2013年12月06日
「大転換期を生き抜く」シリーズ第二章 『技術革新・新エネルギー需要』 2-5 『健康』を捉えなおす・・・その2
みなさん、こんにちは。「大転換期を生き抜く」シリーズの7回目の記事です。本日は、前回の記事に引き続いて「健康」に注目します。
前回の記事では、「健康」が個人主義の産物であり、集団としての価値や知見を失っていることを指摘しました。今現状、私たちは、健康に対して、荘子の「養生」訓のような拠り所となる規範をもちません。結果として、自らの身体を他者に託しているのです。
それが本当に望ましいことなのか。まずは、現状分析からスタートです。
■支配階級の罪
■日本はどうか?
中国の支配階級の事を書いているうちに「日本も似たような状況じゃないのか?」と思えてきた。いや、本当に人事ではない。
「直ちに健康に影響はない」。
3.11原発事故のあと、「想定外」と並んで国民の信頼を奈落の底に突き落とした首脳の発言である。首都圏まで放射性物質が飛来し、水道水が汚染された。その渦中で飛び出した発言だった。
その後、海外のメディア(特に独国)では、事実の隠蔽を貫く日本国政府および東電の対応を批判する報道が多くを占めた。2年以上経った今でも、その結果として現れる国民の健康被害を懸念する報道がしばしばされているという。
ところが、当の日本人はどうか?・・・そんなことは知る由もない。今では3.11の傷も忘れて(原発の蓋は開いたままなのに)7年後の五輪招致を喜ぶお気楽さである。「お隣の国(中国)では、ずいぶん無理なことをしているから、(天安門で)テロが起きるのよ」という声も聞いた。“受け入れ体質”といえば聞こえはよいが、自分たちの事を全く知らない。これが日本人の現状である。
日本では、中国のような、露骨な情報統制や武力動員はない。しかし、隠密裏に情報統制されている。
「直ちに健康に影響はない」。そうと信じて、高線量の地域に子供たちが居残る、もしくは帰っていく。結果、彼の地では小児の甲状腺癌の発症数が異常な数字を示している。しかし、大きく報道されない。学会も表立っては取り合わない。
その一方で、喫煙率は減り続けているのに、肺癌の発症数が増え続けている事実を隠蔽する。そのために「禁煙キャンペーン」を学会含めて張り続ける。結果、癌の中で死亡率第一位に輝く肺癌(2011年値)の本当の原因は特定されない。意図的に“冤罪”を騒ぎ立てて“真犯人”の逃亡を許す、狡猾なやり方である。
そして、極めつけは「秘密保護法」。全てを隠密裏に“済ませたこと”にする。そして、健康被害を含めた様々な不利益を能天気な国民に対して、結果的に強いる。日本の支配階級を象徴する罪深い考え方である。放射能汚染の重い十字架を背負った日本国民にとって、この隠蔽体質を加速させる法案は、身体環境を考えただけでも危険極まりないものである。
・・・まことに残念ながら、このようにして見ると、日本の現状も中国と大差ない。支配階級には、中華思想と見まごう私権体質が蔓延し跋扈している。その行動が、露骨で高圧的にではなく、隠密裏に進められる分、陰険である。少なくとも、己の私権獲得のためには、国民の身体など犠牲しても構わないという腹の底は、両国の支配階級に通ずるところであるだろう。
(るいネットより)
広く見れば、国に面倒を見てもらうことはあるでしょう。道路などのインフラ整備などは特にそうです。が、こと、身体について国に面倒を見てもらうのは「今現状、それしかないかもしれないが、望ましくはない」といわざるを得ないでしょう。「・・・だからって、専門的なことは、よくわからない」。そう。確かにそうなんです。
■ブラックボックスと化した「身体」
身体に変調をきたしたら、お医者さんに行く。現代日本では当たり前のことです。ところが、その症状は、どこが悪くて、何故起こっているのか、どのような方法で治るのか、わからない。頼るのは、医者しか居ません。ここで、一歩引いて考えてみてください。私たちは、最も身近な「自分の身体」、それが「わからない」のです。
思えば、人間の身体は36億年の進化(塗り重ね)の果てに、大変複雑なメカニズムを備えたものになっています。現代でも未解明の領域のほうが多い。したがって、わかるはずがない。そういう言い方もできると思います。
一方、別の意味での「わからない」もあります。高度な観念領域である医学。それを勉強したのが医師。そのような専門家以外、身体のことを「追求しない」。したがって、「わからない」という側面です。これは「医師が患者を診るもの」という役割分担が、社会的に確立していることに起因します。
私たち素人に対して、医学への門戸が閉ざされているわけではありません。しかし、大学の医学部に進学できるのは、ごくわずかな(偏差値が異常に高い)人です。医学部に進まないと合法的に人体の解剖は出来ないし、臨床的な経験は得られません。そのうえではじめて、医師免許が取得できます。逆にいうと、無免許で医療行為をすると、法律によって罰せられます。
・・・気づきませんか?なぜ、身体がブラックボックス化したのか。それは、医師が身体に関する情報を『独占』する状態が確立しているから。医学・医療という枠組みの中に、身体に関する知見が集約され、制度として囲い込まれたためです。その枠の外に居る素人は考える余地がないし、考える必要がない、ともいえます。
■現代医療は宗教か?
