2013年02月09日
『共同体経営とは?』11 社内ネットの可能性 ~認識の進化と実践の積み重ね この両輪が会社を変える~ その1
■はじめに
皆さんこんにちは 。今日は『共同体経営とは?』シリーズ、11回目の記事です。内容は「社内ネット」に関してお話します。
本ブログでも、社内ネットの有用性に関する記事は、過去にも数多くご紹介させていただいています(⇒「活力と一体感を生み出す類グループの社内ネット紹介第18回~これまでのまとめ」 )。その一方で、類グループがどういった経緯で社内ネット導入に至り、今の形態(→社内ネットの機能について)に行き着いたのかは、あまり触れられたことがありません。そこで、本記事でそのあたりの変遷を概略でご紹介することにしました。少し長くなりそうなので2~3回に分けてお伝えします。
決して順風満帆ではない、しかし、共同体であるからこそ乗り越えられた問題等、可能な限り生々しくいきます。ご期待ください。(社内ネットの導入を検討されている企業様、あるいは既に導入を頂き、しかしながら活性化しないとお悩み企業様に、わずかでもお役に立てれば幸いです。)
■前提・・・社内ネット開設以前からあること
類グループは、創業以来「事実」を基盤にしています。皆の合議制によって運営される共同体の根幹=「事実の共認」です。これは、前々回の記事でも明らかにしました。
様々な価値観が存在する現在、誰もが認めることができるのは「事実」しかありません。そのため、類グループの先人は、日常の仕事(現業)以外に、社会問題を掘り下げ更にその根本原因を掘り下げ、事実を追求する時間を共有してきました。
実はこの追求は、多くの場合、会社の事業規模拡大などに伴う体制問題と隣り合わせでした。いうなれば、必要に迫られて行われたことです(これも前々回の記事でインタビューして明らかにしました)。
問題とは、何かがズレて噛み合わないから生ずるもの。この「何か」を考えるとき、世間一般には責任者等の“個人的資質”に帰結させる傾向があります。失態をしでかしてしまった人の更迭や出向の人事はその象徴でしょう。ところが、それでは体制問題の根本改善にはつながりません。会社というのは社会的な集団ですから、そこで生ずる体制問題は、社会的な地平でかつ集団組織として分析する必要があります。すなわち、社会的な集団としての内側(=集団内的側面)と外側(=社会的側面)を検証しなければ、どこにズレ(原因)があるのかわからない。そして、いずれの検証も「事実」をもとにしないと根本改善は実現されません。
したがって、長年にわたる体制問題の議論は、集団内の事実を見据えると同時に、社会状況の事実を見据えて、最適解を導くことであったわけです。共同体として創立した類グループには、このような視点による根本追求の姿勢が、ある意味、前提的なものとしてありました。
■2000年:社内ネット開設
1)開設の経緯
類グループは、2000年に社内ネットを開設しました。開設に至った理由は、大きくいうと体制問題です。グループの塾部門が、拡大に伴って教室が増えて足並みがそろわなくなくなってきたのが主要因です。状況としては、各教室で全社の方針からズレた判断が横行してしまいました。
塾部門は、本社とは離れた場所に教室を構え、教室周辺に住まう生徒たちを受け入れる運営形態です。結果、拠点となる教室ごとに孤立する状況が生まれやすくなります。これは予め想定されることですから、各教室を巡回して状況を聞き取る査察担当を置いていました。しかし、教室数が増えてくると、査察担当の集めてくる情報だけでは足りなくなってきました。そのため、類グループの全社会議=「劇場会議」の頻度を上げるなどの対応も検討されましたが、毎日に近い頻度で全社会議を開催するのは不可能です。ということで、当時右肩上りで普及しつつあったインターネットに可能性を見出しました。
類グループは、塾部門に限らずその他の部門も守秘義務的性格をもつ情報を扱っています。そして、業務上その類の情報を発信することが必ず出てきます。したがって、既存のインターネットツール(掲示板等)をそのまま使うのはよろしくない。ということで、セキュリティを備えた情報共有・浸透のためのツール=社内ネットが開設されました。
2)当初の社内ネット
開設当初の社内ネットは、パソコンを使って発信することへの不慣れも手伝って、一日の発信数=投稿数は25投稿くらいでした。全社が見守り、皆がどんどん発信して一日200投稿近くに達する現在の勢いとは大きな隔たりがあります・・・。
開設当初は、総じて全社の社内ネットに対する収束度はイマイチ。手さぐり状態で立ち上げたわけですから、最初から上手くいかなくても仕方ありません。
3)評価ボタンの存在
一方、見落としてはならないことがあります。それは「評価ボタン」が最初からあることです。開設当初は“正しい”と“少し違う”の二通りですが、誰かの発信を「評価する」という行為を不可欠なものとして認識していました。
