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2012年03月01日

『企業の進むべき道』1~経済同友会ってどうゆう会?~

 いよいよ始まりました企業の進むべき道シリーズ
 
第一弾は、「経済同友会ってどうゆう会?」と題して、経済同友会の設立から、これまでの活動、そして現在を読解しながら、経済同友会の骨格を捉えていきたいと思います :wink:
 

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1.同友会の設立までの流れ
 
 経済同友会とは、現在、経済団体連合会(経団連)日本商工会議所(日商)、と合わせて、日本の経済3団体の一つに位置づけられている大きな組織の一つです。
 
 第二次世界大戦の敗戦直後、日本はGHQによる財界解体によって各企業の旧経営者が一掃されることとなりました。食糧難、インフレ、原材料不足、貧弱な設備、財閥解体で、戦後の混乱状況が続く中、部課長クラスの若手経営者たちが突如企業を背負っていくことになります。
 (実際には解体後しばらくして再統合され、日本の主要な資本勢力として財閥は残存していくこととなります。ちなみに、日本で昔から残存してきた財閥には、江戸から続くもので三井財閥・住友財閥、明治から続くもので三菱(岩崎家)財閥・安田財閥。この四財閥は日本の四大財閥と呼ばれます。)
 
 その中で、「互いに切磋琢磨しながら親交を深める団体を作ることで苦境を乗り切ろう」と集結し、団体同士の結びつきではなく、個人での結びつきを重視し、一企業や特定業種の利害を超えて、全く自由な経済人が個人として参加し、自主独立の精神をもって、自由闊達な提言、主張することを目的として設立されたのが、現在まで続く経済同友会の始まり。
 
 諸井貫一(秩父セメント常務)、郷司浩平(重要産業協議会事務局長)、財界四天王の一人である桜田武(日清紡績取締役社長)らが中心となり、米国の青年会議所や全米製造業者協会を参考にしながら骨子をまとめ、1946年4月30日に東京丸の内の日本工業倶楽部にて設立。創立時の構成メンバー計83人。その内幹事メンバーは、三井精機工業社長、三井物産常務、日本興業銀行理事、理研工業社長、国策パルプ常務、日清製粉社長、日本勧業銀行理事、麻生セメント社長、王子製紙取締役、芝浦工機理事、日本鋼管取締役、日興証券取締役、日立製作所総務部長、の計13人。いずれも、当時の工業社会を率いる大企業群の面々です。
 
 設立趣意書には、メンバーの並々ならぬ意気込みと理想主義がありました。
設立趣意書
 

 「日本はいま焦土にひとしい荒廃の中から立ち上がろうとしている。新しき祖国は人類の厚生と世界文化に寄与するに足る真に民主々義的な平和国家でなければならない…われわれは経済人として新生日本の構築に全力を捧げたい」

 
 また、この結成当時の状況を茨城大学人文学部の古賀純一郎氏は「経済同友会と社会的責任(CSR)」の中で次のように述べています。
 

 経団連や同友会の設立後の1948年4月、当時先鋭化していた労働問題を専門に担当する日経連が創設され、この経済4団体でいわゆる財界が構成されることになった。“財界労務部”日経連は戦後の経済民主化政策の中で、三井三池争議に代表される労働争議が華やかなりし頃、労使交渉で矢面に立ち、活躍した。その日経連は、労働運動の先取りとともに存在意義が問われるようになり、2002年に経団連と統合。日本経団連として衣替えし、再出発。現在、財界は3段体制となっている。
 
(中略)
 
 中心は40代。多くがマルクス経済学の洗礼を受けた大卒のインテリ。互いに切磋琢磨、啓発し合い親交を深めるのも目的であった。財閥系を中心とする旧体制の財界人はほとんど含まれていなかった。自由闊達な雰囲気が支配、勢い進歩的、先進的な意見が飛び交った。まさに廃墟の中から日本経済の再建に乗り出した「焼け跡整理の青年団」の趣があった。
 
(中略)
 
 入会規制も特に設けなかった。「本会の趣旨に賛同する進歩的な事業経営者」程度であった。会員の出身企業などを重視するのがそれまでの経済団体の特徴だった。だから、個人の資格で参加が許されるのは、当時としては画期的なことでもあった。出身企業の規模や財閥系かどうかなどは一切関係ない。若手経営者も自分の信念に基づき、思いのたけを吐露。自らの良心に従い、その信念を誰にも気兼ねなく発信できた。その伝統は、現在の同友会にも残されている。