上記のような状態を端的に捉えた指摘がるいネットにありました。それは「宗教」に似ているということです。
現代医学は宗教と化してしまった。人々は医療を盲目的に過信し、これを崇拝している。医療が自分たちの命を救ってくれる唯一の神だとさえ、勘違いしているのだ。じつは医療の当事者である医者、彼らこそが人々の健康をおびやかしている、最も危険な存在である。
現代医学による治療は効果がないことが多い。というより当の病気よりも、治療のほうがはるかに危険だ。医者、病院、薬、医療機器など、現代医学を構成するこれらの9割がこの世から消えてなくなれば、現代人の体調はたちどころによくなる、これが私の確信である。
(中略)
医者は健康や医療に関しては、人々は無知だと決めつける。そしてそれを逆用して、医学理論で恐怖を煽りたてる。人は怖いことがあると、避ける、無視する、逃げる、たいしたことではないと、無理に思い込もうとする。その結果、誰か適当な人を見つけて、一緒に心配してもらおうとする。
こうして結局は、医者が主導権を握ることになる。患者が医者に、そうさせてしまうのだ。しかし本当のことをいうと、医者は患者が怖いのだ。なぜかというと、医者と患者の関係は知識ではなく、信頼にもとづいているからである。
薬の副作用について説明を求められると、医者は、もし正直に説明すれば、医者と患者の関係が損そこなわれてしまうと思っているから、口が裂けても本当のことはいわない。薬だけではなく、医療のうち、少なくとも9割は不必要なものであり、そのなかには、人を死に至らしめる危険性すらある、という事実は常に存在する。
人々が、本当にこのことを知ったなら、医療は即、崩壊する。現代医学は、患者の信頼がなければ存在できないのである。それは、現代医学が病気を癒す医術や科学ではなく、一種の宗教だからである。
こうして現代人は、人間の生き方を、方向づけて管理する力にすがろうとして、現代医学教に、年間数千億ドルにも及ぶ、巨額の『お布施』を献上していることになる。医療費と呼ばれるこの莫大なお布施は、本当は、何か別の目的に使われる性質のものではないだろうか。
現代医学教の呪縛から抜け出すには、医者に、「それはなぜか」と質問することだ。「なぜ、この薬を飲まなければならないのか?」、「なぜ、手術が必要なのか?」などと。
もしこれにたいして、「医者を信頼していればいい」という返事が返ってきたら、そのときこそ、医者が危険な治療をおこなおうとする瞬間であるから、一刻も早く、医者から逃げ出すことである。ただ、医者から逃げおおせる人は、ほとんどいない。たいていの人が医者に屈服する。
(中略)
宗教というのはすべてそうだが、現代医学教の場合は、信仰に依存している度合いがきわめて高く、人々がたった一日でも信仰を忘れれば、医療制度全体が崩壊してしまうほどである。それは、次の三つの疑問について考えてみれば、すぐに理解できるだろう。
1.ほかの状況であれば、当然疑うべきはずの行為でも、それが医療行為であるというだけで、公然とまかり通っている。それは一体なぜか。
2.手術についてほとんど理解していないのに、患者は麻酔で眠らされ、自分の体を刃物で切り裂かれることに同意している。それは一体なぜか。
3.人々は薬の成分である化学物質に、どういう作用があるかほとんど知らないのに、毎年、総量何千トンにもおよぶ薬が消費されている。それは一体なぜか。
なぜなのか?
