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2012年10月04日

『企業の進むべき道』15 「市場原理に変わる期待応合ネットワークシステム」

これまで『企業の進むべき道』をテーマに企業の適正規模や統合原理について調査を続けてきました。
本日はリーマンショックや東日本大震災など厳しい状況が続き、世界経済や日本の経済が低迷する中で、この状況を積極的に受け入れ、新しい可能性を追求し始めた組織がちらほら出現している状況変化と、可能性の必然構造を探りたいと思います。
まずは市場原理の終焉が、新しい社会への一歩となった事例を紹介しましょう。

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1)金の切れ目が縁のきれ目:市場原理の終焉

金の切れ目が・・・(るいネットより)
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経済危機に直面し、これから一層厳しい経済状況の中で生きていかなければならないのは必至でしょう。
どんどん苦しくなり、どん底まで行けばどうなるか?
アメリカだったら。。。金が切れて、金で繋がれた縁も切れ、その瞬間にドンパチ!!ドンパチ!!いたる所で略奪=紛争・戦争が始まるように思います。正に【金の切れ目が、縁の切れ目】状態。
しかし、日本人は?
>安定・保守収束→実現収束、秩序収束のさらに根底をなすものは貧困の消滅に起因する充足収束の潮流であろう。貧困の消滅によって外圧が低下すると充足収束が上昇し、社会の安定を重視する女原理主導の社会となる。(212988)
つまり、【金の切れ目は、新たな始まり】

アメリカであれば金が切れれば暴動が起きますが、日本では、金が切れると私権のしがらみが無くなり、日本人が本来持っている本源潮流が加速します。重要なのは、現実を対象化すべく思考し続けることで、騙しに惑わされない本物の実現力を身につけることなのです。

2)縁が切れたおかげで幸せになった国:アイスランド

主流メディアは報道しないが、既に、アイスランドで無血革命が進行している!(るいネット)
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アイスランドが2008年にデフォルトし、その際、借金を踏み倒したこと、そしてその後、わずか4年で、国債の格付けを投資適格まで引き上げるのに成功した(中略)
― 内閣総辞職
― 中央銀行国有化
― 経済に関する決定を、国民投票で
― 責任者たちを投獄
― 国民による憲法改正

アイスランド~無血革命で人々に「余力」が生まれた
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国家破綻して、中央銀行マフィア・ネットワークに捨てられても、アイスランド人々は困ることはなく、貧しくても普通に楽しそうに生活していているようです。
また、お金のためにあくせく働く必要がなくなり、生活にゆとりが出来て「余力」が生まれたようです。この「余力」が、経済再生のためにどうしたら良いかを考える時間に当てられているのかも知れません。
~中略~
アイスランド人は時間はある。
日本人は両方ない。

アイスランドの無血革命に関する事例から、私たちは「お金がなければ、物理的に時間も作れない」というマインドコントロールに支配されていたのだ、ということに気づかされます。つまり市場原理の終焉は、私たちに本当の豊かさ・充足とは何かということを気づかせてくれる転機となり得るのです。見えない何かに支配され、無理をしていることに日本人は気づくべきなのではないでしょうか。
以前の投稿で「共認支配と共認形成」の違いについて触れました。
上記の記事は、まさに市場原理が終焉を迎え、共認支配による企業統治や、無理やり成長が実現不可能となっている中で、大企業ほど自身の成長・拡大基盤だった『閨閥』や『経済団体』などの力の基盤が、いまやしがらみにしかなっていない実態を明らかにしています。これまでの考え方に固執し、方針転換を図ることができない現実が浮き彫りになる投稿です。
共認支配を牛耳っていた金貸しやマスコミや学者などが、今までどおりのストーリー=統合理論を替えることなく、旧観念による支配を続けようとしているのです。これに囚われているからうまく行かないという現実に気がつけない。
しかし普通の人は、もはや市場社会で消費を強制されることに違和感を覚えて離脱し始めていますし、日本が進むべき新しい社会への一歩は、時代の原理を終わらせることではなく、先ずはその原理が自分たちにとって本当に必要なのかどうか(現実)をしっかりと見つめ直し、思考し始めることなのではないか、と思います。

3)金が無くても必要なものは残る。衣食住と人、そして観念進化

内田樹のブログ 贈与の経済
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商品への欲望が身体的欲求のレベルにまで鎮静したら、資本主義は崩壊してしまうとエコノミストたちは恐怖しています。でも、僕はそうは思わない。何か違うことをやればいい。とりあえず、昔に戻って「贈与経済」をやればいいんじゃないか、と。
 贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
 「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことはできなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。
 別に突拍子もないことを言っているわけではありません。本来、貨幣というのは、交換の運動を起こすためにあるものなんですから、誤って退蔵されているなら、それを「吐き出させ」て、回すのが筋なんです。その方が貨幣にしたって、「貨幣として世に出た甲斐」があろうというものです。
~中略~
今、ぽんと大金が入ってきたら、「どんなふうに使えばみんなが喜ぶだろう」という想像をいつもしている人間だけが効果的な贈与を果たすことが出来る。
~中略~
贈与経済が成り立つための要件は、ですからある意味きわめてシンプルです。市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的なネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを愉しむようなマインドをもつ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済システムです。

