2011年12月17日
創業80年の伝統技術に光る安定と変異~昭和洋樽製作所~
国宝の法隆寺百済観音大宝蔵院のフローリングをも手掛ける技術力の高さで、構造不況と言われ続け、バブル崩壊以降低迷の続く建設業界でも、しっかりと生き残ってきた老舗企業がある。
この会社の創立は、なんと昭和2年(1927年)にまで遡る。
創立当初は、洋樽(洋酒熟成用樽)のメーカーとして発足。
大正から昭和初期にかけての日本は、洋酒の円熟期であったとも言われるほど、ブランデーやウィスキーが多く嗜まれていた時代なのだそうです。モガ・モボ、と言われた当時のハイカラな?若者達が、連日Barに繰り出しては、モダンガールの気を引こうと挙って高い洋酒を楽しんでいたそうな。
しかし、洋酒というくらいだから、酒も樽も、基本的には輸入全盛期。国内では、樽を作る技術も木材も、まだまだ遠い存在だった中で、昭和洋樽は誕生しました。
洋酒に使われる樽というのは、高級品ともなれば何十年も寝かせて作られるもの。謂わば、お酒の揺りかご、良い酒は良い樽によってしか作られない、と言われるくらい重要で繊細な技術を要します。
ここで、洋樽の歴史、製造手法等を簡単にご紹介しておきます。
洋樽の歴史
洋樽を西欧の歴史から見れば,洋樽の形は古代ゴール民族の長い経験の結果生み出されたものです。
洋樽の発祥は、一般に文明の早く開けた地中海沿岸のエジプト,ギリシャ,ローマ人が発明したと思われていますが,実際に一番手はフランス西部森林地帯に住んでいた遊牧のケルト人が今の金属のタガをはめた丸型の樽を最初に作り出したといわれています。
ケルト人が作った樽が大変見事なできだったため、後にフランスに侵入してきてローマ人が,この丈夫な容器を貴重品の貯蔵,ワイン,油,穀物の容器として使ったといわれています。
洋樽の製造手法
材木問屋に雑然と積まれた大量の材木の中で、洋樽に適したナラ材を見つけ出すのは大変な困難作業です。ようやくナラ材を発見したとしても、ナラ材であれば何でも良いかというとそうではありません。
同じナラ材であっても、そこはやはり自然のもの。軽い・重い、柔らかい・堅い、粘りのある・ないなど、一枚一枚その性格が異なります。
その中で可能な限り類似した性質の材木を揃えて洋樽を作る必要があるのです。さらには長年の熟成の中でも水分が漏れ出さないであろう、節目がなく木目の整ったものを選別しなければなりません。
洋酒は、時間という要素が加わってはじめて完成するお酒です。もし自分の仕事である樽が不完全なものであれば、熟成途中で洋酒は漏れ出し、それまで費やした時間も、作り手の思いまでも台無しになってしまいます。確かに熟成を終えた洋酒は、生産者の産物です。しかしその生産者の強い思いが込められた大切な原酒だからこそ、微塵の妥協なし一発勝負の仕事なのです。(参考サイト)
この様な高い技術力を身に付け、現役員である菅兄弟のお二人は、毎日1本100kgの洋樽を製造し、水漏れの無い高精度の樽作りに妥協する事無く取り組み続けていたそうです。
しかし、時代は変り洋樽需要も年々現象して行きます。洋酒製造技術も、機械化の道へと進めば、必要とする道具もまた、変わっていく事になります。だからと言って、機械化や技術革新を否定したところで仕事は生まれません。
そこで、昭和洋樽は昭和61年、高い技術力をそのまま活かしてフローリング業界へと参入したのです。
木材を同じ大きさに切断し、同じ曲率で組み合わせ、何十年も水が漏らないように組み合わせる、という技術力は、フローリングの世界において見事な造形美として生かされる事になりました。
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木材調達から施工までの一貫した責任施工で、高級フローリングメーカーとしての地位を獲得した昭和洋樽は、職人の技術を若手達にも継承しながら、数々の実績を積み重ねて行きました。
しかし、時代はバブル期を経て、ついに世界初のバブル崩壊という現実が立ち塞がりました。あらゆる業界がこの荒波に揉まれて行き、一時期は2000社をも超えていた木材業者も、バブル崩壊からの10年程で、なんと400社にまで減ってしまった程だそうです。
安定的に技術力を保ちながら、その使い道を巧みに変化させながら、なんとか生き残って来た。この時代変化を渡り歩いた菅社長から、本当に厳しい日々の連続であったとのお話をお伺いした時の言葉の重みは、しっかりと印象に残っています。
