2013年07月04日
「大転換期を生き抜く」1-3 経済理論の破綻
みなさん、こんにちは。「大転換を生き抜く」シリーズの第3弾。今回は、「経済理論」を扱ってみたいと思います。
ところで、皆さん!「アベノミクス効果」感じてますか?期待してますか?
期待はしているけど、未だ感じてはいない。あるいは、期待していいのか漠然と不安という方やよくわからないという方が多いのではないでしょうか。
そうなるのも当然で、近年40年間提唱されてきた経済政策で景気がよくなった試しがないという事実に合わせ、それらの政策の根拠となってきた理論が我々大衆にとってあまりにも馴染みがないものとなっている状況にあり、我々が置かれた環境を正確に捉えられていないからです。
大衆や企業が漏れなく参加している市場において、その場を牽引していく理論のみが大衆と切り離され、正常な判断ができないでいるこの状況は、非常に滑稽なものです。
そこで、今回はどこかで聞いてなんとなく知っているけども、「イマイチ実態が見えない」経済理論の正体を、過去の経済理論の歴史を遡りながら、探っていきたいと思います。
1.歴史に見る、経済理論の栄枯盛衰
では、中身の追求にいく前に、まずは過去の経済理論が歴史的にどのような軌跡を辿ってきたのかをまとめてみましょう。
以下に記載するのは、経済学の祖と言われるアダム・スミスより以降の主要な経済理論の登場と、その時々の現象事実を時系列で並べてみたものです。
こうして眺めてみると、市場の停滞あるいは崩壊の危機に直面する度に、その状況を突破する可能性として新たな経済理論が台頭するという歴史であるかのようにみえます。
一方で、市場の危機⇒新たな経済理論の台頭の繰り返しという図式を見ると、新しい経済理論は、根本的な解決策を示しているのではなく、あくまでその時々の状況に応じた一時しのぎの弥縫策にすぎないものであるかのようにも見えます。
はたして、この見解は的を得ているのか、その答えに行き着くにはやはり各理論をもう少し深く追求しなければなさそうです。
そこで、次にここで紹介した各理論がどのような理論であるのか?の要旨を紹介し、その結果起こった事象について考察したいと思います。
2.各経済理論の概要とその結末
1)アダム・スミス 『国富論』
アダム・スミスは、市場拡大(国富拡大)の時代を観察し、市場拡大・生産拡大、資本家・企業主、地主・農園主の生産拡大の原動力が、至って私益(欲望)に基づいていることを発見する。決して、社会倫理(例えば社会に必要かどうかの考察)に基づいていないことを見て取る。
「企業家・農園主の行動を決めるのは、儲かるか損するかだけである。そして、儲かるか損するかは市場が決めている。」と見て取った。そして、この企業家・農園主の欲望解放が、国家全体の生産を増大させている。
国富論の骨子は
1.個々の経済主体は、己の欲望(私益)によって行動する。
2.欲望行動は、市場における需給関係がもたらす損益を見て行動する。
3.上記メカニズムにより、国民経済は秩序化され、国富は拡大する。
個別経済主体の欲望を全面的に肯定した上で、市場(需給関係)により、その欲望行動が変化・転換し、結果として国富が増大するとの理論を打ち出した。
アダム・スミスにとって、国富増大が関心事項であった。一方で、その国富増大を担う経済主体は、国富ではなく私益にしか関心がない。
この両者をつなぐ「概念」が、市場という「神の見えざる手」の規定である。「神の見えざる手」によって、私益が国富に転化するとの理論宣言を行ったのである。(こちらの記事より引用)
こうして見ると、なんとなく馴染みのある理論ですが、そもそもこの理論は、いったいどのような背景で生まれた理論なのかイマイチはっきりしません。そこで次にその中身について考察している記事がありましたので、紹介します。
【2】アダム=スミス
近世以降、破竹の勢いで市場は拡大するが、それによって共同体が破壊され精神破壊が進むといった弊害が顕著になる。そこでは「自然に帰れ」といった反市場主義的主張が登場する。反市場主義的主張に対抗して、市場拡大を正当化したのがアダム=スミスである。
アダム=スミスは経済学の元祖であるが、そのことは市場拡大を正当化するために経済学が始まったことの何よりの証である。
ここでも、市場拡大は絶対であり、物的欠乏が無限に拡大することに対して、何の疑問もアダム=スミスは持っていない。