それは、人々が現代医学教を信仰してやまないからである。
るいネット 『現代医療は宗教か?』より
全てのお医者さんがこのような心情をもつはずがないと信じたいものですが、全部を否定することも出来ないでしょう。ここで申し上げたいのは、問題は私たち素人の側にもあるということです。神の啓示のごとく医師のいうことを「妄信」する姿勢。医療行為に対して「なぜ?」と問わない(問えない)姿勢です。
■市場拡大の材料にされる「身体」
一部の専門家=医師が、大多数の素人=患者を相手にする。医師は神官であり、患者は信徒。自分の身体のことを何も知らない迷える子羊です。すると、どういうことが起こるか?そのわかりやすい一例が「製薬」です。
ずいぶん昔、祖母が晩年に毎日飲んでいる薬の量を見て「1ヶ月飲み続けたらバケツ一杯分はあるな」と思ったことがあります。とても身体に良いようには見えません。それでも祖母は「お医者さんが飲めというから仕方がない」と従順でした。当時は、高齢者の医療費がほぼ無料だったと思います。医師が記す処方箋は大盤振る舞いだったのでしょう。以下、医師の証言にも、その端緒を見ることが出来ます。
わたしはまだ若い医学生だったころ、製薬会社から派遣されるおおぜいの営業マンたちは、医者の人命救助活動に協力してくれる存在だとばかり信じていた。医者になってからもしばらくそう信じていた。われながら純真だったと思う。やがて、製薬会社の主な目的はそういうところにはないことに気がついた。製薬会社の目的はなんといっても金儲けであり、自社の医薬品が「人びとの健康に奉仕する」ためのものであるかのように医学生に錯覚させることで売り上げの拡大を図っているのだ。
(るいネット:『薬を買わせたい製薬会社と洗脳される医学生』より)
また、世に言う「健康ブーム」も、実体のよくわからない“健康”を喧伝し、商品販売を行おうとする点で、製薬と同根です。僕の年齢では、“ぶらさがり健康器”くらいが発端な気がしますが、書籍(健康本)、サプリメント、運動グッズ(衣服・靴・重りなど等)・・・数限りないアイテムが世にあふれています。TVが「○○健康法」などといえば、スーパーの売り場から納豆やトマトが無くなるなんて話もありました。いずれも、ただ、すがって消費するのみです。
私たち素人は、本質的に何が身体のためになるのか「わからない」し、そもそも深く「考えていない」。結果として、マスコミの報道に踊らされて、目先の“良さそうなもの”に飛びつくだけになっています。本質を捉えずに「健康」と名のつく様々な宗教に、お布施を散財している信徒なのかもしれません。
■なぜ、本質が見えないのか
1)主体的に「生きる」力
“おばあちゃんの知恵袋”的な伝承。これは、先人が蓄積した実績の賜物です。例えば「風邪を引いたら首にネギを巻く」という民間療法は、一見すると、非科学的な知見に思えます。が、事実としてそれで風邪が治った(治りが早い)。そのような成功事例があったから、語り継がれるのです。
ここで見出すべきは、ネギの薬効など科学的な説明ではありません。先人は、そんな突拍子もない方法を考案するほど「どうやったら治るか」を懸命に考えていたという事です。医者のお世話になるだけの私たちは、夢想だにしない創造力であり自考力。そこに、主体的に「生きる力」を見るべきです。
2)科学は万能という思い込み
私たちは、上記の“首にネギを巻く”行為に対して、何らか科学的説明を欲します。場合によっては、非科学的なものだからと忌避する傾向すらあります。科(化)学が生み出した薬には副作用があるとわかっているのに、なぜ薬に頼るのか。それは、副作用を捨象できるほど科学が万能だと思い込んでいるからでしょう。
近代科学は、要素還元主義で出来上がっています。要素還元主義とは、原因と結果を一直線で結ぶ思考方法です。そのため、複雑な要素を単純化し、起こりうる可能性が低いことを排除します。結果、単純な図式で説明できるようになり、説得力が生まれます。ここに、有名な科学者という権威が加わると、TVでは、大きな貫通力を持ったコメントになります。もはや、それが正しい意見かどうかは誰も問いません。正しいと思い込むからです。
私たち素人は、専門知識を持たないのですから、むしろ「なぜ?」と問える立場にあります。それを問わずして「科学的」なるものを信じているとしたら、それは妄信。単なる思い込みです。「安全」と思い込んでいたものが、実は、危険極まりないものだった。苦い経験から学ぶべきは、少なくとも「自ら考える」ことの欠如です。
3)観念化できない領域
例えば、「手当て」。これ、本当に「手を当てる」というところから来ているそうです。
咳き込んで眠れない夜に、母親が背中をなでてくれた。そうしたら、楽になった気がして、いつの間にか眠っていた。そんな記憶は多くの人がもっているのではないでしょうか。
母親の手には、何の薬もついていません。単にさすってくれただけ。この時、身体に何が起こったのか。科学的に説明しようとすると大変です。たぶん、無理です。
“温もり”や“安心感”という「心」の奥深くに通ずるところは、視覚化できないし数式化できません。でも、身体的な治癒が促進された現象が、事実として起こっている。私たちは、そのような未知なる領域の存在を、事実として、もっと積極的に探求すべきです。
4)欲望の短絡
現在は「欲しい」と思ったら、たいていのものはすぐに手に入ります。そのため、私たちは思った以上に「欲望の短絡」に陥っていると思います。次から次に、欲しいものを矢継ぎ早に手にしていると、目的に到達するまでに時間がかかるなんてあり得なくなります。その結果、長時間 頭痛に耐えるより、即効性のある鎮痛剤で麻痺させることを選ぶようになります。結果として、自分の身体が発するメッセージを遮蔽し、自身の身体を感じることに鈍感になっているわけです。
■身体を身近なものと感じること
以上、「健康」をキーワードに、今回は、私たちの身体を取り巻く環境や捉え方を考えてみました。
科学(=西洋医学)で捉えた身体。例えば解剖学は事実の体系といえるでしょう。一方、風邪の民間療法も、お母さんの“手当て”も、経験的かつ実績的な事実です。この全く異質の認識を、どちらも「等価値」の認識としてみなすことが重要だと思います。一面的な思い込みによらず、様々な事実を照らし合わせ、積み重ねていく。外圧適応態として「生きる」ための認識は、私たち全員が当事者であるべきと考えます。
長々と失礼いたしました。次回でまとめたいと思います。それでは。
- posted by hayabusa at : 10:48 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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