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2015年01月07日

新聞の歴史とこれから⑤ ~読者の声(評価)が信頼を形成していく~

今では、新聞社といえば政治や経済の中枢に密着する社会的信用度の高い企業のイメージですが、ネット関連企業が平成初期のベンチャー企業であったのと同様に、明治初期では、新聞社もまたベンチャー企業の一つだったのでした。そのベンチャー企業が社会的信用度を勝ち取る手法は、驚くことに現在でも風化していないのです。前回同様、ガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用しながら、それを紹介します。

幕末から明治にかけての新聞の企業形態については、資料も多くはなく詳細を知ることは難しいのですが、数人の有志が集まって資本金を出し合い、記事執筆から印刷・販売まで手分けて行いながら新聞を発行していたようです。お金なんかなくても「新聞を作って人々に何かを伝えたい」という彼らの情熱に支えられて、新聞文化はこの国に根付いていったのです。 

たとえば『東京日日新聞』は、『江湖新聞』を発行していた西野伝助と粂野伝平が「また新聞を作ろう」と意気投合。友人の浮世絵師を誘い入れて始めました。紆余曲折の末に、ようやく政府から発行許可を得た彼らは、粂野の自宅を発行所にして日報社を設立し創刊にこぎつけましたが、スタートしたときはまだ活字もそろわず、紙面の文字はボロボロ。出し合った資金1000円もすぐに底をついて困窮し、設立メンバー3人は衣類までも質に入れ、外出するときには1枚の羽織を代わる代わる着ていたなどという泣けないエピソードも残っています。(ガジェット通信より)

どの時代でも最初から上手くいく商売は少なく、特に先駆的な商売は尚更だったでしょう。とはいえ東京日日新聞は、全盛期には社主兼主筆であった福地桜痴氏の月給が250円(現在で換算すると約70万/月)だったそうです。

明治初期の新聞は、幕府が倒れたことによって職を失った旧幕臣の文化人たちが作りはじめたものです。新聞は、当たれば大きな利益をあげることのできるだけでなく、新聞記者として名声を得ることができれば政界への道が開かれてもいました。実際に、新聞記者から政府高官へと登りつめた人も少なくありません。(ガジェット通信より)

現在でもイワユル“政治部記者上がりの政治家”はいます。新聞社の政治部は国政を担当し、地方政治は各支部の社会部が担当しますが、その際に政界等とのコネクションも身に付けられるのです。

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古くは、朝日新聞社で主筆だった緒方竹虎議員が、自民党総裁にまで上り詰めました。最近では、自民党額賀福志郎議員は産経新聞、うちわで有名になった自民党松島みどり議員は朝日新聞の政治部記者出身です。大衆寄りに立っていたはずの記者が、体制側に立ち位置を変えるというのは、う~ん、どうなんでしょう?

また、新聞記者は世間の注目を浴びる花形職業でもありました。明治7年12月の『読売新聞』には、「新聞筆者を役者に見立大評判」という投書があり、新聞記者の能力や特徴を面白おかしく評しています。新聞記者の人気が売れ行きを左右した時代でしたから、同記事内で「何の芸でも出来ぬことなし」と市川団十郎にたとえられた福地が重んじられ、高給を取ったのは当然のことだったのでしょう。

今のように、戸別販売制度に支えられていなかった当時の新聞は、その記事の確かさ、面白さがそのまま読者の数に反映されていました。新聞社にとって有能な新聞記者を主筆に据えることができるかどうかが社運の明暗を分ける、と言ってもいいほどだったのです。各紙では個性豊かな新聞記者が活躍し、日本なりのジャーナリズムのあり方を模索していきました。(ガジェット通信より)

最初に書きましたが、明治初期では新聞は言わばベンチャー事業でした。おそらく現在のネットでの情報について、大衆が懐疑的であるのと同様に、当時の新聞記事についても胡散臭さが拭い切れなかったでしょう。したがって会社として社会的信用度に欠ける新聞社としては、記事を書く記者を前面に押し出し、その人間性も合わせて記事への信頼性を獲得しようとしたのだと考えられます。そう、現在スーパーでよく見る生産者の名前・顔写真付き農作物と同系統といったところでしょうか。大衆が信用するための分かりやすい材料(年齢、学歴、経験、出身地、表情等)を提供する必要があるのです。

顔の見える野菜

この時代で言えば「新聞筆者を役者に見立大評判」という投書。今でいう読者ランキングでしょうか。

読者による記者評価を自らの新聞に掲載することで、それまで評価していなかった読者も『皆が認めている記者の記事』として信頼・評価していく、という構図です。今では何でも「ランキング」という、さらに便利な評価方式が普及していますが、驚くことに明治初期の新聞にもその手法が用いられていたのです。今問題になっている「やらせ投書」が、当時もあったかどうかは定かではありませんが・・・・。こうして自ら評価ヒエラルキーを形成することで、広く大衆の信頼を形成していったのです。

さて、当初の対象者は知識階級中心でしたが、新聞が広まるにつれ、かつての瓦版のような庶民向け新聞が登場してきます。次回はそれを扱ってみましょう。

 

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