(コチラの記事より抜粋)
この時代に提唱された理論は「自由主義経済=市場原理主義」と言われます。
我々がどこかで一度は耳にしたことがある、経済学の祖アダム・スミスの理論。市場拡大を牽引してきた理論という表向きの姿の裏には、市場第一主義が萌芽し始めた時代に、国力=経済力向上の為に市場拡大の正当性を共認していくための理論だったことがわかります。
しかし、近代市場社会を貫く『市場原理』は、アダム・スミスが理論付けたようには機能しませんでした。各国経済、世界経済は幾度となく不況局面(マルクスによれば恐慌局面)を経験し、1929年には、最大規模の『世界大恐慌』に見舞われたのです。
そこで、次にこの市場の逆境を突破し、市場拡大を継続させる為に、あらゆる国の政策の主流になったのがケインズによる「財政投資による市場拡大論」です。
2)ケインズ
大恐慌に対して、ジョン・メーナード・ケインズの経済理論が国家の経済政策に採用され、アダム・スミスの市場原理論にとって代わる。公共投資による波及効果を不況対策の切り札とする財政重視の経済理論。
10の公共投資を行なうと15~20のGDPの拡大が起こるという理論。公共投資の乗数効果といわれるもの。10の公共投資に対して、15のGDP拡大ならば、乗数効果は1.5。
(菅首相が、言葉そのものを知らずに、国会質問で立ち往生したのが、この乗数効果。)
ケインズの経済学は、1930年代から1960年代まで、経済理論の主流になる。(こちらの記事より引用)
ケインズの理論を採択し、一時喝采を浴びた政策としてニューディール政策がよく知られています。
皆の雇用を生み出し、経済を活性化させるこの政策。一見、聞こえはいいですが、その背景及び正体はどんなものなのでしょう。
【4】ケインズ
労働者の貧困というマルクスの問題意識を引き継いだのがケインズである。貧困になるのは大不況のせいであり、不況を克服するためにどうする?というのが彼の問題意識である。
そこでケインズが提起したのが、国家が税金を市場に投入することで不況を脱出し市場は拡大し続けるという学説である。現在の国家財政破綻を作り出した張本 人とも云えるが、ケインズも市場拡大は当然の事として何らの疑問も持っていない。要は、市場拡大は絶対で何よりも優先されることだから、国家が税金を投入 してもよいという理屈である。
(コチラの記事より抜粋)
要するに、これまでの「個人の自由な活動=個人の小さな市場投資」による市場の拡大は限界であることから、「より大きな資本=国家の税金」を市場に投入することで市場拡大を継続させるという路線へ舵を切らせたのが、このケインズの理論です。
そして、アダム・スミスの理論とは相対する理論であるかのように思われたケインズ理論ですが、「市場の拡大が最優先」という点においてはアダム・スミスと同じだったようです。
このケインズ理論の公共投資による不況対策は、その後1960年代までの米国では有効に働きましたが、1970年代になると、公共投資の波及効果がしだいに弱まり、新たな状況に陥りました。財政出動の効果がGDPには波及せず、所得は低迷するのに、物価上昇だけが進む事態=スタグフレーションに陥ったのです。
この現象は、‘70以降、豊かさが実現された先進国では、物的な需要(実態経済)がほぼ飽和してしまったことを示しています。結果、実態経済に影響を与えることを目的としたケインズの理論では市場の拡大を継続することができなくなったのです。
そして、この市場の停滞を打ち破り、更に拡大させる道として経済界が採った策が金融市場=架空経済の拡大路線。その路線へ舵を切らせるきっかけとなった理論が次に紹介する、マネタリズムです。
3)マネタリズム
M・フリードマンの貨幣政策
フリードマンは、特に英語圏におけるケインズ主義後の空白を埋めるべき政策を熱心に根気よく主唱した。フリードマンは、愚かな政府介入がある場合は別として、競争的市場がほとんど損なわれることのない形で存在すると主張した。政府規制のみならず政府活動一般にも強い反対の態度をとった。
経済学の歴史に対するフリードマンの貢献の中心は、貨幣的な措置が経済特に物価に対して決定的な影響力を持つと強く主張したことであった。彼の主張によると、物価は、数ヶ月の遅れののち、貨幣供給量の動きを常に反映する。そこで、貨幣供給量を抑えれば、物価は安定的に保たれるだろうということであった。(こちらの記事より引用)