 以上のように、戦後の焼け野原から日本経済の成長、企業経営者のあり方を模索する真摯な姿が見て取れます
 
 しかし、実は同年に経団連も立ち上げられています。同友会はあくまでも「経営者個人としての参加」に力点を置いているとは言え、何故大企業の連合体をわざわざ異なる形で起ち上げる必要があったのでしょうか?この辺りは、他団体の設立経緯や時代背景等を通じて、包括的な追求に取り組むべきポイントと成りそうです。
 
 
 
2.修正資本主義
 
 貧困克服を推進力として、資本経済の拡大を推し進めた日本の財界。結成当時は、GHQの日本占領下政策の一つである経済民主化によって、労働者側組織と経営者側組織でたくさん対立が起こり、混沌を呈していました。そのため、財界の目的である資本経済拡大が順調に進まない状況となっていたのです。同友会としても議論・見解を整理する必要に迫られ、経営者が労働者を巻き込むことで、障害なく拡大していこうと、1947年1月に大塚万丈を委員長に提起されたのが修正資本主義です。
 
大塚氏は修正資本主義について次のように述べています。
 

社会主義も極端に画一主義に走れば人間性を殺すことになる。資本主義も極端な自由放任に任せると混乱のもとになる。わたしはこの中間に当然あたらしい立場が生まれるべきものと考える。

 
 マルクス主義を取り入れた修正資本主義は、労働者介入で企業を拡大していく日本独自の労使共同体制を構築することを目的としていたため、労働者共同型の経営に異を唱える桜田武は経済同友会から脱会し、経団連に力点を置いていきます。
 
 結局の所、この「修正資本主義」は当時の企業人達に大きなインパクトを与えたものの、当時の保守派からの猛反発等もあり、同友会としての正式な採択には至らずに終わりました。この辺りの思想的影響は、当時の欧州系の金融勢力を後ろ盾とした実験的投げ掛けでもあったようです。しかし、貧困圧力の高い時代であるが故に、労働運動の圧力も過激さを増すばかりの社会情勢において、三位一体の経営方針という考え方は実質的には広く受け入れられていく基盤も有り、採択はされずともその考え方は長く影響を与え続ける事になりました。
 
 
 
3.貧困消滅までの社会的責任(CSR)を巡る活動
 
 設立から日本経済の成長、企業経営者のあり方を模索してきた経済同友会ですが、その考えや活動の方向性は日本経済の動きに翻弄されていきます。
 
その状況を古賀氏は次のように記述しています。
 

 インフレの高進、経済危機の深刻化なども手伝って、同友会のその後の活動は、社会的責任論から急旋回し、経済危機打開に向けた政策提言が中心となる。経営者のあるべき論、理念などを模索する活動から次第に遠ざかる。
 
 だが、朝鮮戦争を機に日本の経済復興が軌道に乗り出すとその様相は、俄然、変わってきた。今度は、経営者の活動理念について力点が向き始めた。振り子が逆方向に揺れだしたのである。
 
 これは、ひとつの仮説とも言えようが、同友会の歴史は、取り巻く環境によって活動の力点が経済政策と社会の理念の間を振り子のように揺れ動いているのではあるまいか。
 
 鮮明になったのは、「新しい経営理念」などが集中討議された1955 年(昭和30 年)11 月の第8 回全国大会であった。この中で、“財界の鞍馬天狗”と異名を持つ同友会理事(当時)の中山素平が、新しい経営理念について「それは社会的責任」「株主に対する責任,従業員に対する責任、公衆に対する責任というものが要求される」との新しい地平を切り開く独自の見解を披露した。
 
 後に日経連会長などを務めた同友会幹事の桜田武も「我々経営者精神の根本は我々経営者がその事業を、“真に公器としてこれを預かる”の理念に徹することである」「利己的な目的にのみ運営されるならばその事業の社会的価値は失われる」などと力説した。

 
 このように、経済同友会の路線は、貧困が克服されていくにつれ、経団連同様、経営者中心へ変化していきました。しかし、単に経済成長だけが経営者中心路線への足がかりになったという訳ではないようです。
 
 当時、それまでの環境考慮を排除した生産体制によって露呈していた産業公害が問題になっていました。1955年には森永ヒ素ミルク中毒事件、1956年には水俣病など、企業の責任について社会的外圧が上昇し始めていました。
 
