2012年01月17日
共同体社会の実現に向けて【17】 新理論の構築をどう進めてゆくか
前3回の記事では、経済破局後の新しい社会の姿=「共認社会の実現へ向けた新政策」を提起、紹介しました。
ポイントは、
①国家紙幣によるゼロ成長の経済運営、②企業の共同体化、③社会統合機関の交代担当性、④農漁村共同体の建設と教育の抜本的改革(農漁村の全寮制学校)です。
今回は、最後の難問「新理論の構築をどう進めてゆくか」について扱います。
現在の社会は近代思想(個人主義、民主主義、市場主義etc)に導かれて形成されてきたわけですが、ここに来て事態は悪くなる一方であり、それにもかかわらず統合階級(政治家、学者、官僚、マスコミ)は誤魔化しに終始し小手先の弥縫策しか出せないでいます。結果、社会の閉塞は深まり、もはや人類は滅亡の危機に瀕しているとさえ言えます。
時代は今、かつてなかったほどの大転換期を迎えています。新しい時代を拓き、社会を統合するには新しい理論が必要。これから先、人々の意識はどう動いてゆくのか? 新理論の追求はいつどのように始まるのか? そして今、我々にできること、なすべきことは何なのか?考えてみたいと思います 🙁
【新理論の構築をどう進めてゆくか】
デフォルトが起きるまでに準備しておくべき課題は、共同体企業のネットワーク作りと、それを導く新理論の構築の、二つある。
とりわけ、近代思想に代わる新理論の構築は、不可能に近い超難課題であるが、はたして経済破局までに間に合うのだろうか?
バブルが崩壊した’90年以降、見通し不良と先行き不安から、「この先、どうなる?」という方向へ意識が向かい、滅亡論や陰謀論が登場したが、’11年原発災害以降は、「どうなる?」という情報探索が加速し、予知・予言に対する関心が急上昇してきた。しかし、予知や予言が一点に収束することはないので、結局は、「現状(=事実)は、どうなっている?」という状況認識に収束してゆく。
おそらく、この先行き不安発の情報探索は、1~2年後には「放射能はなくならない」「日本経済の没落も避けられない」etc、『もう元には戻れない』という状況判断に収束してゆくだろう。この『もう元には戻れない』という判断は、状況認識の大きな転換であり、それは脱市場社会への価値観の転換を引き起こす。
◆人々の意識はどのように変化するか?
’90年バブル崩壊により私権拡大の可能性が消滅、人々の意識の心底に収束不全が蓄積され、見通し不良と先行き不安から情報探索と可能性探索が無意識のうちに始まります
そして’11年の東北大震災と福島原発事漠とした、しかし底知れぬ深い先行き不安が決定的となり、いったいこの先どうなる?という情報探索が加速、いったい現状(=事実)はどうなっている?という状況=事実認識に収束していきま
新しい状況を読み、新しい可能性を探り当てるには、旧いモノサシ(価値観)ではなく新しいモノサシ(観念)が必要となります。しかし現状は、必死に情報探索をするものの膨大かつ断片的な情報に埋もれて目先に収束するだけ、または結局何をしたらいいのか分からない状態で、新理論追求には至らない状況です。
いったい何が壁になっているのでしょうか? 大きくは二つ考えられます。
ひとつは、市場社会における過剰刺激、過剰情報による「情報中毒」で思考力・追求力が麻痺していまい、目先思考が常態化してしまっていることです(都合の良い、表面的な情報に飛びつくだけ)。
もうひとつは、「絶対に正しい」という価値観念で存在している近代思想=旧観念(個人、恋愛、民主主義、経済成長etc)に徹底的に洗脳されてしまっていることです。新しい観念を追求しようにも、旧い観念が頭の中で完全に固定化されて動かない(それを捨てることは存在の拠り所の崩壊となる)、それゆえに、旧観念とは異なる理論追求が半ば自動的に忌避されるからです。
つまり「目先思考の壁」「旧観念支配の壁」が新理論追求の壁となっています。
この壁を突破できるのか? 上記にあるように「もう元には戻れない」という状況判断(世界が変わってしまったという状況判断)→目先思考ではどうにもならない、旧観念ではどうにもならないという意識が転換点となる可能性が高いのではないでしょうか
参考:学校やマスコミによって刷り込まれた「絶対に正しい」という旧観念が理論追求忌避の元凶
画像はこちら
従って、おそらく数年後には、脱市場≒ゼロ成長の自然循環型社会への変革気運が高まってゆくだろう。社会はガタガタで、政府が機能を失いつつある現在の状況は、人々の統合期待に応えて諸子百家が次々と登場した春秋時代に近いとも言える。今回も、社会的な統合気運の高まりを受けて、脱市場社会に向けての理論追求が始まるはずである。
あるいは、あと10年あれば、新理論家が次々と登場してきたかもしれない。しかし、経済破局までに残された時間は1~2年(運が良ければ3~4年)しかない。いったんデフォルト→リセットに突入すれば、一気に現実が緊迫し、状況は日々刻々と動いてゆく。そうなれば、人々の意識は目先の「どうなる?」「どうする?」に収束し、理論追求どころではなくなってしまう。
しかし同時に、米・中・欧が次々と秩序崩壊してゆくのを見て、根本的な転換の必要が共認されてゆき、それを実現してくれそうな新勢力に対する期待が高まってゆく。
◆新理論追求の機運はどのようにして登場するのか?
