「大起」と呼ばせていただきます。)を語るとき、この人を除いては語れないという方がいます。和田行男さん です。和田さんは、長年介護の現場に関わる中で既存の「痴呆介護」、もっと広くは私たちがもつ既成観念に大きな疑問をもたれ、その常識を覆す数々を実践してこられました。(右の写真はリンクよりお借りしました。)
例えば、大起のグループホームでは、お年寄り自らが食事の献立 を考えて近くのスーパーに買物に出かけます(あくまで強制ではなくです)。それだけならまだしも、レジで支払いをして、重たい買物袋を下げて、グループホームに戻るのです。
更に、お年寄りに調理までしてもらいます。調理ですから、当然、包丁を持って火を使います。介護の常識から考えれば「なんて危険なことを!」ということになりそうです。
しかし、それは、和田さんの明確な考え方、いうなれば、お年寄りへの大いなる肯定視に裏打ちされた、実践です。以下、和田さんの著書『大逆転の痴呆ケア』(中央法規出版)より、その一部をご紹介します。
ちなみに和田さんは、尊びの称号として施設に入所されているお年寄りのこと「婆さん」と呼ばれています (右上の写真はリンクよりお借りしました☆)
■特別扱いしない☆
生きていく過程の中で痴呆という状態になった人を支援する側が、一方的・画一的に痴呆という状態をとらえて「特別な人」にしてしまう。すべてを失っていないにもかかわらず、人が生きる世界から遠くに追いやって介護の世界に閉じ込め、「痴呆老人への痴呆介護の質」を語り合っている。そのことに一刻も早く気付かなければ、「自立支援」「リハビリテーション」「人権」「人間的」「その人らしく」など、どんな美語を並べても、この業界は「人が生きることを支援する」とは無縁の「痴呆を扱う」世界になりかねない。(P69より。)
■自分で出来るようにする手助け☆
長年にわたって培ってきた「生きていくためのチカラ」が、今どの程度なのかを知り、知った上でその力を存分に発揮して「自分のことが自分でできるように」手助けすればよい。せっかく長年にわたって培ってきた「生きるためのチカラ」を、支援する側の理屈で失わせてしまうのはもったいない限りである。もちろん、時間の経過とともに出来なくなることが多くなってくるが、それに応じて手助けしていけばよいわけで、それが支援というものではないか。(P.73より)
僕らの専門性は、痴呆という状態にある婆さんたちが、その能力に応じて生活を主体的に営むことができるように支援することにあり、決して支援する側の価値基準に合わせて生かすものではない。自分の能力に応じて自立的に生きている姿は「人が生きる姿」であり、一方的にしてもらっているばかりでは、人が生きる姿から遠くへ離れるばかりである。(p.77より)
誰もが自分ひとりの力で生きているのではなく、自分以外の人や物などによって「支援(支え助けること)」されながら自立的生活を送っている。生きている中で受ける支援というのは、人や時間や状況によって、質も量もまったく違う。それは、婆さんたちも同じで、年齢、生きてきた時代、痴呆の状態、性別、出身地などさまざまで違うのが当たり前なのだ。(p.82より)
■婆さんたちは、痴呆である前に「人」☆
もちろん、痴呆という状態にある人は、通常よりも多種多様で継続的な支援を要する。それも、画一的で固定的な支援では及ばない。だからこそ、支援する側には特別な知識や技術を要する専門性が必要になる。だからといって、専門性だけで支援できるわけではないことをも知るべきだ。なぜなら婆さんたちは、痴呆である前に「人」だからである。(p.83より)
(右の写真はリンクよりお借りしました☆)
■群れることで個人の限界性を超える☆
人は、ひとりでは生きていけない。仮に生きていけたとしても、子孫を残すことはできない。また、安全に生きていく手立ても限られてくる。群れることで、互いに知恵や力を出し合い、個人の限界性を補う。それは、響き合って生まれる成果をよりいっそう引き上げる可能性を秘めているともいえる。響き合わせが多様になれば、1+1を2以上にすることが出来る。逆に、群れは、疎外感・劣等感・対立などを併せもつが、それとて消し去る力をも備えているのではないか。(p.105より)
■安全確保という悪循環。危険を回避する能力を失わせないように☆
安全確保。それを錦の御旗のようにかざされると何もいえなくなってしまうが、本当にそれでいいのだろうか。(p.110より)
いうまでもなく、安全確保=危険回避策は絶対に必要なことではある。しかし、単純な方策は婆さんたちから人として生きる姿を奪い取るばかりか、長い人生の中で培ってきた自分で危険を回避する能力を失わせてしまう結果になりかねない。「職員が安全確保の方策を講じたばっかりに、婆さんの危険度を高めてしまった 」という悪循環をひき起こすことだってあり得るのだ。
婆さんは安全のために生きているのではない。危険を回避する手立てを失わないように安全な方策を考えるのが専門職の役目ではないか。(p.111より)
『大逆転の痴呆ケア』(中央法規出版)第Ⅱ章「どう見る・どう考える「痴呆ケア」」より
和田さんの言葉を読むと“婆さん”たちへの絶対的な肯定視と同一視を強く感じます。常識という既成観念を捨てて、お年寄りをまっすぐにとらえていらっしゃいます。その上で、職員がやるべきことを常に軌道修正しながら考えていらっしゃるのだと思いました。和田さんの思考が、人間という生物の本来的なあり様まで及んでいるのはそのためでしょう。
(右の写真はリンクよりお借りしました☆)
お年寄りが“自分のことは自分で”やる姿を「見守る」というのは、実は簡単なことではないと思います。一人一人が置かれてきた状況、その過程で形成されてきた人間性に踏み込んで同化しないと、行動の予想もつきません。まるでその姿はよく出来た「母親」のようです。
母親には、家族や周りから日常的に充足期待がかかります。しかし、それは言葉にならないものがほとんど。自ら期待を察知して応えていくことになります。
見方を変えれば、母親の期待に応えようとする活力源は、主体的に期待を察知していけば無数に存在するし、主体的に考えて行動していけば、家族や周りの充足はどんどん高まります。これと同じ位相に大起の職員の活力源・充足源があるのではないでしょうか
(右の写真はリンクよりお借りしました☆)
その職員の活力源については、次回「大起さんのスタッフがみんな元気なのはなんで?」でご紹介しますので、お楽しみに
- posted by kubota.a at : 15:00 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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