樽作りで培った【妥協を許さない姿勢】が、現在まで一貫して貫かれてきたからこそ、今こうして歴史ある過程をお伺いする事が出来たのだと思うと、感謝の念が沸き起こります。
昭和洋樽の高級フローリングは、加工技術も去ることながら、質の維持には木材の選定段階から、手を抜くことの許されない仕事となります。
南米から欧州全域まで、優良な木材を入手する為に、今でも社長自ら海外に飛び、直接交渉をして木材の直輸入を行うという拘りよう。
仕入れの段階から、自分の目でしっかりと良い材料を選び、現場で欠陥材があればきちんと取り除き、仕事が深夜に及んでも文句一つ言わず納期に間に合わせるように頑張る。そんなに特別な事はしていなくとも、当り前の事をきっちりと行う会社。それが、昭和洋樽さんの強みです。
そして昭和洋樽さんの強みをもう一つに挙げるとすれば、老舗企業であることです。老舗企業という特徴が強みになる理由を紹介します。
長寿企業の秘密は社会的役割意識
我が国は、世界で群を抜く「老舗企業大国」である。創業百年を超える老舗企業が、個人商店や小企業を含めると、10万社以上あると推定されている。
創業1400年という企業もあるが、たかだか100年前に創業した企業にしても、村落や都市の共同体の中で生まれたことになる。また、資本主義や近代市場が成熟する以前の話なのでその規模は小さい。そして、その企業が存続するには、川下の問屋、小売、消費者、だけではなく、川上の原材料の供給者、中間加工を依頼するなどの企業など、数多くの地域内の小集団との関わりが必要だった。
とりわけ、村落共同体内では、原材料供給から加工生産、そして小売までが社会的分業として完結し、それぞれの役割を果たすことで、村社会は成立していた。ここには、現代の市場社会のような、利益を多く取った方が勝ちという意識はなく、村全体が潤いそれぞれの役割が持続されることに最大に価値がおかれていた。
彼らは信用を重んじるという言葉を使う。一旦信用をなくすと中々信用は取り戻せないともいう。この信用とはなんだろうか?当然、製品の良し悪しもあっただろうが、最大の信用は、みんなが役割と対価を得られるように、企業経営の舵を取っていくこと。そして、その社会が持続するように、少々の外圧がかかっても創業を止めないこと、では無いかと思う。
つまり、彼らはなぜ、こんなに長く活動を続けてこられたのか?の答えは、『社会的役割を果たすため、存続すること自体に価値を置いていたから』ということではないだろうか?だから、現存する長寿企業は、市場社会の荒波の中でも、今までの技術を応用して、関係する生産集団とともに闘い、なんとか生き延びてきたのではないか?
上記の投稿にあるように昭和洋樽さんもまた、『社会的役割』を果たすため、存続すること自体に価値を置き、次代を見据え生産集団として闘ってきたのでしょう。
そしてまた、菅社長の志を次の世代へと引き継がれようとしているのです。常に厳しさと対峙してきた経営者の背中を見ながら、自らも経営者としての成長を意識しつつ、元気に営業挨拶に日々飛び回られている、若きエースのT課長。自社の製品に自信と誇りを持っているからこそ、もっと社内も活性化できるはず。そして、まだまだ学ぶべき事が沢山ある。
今、類グループで検討している経営者たちの集まる理論研修会などにも参加意欲を表明してくれています。
謙虚さを忘れず、常に控えめではあるけれども、話しているといつの間にかワクワク感を共有できる、とても素敵な好青年。
会社も社員も、もっと元気に一緒に頑張りたい、という想いと、長年培った日本人ならではの美的感覚を兼ね備えた技術力。物的生産から、意識生産の時代へと移り変わる中、技術立国日本が自信を持って世界に発信できる力は、質の時代へと移行する中で、更なる進化を遂げる、と期待できます。
今までの蓄積をバネに、更なる充足の供給源としての期待感。そんな想いを共有させて頂く事ができる昭和洋樽製作所に、改めて エール を送ります。
- posted by kaneking at : 23:31 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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