いかがでしょう?
一昔前(貧困の時代)であればこのような発想は、夢物語で誰も可能性を感じなかったはずですが、現在のように私権第一→共認充足第一の時代に大きく転換した時代においては、貧困の圧力を背景にした契約関係=交換関係以上に、贈与による共認充足関係こそが次代の可能性であり、本流であることに大いに可能性を感じている様子が分かります。
現在ある市場経済から脱して、市場原理によらない物流交換のNW=贈与による充足関係の構築による社会の活力再生への可能性を提示している事例だといえます。

ぼくはお金を使わずに生きることにした
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・この実験で証明したいのは、お金がなくても「生き延びられること」ではなく「豊かに暮らせること」だ――1年間お金を使わずに生活する実験をした29歳の若者の記事がイギリスのテレビや新聞で紹介されるや、世界中から取材が殺到し、大きな反響を呼んだ。
~中略~
・実験中、お前がお金を使わずに生活できるのは皆がお金を使っているからだ、と何度も言われた。「お金が存在しなくて、私が税金を払っていなかったら、自転車を走らせる道路はどうやって作るのだ」。無理もない意見だが、その前提には「物を創りだすにはお金が必要」という考えがある。ぼくが思うに、この前提がそもそもまちがっているのだ。
・何かするときにお金を利用するのは一つのやり方にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法ではあっても、道路の建設自体にはまったく必要ない。お金を使えば遠隔地の労働力を利用できるようになり、道路のアスファルトは、まず例外なくどこか遠くの人びとによって作られることになるだろう。お金を使わずに生活していたら、必要な材料は地域内で調達せざるをえない。地域社会のニーズにこたえる責任が生じるし、おのずと自分たちが使う物に対する認識が深まる。また、近隣の脳動力を利用せざるをえなくなる点も、ピークオイルや気候変動などの深刻な問題の解決にはきわめて重要だ。自分たちが必要とする道を地域住民が作れないわけがない。意思決定を地域社会にゆだねれば、住人どうしが協力して自分たちに必要な物を作るのを妨げる障害はなくなる。ちょっと見方を変えるだけのことだ。

この投稿での重要な点は、「物を創りだすにはお金が必要」という前提を、ちょっと見方を変えることだと提起しているところです。
お金を使わないと生活できない!という前提は、あくまで市場原理の上でしか成り立ちません。その市場原理という社会の形は人類500万年の歴史のうちほんの一部分でしかありません。私権圧力が衰弱し、人類本来の活力源である共認充足への可能性が開かれた現代においては、市場の消費者としてではなく、社会の当事者として活力を持って生きていけることを示してくれているのです。
彼らはお金を稼ぐことも、消費することももはや強制されるべきものではないと感じているのです。
可能性に気付いた社会の当事者たちは、日々の生活で当たり前のことをする中で、人々が活力を持って共に生きていける適応原理を再確認し始めています。
4)活力循環の仕組みさえあれば、社会は存続する

企業を取り巻く外圧変化⇒適応方針は?
企業を取り巻く外圧変化⇒適応方針は共同体企業のネットワーク
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・整理すると、1970~2000年までの40年間で、社会構造や意識潮流は劇的に変わった。しかし、その事実を認めようとしない、金貸し勢力=市場拡大推進派こそが、社会の癌であり、叩き潰すべき相手である、という事。人々の充足に充ちた生活を脅かす、張本人だ。
・企業が取り組むべき方針は、金を借りずとも生産に従事できる体制の確立(自社株・共同出資制など)に向けた取組み、社員を守る体制、そして利益の中身を「金儲け」から「社員の充足・顧客の充足」へと転換させる事だ。
・仲間やみんなの為なら、どこまでも頑張れる。そんな縄文体質の強さをこそ、気迫を持って見せていく時ではないだろうか。
・ちなみに、自主管理型組織のネットワーク、つまり共同体企業ネットワークが広がりさえすれば、金貸しを潰すのは簡単。国民が一斉にお金を降ろせば、お終い。もちろん、自給自足体制が整っている事が前提ですが、一番重要なのは金回りでは無く、食料循環であり、充足循環である事を考えれば、そんなに難しい事でも無さそうです。
・国(政治)には期待できないなんて後ろ向きの姿勢では無く、社会を良くする為にこそ仕事に取り組む、という前向きな姿勢こそが、評価される時代。掲げるべきは、「皆の生きる場を、皆の手で築いていく」で決まり!

1970年以降、給与は5倍、物価は3倍でつまり基本的な生活の水準は変わらないのに、豊かになっていたのかすら怪しい社会を我々は生きているのです。
この違和感に気付き、期待応合を中心に、外圧適応体としての『共同体企業』へと転換していく会社は、当然大企業よりも中小の企業が多く、特に老舗の企業の多くが、社員と顧客の充足度に重きを置いた経営を加速しています。国家規模で認識転換を図ったアイスランドの事例などは、日本が世界一の借金大国という汚名を返上し、これからの日本を考える上で大いに参考になると思います。
共同体企業の外向きの行動は、互いに触発され、影響を及ぼし、次第に繋がりを作り、まさに充足のネットワークを形成しつつあります。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
以下は参考となりそうな記事です。更に追求したい方は是非ご覧ください!!
実現論:序7(上) 国家紙幣によるゼロ成長の経済運営
実現論:序7(中) 企業を共同体化し、統合機関を交代担当制にする
実現論:序7(下) 農(漁)村共同体の建設

 

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