2016年01月21日
江戸の自治事情から ②自治もまずは統合ありき
さて今回もダイヤモンドオンライン「奉行所の役人はわずか166名」から江戸の自治状況を見ていきましょう。
江戸の自治では、商売上の自治もありました。旅籠や両替、飛脚、呉服といった業界ごとに組合がありました。例えば旅籠の組合では、旅行者に安心して宿泊できる優良旅籠を目指す旅籠が加盟し、それぞれ目印の看板を掲げて、強引な客引きの店を締め出していきました。
さらには監獄ですら「牢名主」を中心とする自治が幕府公認で行われていたのです。どこを取り上げても自治によって成立していることが分かります。
そして江戸の町ではセキュリティ面も自治で行われていました。
ちなみに私の住んでいる町内では、年の瀬になると「火の用心」と言いながら拍子木を打つ夜回りが行われています。この夜回りの始まりは、何と江戸時代から。当時の町奉行が消火にあたる「町火消し」の組織を作り、これを「いろは48組」として組織を強化し、纏(まとい)を与えて組の印としました。時代劇で登場する、いわゆる火消しの人たちです。慶安元年(1648年)に出されたお触れには「火の用心」という言葉が含まれています。「町中の者は交代で夜番すべし。月行事はときどき夜番を見回るべし。店子たちは各々火の用心を厳重にすべし。」とあります。町民が自前で役目を交代してやりなさい、ということ。冒頭の夜回りは、300年以上続く流れの一つなのです。
次に警察機能についてです。
読者諸氏は、ねずみ小僧次郎吉というのをご存じかと思う。かつての時代劇のヒーローの1人だ。18世紀後半の化政期(文化、文政)に、もっぱら大名屋敷を荒らした盗賊だが、その次郎吉が映画などで捕り物の役人に追われて逃げる際には、必ず屋根伝いに逃げていた。
筆者は、「ねずみが屋根裏を這い回るからなのか」「それにしても不思議だな」と思っていたのだが、実はねずみ小僧には、そうする合理的な理由があった。
それは、江戸時代には、夜には町ごとの木戸を閉めることになっていたので、夜は道が袋小路になっていたということだ。そんな道を逃げたのでは、たちまち捕り方に追い詰められて御用となってしまうので、次郎吉は屋根伝いに逃げたというわけだったのだ。そして、夜になって町ごとの木戸を閉めていたのが、町方や武家方の自治で置かれていた自身番や辻番という人たちだった。(中略)
江戸の町方の自身番は、嘉永3年に990箇所あったが、そこにはその地域の住民が週番で詰めていて、夜の10時には大木戸を閉めた。その後は左右の小木戸を通る通行人を監視していた。そのようなシステムの下で、江戸の長屋住まいの住民は鍵などとは縁のない生活を営んでいたというわけだ。 (「奉行所の役人はわずか166名」より)
商売している店はともかく、家に鍵をかけない、というのは時代劇でよく見る光景。それは大らかさもあるが、地域で防犯をしていた、という理由の大きいようです。現代のオートロックに二重鍵よりも、安心感がありそうです。
実際この時代の江戸は「諸国の掃き溜め」と言われており、農村で食い詰めてきた移住者たちが多かった。そういう人たちはいわゆる長屋に住みますが、彼ら余所者も店5人組として自治の一端に組み込んで行きました。
自治を安定維持していくために、統合する力に応じて拡大することが重要のようです。市民がそれぞれの想いで、バラバラに市民活動を行うだけでは不十分で、それらが体系的に統合することでようやく「自治」と言えるのです。
- posted by komasagg at : 21:40 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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