評価ボタンは、今でこそfacebookの“いいね!”で普及しましたが、その10年前くらいから評価の必要性を認識していたことになります。更に言うと“少し違う”ボタンがある点が画期的です。例えば、facebookに“少し違う”ボタンがあったらどうなるでしょうか?嫌がらせに押しまくられるか、誰も押さないか、いずれかでしょう。
facebookの“いいね!”は、プラス面を浮かび上がらせるシステム。充足基調の現在の意識潮流にはフィットしています。“いいね!”が積み上がっていくと嬉しいですよね。しかし、「評価」という事実を見ようとすると、それでは片手落ちです。良い方の評価しか見えないわけですから、互いの関係も深まりません。
このように考えると、社内ネットの“少し違う”ボタンは、相手への肯定視と互いに相手に踏み込み合う関係を前提にしていることがわかります。だからこそ機能するものなのです。ここが画期的。皆が、良い評価・悪い評価の両方を受け入れることが「事実の共認」なのです。
4)事実追求の発信
社内ネット設立からしばらくして、日々の業務的な発信の他に、社会問題の原因追求を発信するようになりました。
社会問題の原因追求は、社内ネット開設以前から行われていました。全社の体制問題を扱う際に必要なこともあって、現業以外の時間を使って週1~2回ほど少人数のグループに分かれて、議論の場を共有していました。その成果を発信するようになったのです。
これは、発信することの訓練になると共に、全社的に「事実構造を知る」必要性を認識する有意なことだったと思います。この事実追求の範囲は、ほどなくして過去の歴史追求にも広がっていきました。(これが後の「るいネット」開設につながっていきます)
5)人材問題もオープンに
社内ネットが全社に対して緩やかに浸透つつあったとき、爆発的な収束度を示した話題があります。それは、人材問題です。一般の会社ならば、人事担当扱いの秘匿性の高い情報(例えば個人の反組織的な行動等)が社内ネット上でオープンになるのです。
こういった情報は共認動物である人間としては目を背けられません。そのため、大変な注目度で、指摘・ダメだし・同調などなど、様々な発信が飛び交いました。まさにすごい共認圧力を形成したわけです。
・・・個人的な話で恐縮ですが、その当時、入社して間もなかった僕は、そんな社内ネットを見て、大変驚きました。そして、自分は何を発信すれば良いのかと大変戸惑いました。しかし、そこで目の当たりにしたのは、問題の渦中にある人物が思い悩み、反省をし、謝罪をし、自らの思いを開き出して変わっていく姿でした。社内ネットへの発信内容が徐々に変わっていくのがわかるのです。と同時に、指摘投稿等の流れを追う中で、僕も(表には出しませんが)同じように悩み、反省をし、謝罪をしていることに気付きました。知らず知らずのうちに自分に照らして(同化して)いたのです。おそらく、社内ネットを見ている多くの人が同じ想いだったのではないかと推測しています。
人材問題もオープンにして、皆で引き上げていく。これは、過去の村落共同体では日常的に行われていたといいます。単なる仲良し的な対面共認だけで村落共同体は維持できないし、自治精神は育まれなかったでしょう。
社内ネットで人材問題を扱う中で、意識的には村落共同体の延長線上に、しかし対面共認を超えたネットという場で、全社的な共認圧力形成が可能であることを知りました。そして、「集団とは何か」「感謝とは何か」などを考えて体感していく中で、いつしか「同僚」や「上司」と呼んでいた人が『仲間』と呼ぶにふさわしい有難い存在と思うようになりました。これ、今でも変わらない、僕の大切な実感です。
■中間まとめ
本日はここまでにしましょう。今回申し上げたかったポイントは・・・
・社内ネットは、最初から上手くいくものではない。
・社内的な体制問題を扱う際にも、広い視点(社会的な視点)からのアプローチが必要。
・“いいね!”だけでは、充足の空気はつくれても評価という事実の共認は出来ない。
・社内ネットは、全社的な共認圧力を形成するポテンシャルがある。
・社内ネットは、その共認圧力を通じて、時として最も深い人材教育の場となる。
です。
副題で“認識と実践の両輪”などと言っておきながら、実践面だけをクローズアップするかたちになってしまいました。“認識と実践の両輪”は次回以降でお伝えします。ご期待ください。
長々と失礼いたしました。
- posted by hayabusa at : 23:03 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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