貨幣供給量を最重視するため、フリードマンの主張は、「マネタリズム」(貨幣政策)と呼ばれました。
これ以前の経済理論は、あくまで現実世界に存在する物やサービスを市場と捉えてどうにかしようとしてきました。しかし、マネタリズムは、市場取引を媒介する「お金」そのものをどうにかしようというものです。考え方が根本的に大きく異なるのです。
以下にそのあたりを端的に提示している記事を紹介します。
【5】現代経済学の主流マネタリズム
ケインズが実体経済の刺激を主張したのに対して、紙幣のばら撒きを主張したのがマネタリズムである。彼らが現代経済学の主流となったのは、物欲限界に達した先進国で市場拡大を続けるには紙幣をばら撒くしかなくなったからに他ならない。その結果、余ったお金が金融市場の流れ込み、バブルを作り出した。彼らこそバブルの張本人に他ならない。
逆に云うと、マネタリストたちは物欲に限界があることを薄々感じていいたのではないか? ところが、彼らも市場拡大を絶対視しているので、そのことは口には出せず、市場拡大を続けるためには紙幣をばら撒くしかないと主張したのである。
(コチラの記事より抜粋)
フリードマンのマネタリズム(貨幣政策)は、国家の経済運営を、ケインズ時代の財政主導から、金融主導へと転換させる理論的根拠を与えました。そして、その流れを加速させたのが、金融工学です。
金融工学というと、リーマンショックを引き起こした悪者のように思われるかもしれませんが、調べてみると実は違うようです。
●金融工学
マネタリズムを根拠に、発展した金融理論。本来は金儲けの為ではなく、金融機関の資産運用に伴うリスクヘッジの為に開発された理論(数学的確率論=リスクの高い証券商品を集めることで、全体的なリスクを低減させるというもの)。
様々なリスクを排除できない金融取引にあって、金融工学は、万が一の時のリスクヘッジのために数字を応用した、一学問にすぎなかったのです。
しかし、狡猾な人がいるものです。この理論を踏襲し、金儲けの理論へと応用した人間が出てきました。その結果生まれたのが「金融派生商品」=「サブプライムローン」(貧困層に無理やり貸し付ける住宅ローン)、「為替スワップオプション」(日本の大学や自治体が損失を拡大させた為替変動で利益と損失が大きく変動する金融商品)、「CDS=クレジット・デフォルト・スワップ」(企業や国家のデフォルト=破綻の可能性に対して賭けをする金融商品)などなどです。
本来のリスクヘッジの為でしかなかった理論を「儲かる仕組み」と言って、他人へばら撒く。中身は何一つない=金儲けの為の詐欺の道具となってしまったのが現代の金融工学の姿だったのです。
そして、行き着いた先が、2008年9月のリーマン・ショックと世界的な金融崩壊。
フリードマンに代表される『マネタリズム』、それを理論的根拠とする『グローバリズム』が破綻した一大事件です。
金融崩壊の事態に対して、それまで、マネタリズムを信奉し、市場原理絶対、政府の規制撤廃、小さな政府を主張した政策官僚や学者は、一転して、中央銀行による大量な貨幣供給、膨大な政府の財政出動、大きな政府へと転換を行ないました。
しかし、彼らは、マネタリズム・金融万能主義の破綻は決して認めようとせず、彼らは、膨大な貨幣のばら撒きと財政による金融機関救済の政策を、「非伝統的な方法」という訳の分らない言葉で正当化しています。これは、明らかに行き過ぎた観念病です。
そして、今も尚アベノミクスはこの路線をひた走り、日銀を政府主導の下で運用し、金利のコントロールによる物価の上昇という策を講じようとしています。あくまで貨幣供給量をコントロールすることで、市場は勝手に拡大するという理論。この現代の市場を牽引しているマネタリズム理論は、アダム・スミスの市場原理主義と大差ない単なる焼き直しの理論であることが見えてきます。
3.経済理論の栄枯盛衰 その実態
では、改めて過去の経済理論の歴史に、要点を加筆しながら、もう一度整理してみます。
こうして、過去の理論の中身とその実態を追求したことで、経済理論とは、過去からまったく進化しておらず現状を突破する切り口さえ持ち合わせていない理論であるという、一つの事実がはっきりと浮かび上がってきました。
しかし、このように経済理論がまったく進化してこなかったのは何故でしょうか?