 この両者が経営者中心路線への変化を加速させていったようです。
 
 
 
 朝鮮特需、産業公害を契機に大きくなった社会経済変動に対して、利己的な利潤追求・生産第一主義の考え方が優先する経団連の対応は遅く、有効な対策を打ち出せずにいました。そこで社会的責任論を主軸に経済同友会を率いていったのが木川田一隆(東電副社長)です。
 
 木川田氏は1970年1月に発表した「社会開発と国際化の10年」の中で、経営者の社会的責任について
 
①.新しい社会建設への参加
②.国際的責務の遂行
③.社会福祉の確保
 
と提示しました。また、ドイツ経営者との合同会議の中では経営者の社会的責任について次のような所見を述べています。
 

 「企業の利己的な利潤追求・生産第一主義の考え方と行動が、必ずしも社会と調和しえなくなってきている」「社会不安のもととなり、自由主義経済自体のひとつの危機的条
件につながる恐れがある」「企業の社会的責任を果たすために、公害や安全の問題に関する社会的な費用は、外部不経済といえども必要経費として支出する」

  
 こうして、企業の社会的責任を社会規範とすることで、経営者、労働者、日本国民ともに統合していこうとした木川田氏でしたが、1973年の石油ショックによる、狂乱インフレ、資源・エネルギー問題といった企業の生存課題が再来すると、企業の社会責任への視点は曖昧になっていきました。木川田氏の後任には、前日銀総裁の佐々木直が就任し、それ以降、社会責任論は経済同友会から姿を消し、売り上げや、利益に直接響く、規制緩和などの経済政策に再度力点が置かれていきます。
 
 その後は、石原俊(日産自動車社長)、速水優(日商岩井会長)、牛尾治朗(ウシオ電機会長)、小林陽太朗(富士ゼロックス会長)北城恪太郎(日本IBM会長)、桜井正光(リコー会長)と利己的な利潤追求・生産第一主義路線を貫徹していきます。
 
 こうして経済同友会は、設立から貧困が消滅する70年代にかけて、経済状況に応じて活動の力点が経済政策と社会理念の間を行き来し、流動的に活動し、多くの提言をしてきましたが、結果として社会構造を決定的に変えることはできませんでした。その後は、経団連と同様、利益第一主義で活動しつつ、昨今では経団連とも利害対立を起こしているように見えます。
 
 70年代の貧困の消滅を期に、縮小していく経済を思い描かず、日本の経済成長という大義を掲げ、利己的に自らの資本成長を念頭においた活動をしてきた財界。今日、至る所で露呈している企業献金・汚職問題、リストラを初めとする企業問題の原因は、そうした資本主義経済の繁栄は絶対という観念に基づいて活動してきたことにあるようですね。
 
 
次回は、経済同友会とほぼ同時に発足した経団連に注目していきたいと思います。
 
 
※参考
戦後の時代の動き
 
戦後日本の高度経済成長はどのように成立したのか?
 

■私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
 
 飢餓の圧力を下敷きにしたこの私権の強制圧力の下では、力の序列に基づく収奪によって、人工的に貧困が作り出される。従って、そこでは人々の物的欠乏は、あたかも不変で無限なものであるかのように見える。
 
 次の市場社会とは、人々を私権の強制圧力で追い立てた上で、私権拡大の可能性を囃し立て、あらゆる手段を駆使して人々の欲望を刺激し続ける社会であり、それによって私権闘争(利益競争)を加速させた社会である。
そこでは、利便性や快美性を煽る情報によって人々の欲望が過剰に刺激され、その結果、移動や消費の回転スピードがどんどん高速化してゆく。むしろ、欲望の過剰刺激と生活回転の高速化によってこそ、市場拡大は実現されると言ってもよい。
 
 事実は、こうである。この過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、誰もが私権の獲得に収束する絶対的な私権欠乏があってはじめて成立する。そしてその私権欠乏は、飢餓の圧力を下敷きとする絶対的な私権圧力の下ではじめて成立する。つまり、過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、飢餓の圧力に基づく絶対的な私権圧力が働かなければ、成立しない。
その証拠に、’70年、貧困(=飢餓の圧力)が消滅するや否や、たちまち私権力は衰弱し、それとともに過剰刺激によって肥大し続けてきた物的欠乏も衰弱していった。

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