現在、そして近未来の人々の意識は、深いところでどのように変化していくのでしょうか。新理論追求は、どのようになされていくのでしょうか。
’70年以降、潜在思念は私権原理から共認原理へと転換しており、顕在意識を支配する旧観念との乖離はどんどん広がっています。そのような状況にありながら、これまでは、目先思考の壁・旧観念支配の壁により、新理論追求には向かってきませんでした。しかし、現在の最先端の意識潮流からは、徐々に可能性の萌芽も見え始めています。
ひとつは、かつての私権収束とは180度異なる、脱物系・脱本能系の観念への収束です。10年ほど前から登場した「もったいない」という言葉に始まって、節約意識は年々高まり、最近では食欲・性欲を始めとする本能や自我を抑制すべきという意識が登場しています。その一例が「食べなければ死なない」です。これは、’70年貧困が消滅して豊かさが実現され、そこから始まって人々の意識が本能の抑制に入ったことを意味します 🙂
参考:庶民から新しい観念が登場し始めた(節約⇒食抑、課題収束⇒答え欠乏)
画像はこちら
もうひとつは、仕事を社会的な地平で肯定的に捉え、『社会を良くする』ことを現実課題の一つとして捉えている若者の出現です。同時に彼らは、より深い地平での状況認識(の言葉)を求めているという共通項があり、新認識収束と捉えることができます。課題収束の強まりによって、仕事を通じて社会をよくすることを現実的な課題として捉え、だからこそ現実を的確に掴む「新しい言葉」を求めているようです。これは、社会をよくすることをリアルな課題として捉え、実現のベクトルで考えているという点で、一昔前の「社会派」とはまったく異なります (期待応合収束⇒課題収束⇒仕事収束⇒社会収束⇒状況認識⇒新認識)
参考:課題収束発の社会収束と、状況認識のための新しい概念
上述の「もう元には戻れない」という状況認識が広がるにつれ、これらの意識がますます広がっていくことは間違いないでしょう。経済リセットが現実のものとなれば、短期的には再び目先収束が加速する可能性がありますが、米・中・欧の秩序崩壊などに伴い、「もう元には戻れない」という状況認識が拡がり、一気に新認識への収束が目先収束・旧観念支配の壁を突き破っていくだろうと予測されます
はたして、その期待に応えられるか?
既にこれまでに、新理論がある程度構築されていれば良いが、現在までのところ、そのような新理論は、『実現論』以外には見つかっていない。
従って、残された時間の中で、可能な限り、実現論の改稿を進めるしかない。しかし、私自身は、実現論を改稿するためのまとまった時間が、取れそうにない。私に出来るのは、せいぜい、実現論の序と章立て(全体構成)を考えることくらいだろう。従って、これまでるいネットに蓄積された秀作群を、その章立てに応じて再編成し、実現論の塗り重ね板を作るしか、手はない。
この塗り重ね板があれば、デフォルト後の大混乱期でも、最低限の認識の組み替えは可能になる。そして、それはそのまま、共認社会を統合する理論統合サイトの原型となる。
どうやら、人々が本格的に認識収束し始めるのはリセット以降となり、本格的な理論追求が始まるのは、新政権が樹立され共認社会に転換した後となりそうである。
デフォルト後の大混乱期には、人々の意識は「どうする?」に強く収束し、社会統合期待は最高潮に達する。
そして、新政権が樹立され、共認社会が建設されてゆく頃には、認識収束が高まり、本格的な理論追求の時代が始まるだろう。
その追求と発信の場として、理論統合サイトが形成されるはずである。そこでの統合軸は、当然、『事実の共認』となる。
皆の手で構築され、無限に進化してゆく事実の体系は、やがて、人類を導く人類の『鑑』となってゆくだろう。
◆新理論とはどのようなものか?