その答えを示してくれている、認識がありますので紹介します。
○各々の経済理論の大前提になっているもの
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
飢餓の圧力を下敷きにしたこの私権の強制圧力の下では、力の序列に基づく収奪によって、人工的に貧困が作り出される。従って、そこでは人々の物的欠乏は、あたかも不変で無限なものであるかのように見える。従って、次の市場社会が、人々の物的欠乏が無限であると錯覚したのも当然かもしれない。
次の市場社会とは、人々を私権の強制圧力で追い立てた上で、私権拡大の可能性を囃し立て、あらゆる手段を駆使して人々の欲望を刺激し続ける社会であり、それによって私権闘争(利益競争)を加速させた社会である。
そこでは、利便性や快美性を煽る情報によって人々の欲望が過剰に刺激され、その結果、移動や消費の回転スピードがどんどん高速化してゆく。むしろ、欲望の 過剰刺激と生活回転の高速化によってこそ、市場拡大は実現されると言ってもよい。だからこそ、金貸しに操られた学者たち、とりわけ市場の指南役たる経済学 は、人間の欲望は無限に拡大するという仮説を暗黙の大前提とした訳だが、それは、学者たちの錯覚に過ぎない。
事実は、こうである。この過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、誰もが私権の獲得に収束する絶対的な私権欠乏があってはじめて成立する。そしてその私権欠乏は、飢餓の圧力を下敷きとする絶対的な私権圧力の下ではじめて成立する。つまり、過剰刺激による物的欠乏の肥大化は、飢餓の圧力に基づく絶対的な私権圧力が働かなければ、成立しない。
その証拠に、’70年、貧困(=飢餓の圧力)が消滅するや否や、たちまち私権圧力は衰弱し、それとともに過剰刺激によって肥大し続けてきた物的欠乏も衰弱していった。
何故経済理論が進化してこなかったのか?その原因は、アダム・スミスからマネタリズムまで一貫している、「市場拡大が全てに優先される第一課題である」という《思い込み》だったのです。
だから経済学者たちとそれに導かれた官僚たちは、物欲の衰弱が続き、市場拡大の実現基盤が閉ざされた現在も尚、むりやり市場を拡大するために紙幣を増刷しまくっているのです。
要するに、「市場拡大絶対!」という固定観念に囚われた人々は、暴走を繰り返し、その暴走を正当化させる為の観念=理論として存在しているのが現代までの経済理論なのです。
4.まとめ
さて、長くなりましたがいかがでしょうか?
当初漠然としか認識できなかった経済理論ですが、歴史を振り返ることで、各々の特徴云々以上に、現代まで続く経済理論の系譜から共通構造がはっきりとわかってきました。
まず一つめに、過去から現代の経済理論に一貫している共通構造は、「市場拡大が全てに優先される第一課題」という《思い込み》の下で成立しているという点。
そして更には、現代における経済理論とは、市場を拡大させる為の国策(物的欠乏を過剰に刺激する)にお墨付き(正当化)を与える、屁理屈に成り下がっているということ。
このような結論に至るなかで、冒頭に投げかけた「アベノミクス期待できすか?」に対する答えは「NO」と言わざるを得ないということがわかりました。そして、その他の経済や景気における主張に対しても、「市場の拡大を絶対」としている限り、その経済理論は破綻しているということが認識できます。
閉塞した今の社会を突破していくには、既存の理論の枠を超えた理論が必要であり、次代を導く新しい認識なくしてこの大転換の時代を生き抜くことは困難だということが実感できるかと思います。
次回からも、本シリーズでは現代の市場社会の状況について紐解いていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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- posted by tyani at : 13:13 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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