共認社会への転換を導き、新しい社会を設計し統合していくためには、近代思想に代わる新しい理論が必要。それは誰かの自我にとって都合の良い観念ではなく、誰もが認めることができる事実の体系となるはずであり、自然の摂理に学び、歴史に学び、先人の知恵に学ぶ史的構造論となるでしょう。そうした構造認識を言葉化した概念装置は、次々と入ってくる情報を整除するためにも必要となり、また日々の仕事など現実の課題に答えを出していく武器にもなります。
そして、未だ構築されていない近代思想に代わる新たな理論を構築していくためには、は、事実追求と発信の場が不可欠となります。現実の圧力を受ける社会の当事者たちによって、事実が塗り重ねられていくことによって事実の認識体系は進化し、新理論は構築されていくのです 🙂
★図解【意識潮流予測と新理論の構築】
なお、将来は、全ての工業製品の耐用年数を2~3倍に上昇させる(例えば、耐用年数に応じて売り上げ税率に大きな差をつける)ことによって、物の生産・運送・販売およびそれに付帯する金融その他のサービスに要する労働時間は、1/2~1/3に圧縮される。もちろん、必要資源量もゴミの量も半分以下となる。
従って、食糧も含めて物的生産に必要な国民の労働時間は5時間程度に縮小する。ここで、仮に農共と企業との交代担当制において、企業では従来どおり8時間働くとすれば、農村共同体での労働時間はわずか2時間となる。いったい、残りの時間は何をするのか?
これは、まったく新しいスタイルの生活が始まるということであり、大胆な頭の切り替えが必要になる。実現論では、共認圧力に基づく評価競争の社会になると予測されているが、おそらく余力時間は、「集団をどうする?社会をどうする?」という統合課題をはじめとする、さまざまな未明課題を追求する時間となるだろう。言わば、大衆による、創造の時代の始まりである。次の共認時代は、人類の頭脳進化の時代になると期待したい。
●脱市場の新しい生活スタイル、共認圧力に基づく評価競争の社会
将来は、全ての工業製品の耐用年数が上昇するだけではなく、物的な生産と消費が全般的に大幅に抑制される社会になるでしょう。
物的生産と消費のあくなき拡大(物の豊かさ)を目指す市場社会から、共認充足(心の豊かさ)を追求する時代となり、物欲は衰弱する一方で、上手く工夫して物を大切に使う知恵、皆の期待に応える創造性、皆の役に立つ認識や発明が評価される時代になります。市場拡大絶対の価値観から解放され、自然環境と調和した循環型の社会への転換です
参考:
自然も人も壊す拡大型社会~拡大型社会を造った原因
自然も人も壊す拡大型社会~負面の研究と新しい挑戦、本来の充足へ
物的生産も消費も抑制された社会というと活力が衰弱した社会をイメージするかもしれませんが、逆に活力も今より数段上昇します。現代でも多くの人々の活力源はみんなの役に立つことに変わってきていますが、私権確保と両立出来ずに活力が出し切れていない状態です。それが、みんなの期待に応えることを全面的に活力源に出来る社会になるのです。物的生産に使っている時間が大幅に減ることで、人々の活動はみんなの期待に応える活動に大幅にシフトしていくことが可能になるからです。
社会の様々な問題を解決するために新理論を構築する人、新エネルギー開発や難病治療などのために科学技術を追求する人、みんなを喜ばせるために芸術を追求する人、みんなで楽しめるつどいを企画する人、課題は無限にありみんなに喜んでもらうための工夫も無限に追究することが出来ます。物的生産にかける時間は減っても、みんなの期待に応えるための活動、統合課題、充足課題、意識生産は無限であり、楽しく活動時間がどんどん増えていくのではないでしょうか
画像はこちら 追究 研究 音楽 もちつき
時代はかつてなかったほどの大転換を迎えています。これまでの旧い観念(常識、制度)に拠っていては崩壊を待つばかりであり、小手先では到底生き残れません
大転換に対応するには、この転換が何を意味するのか、そして現在形成されつつある新しい活力源と、それが生み出す新しい社会の姿を明確に掴む必要があります。
そのためには、全文明史をさかのぼって人類の歴史的な進化の構造=実現構造を掴む必要があり、おそらく、それらを体系化したものが新理論の原型となるでしょう。
今我々にできること、なすべきことは、できるかぎり、事実認識を蓄積し皆の手で塗り重ねていくこと。そこから抽出された概念装置の習得を進め、その概念装置を使って現実の課題に答えを出していくこと。我々、現実に生きる生産者にとって、どんな状況になっても生き残っていくためには、答えを出せる能力が必要です。
そして、理論を学びながら多くの仲間たちとこの外圧(大転換の認識)を共有し、共に答えを出す仲間になってほしいと期待していくことではないかと考えています 。
次回は、本シリーズのおさらいと総まとめをお届けする予定です
- posted by kazue.m at : 10:10 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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