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2019年05月23日

不平不満では何も変わらない。大切なのは、「つくる側」に立つこと

5月も終わりが近づき、季節も夏に向かうこの時期、
ゴールデンウィークも終わり世の中から聞こえてくるのは「仕事したくない」という言葉。
ネットを見ていて驚くのは、この声が4月に入社したばかりの新社会人から聞こえるということ。

見えるのは、「思っていたよりも仕事が楽しくない。それは会社のせい。」という意識。
※本当に私権にどっぷり企業であれば、そう思うのも無理はないが。今の時代そんな企業の方が少ないだろう。
この投稿で書くのは、私権企業ではなく、本源的な価値に気づいている企業に勤めている層。

そんな風に、自らの志が生起しないのを“誰かのせい”にしていて、会社を変えたからと言って楽しく仕事ができるようになるのか?
決してそんなことはないだろう。

仕事を楽しむコツ。志を持って、活力をもって生きていくコツ。
それは『つくる側』に立つこと。

つくる側と聞くと、起業すればいいってこと?と思う人もいるかもしれないが、そうではない。
『自ら集団をつくる主体となること』。

松下電機の創設者である、松下幸之助の有名な言葉がある。MAG2NEWS より引用
>「新入社員でも、意識は社長になれ! 」
松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助の訓話は刺激に満ちていたといいます。

>とりわけ心に深く刻まれているのは新人研修での訓話だ。正確な言い回しは忘れてしまったが、
「君らな、僕がいまから言う2つのことを守り通したら、松下電器の重役になれる」
といったような前置きをした上でこう言った。

「1つは、いい会社に入ったと思い続けられるかどうかや」
誰でも入社したばかりの時はいい会社に入ったと思う。しかし、嫌な上司がいたり、意に沿わない仕事をさせられたり、様々な不遇に遭う。
それでもなお、いい会社を選んだと心から思えるかどうかはすごく大事なことだ、と。

「人間、9割は自分ではどうにもならない運命のもとに生きている。その運命を呪ってはいけない。喜んで受け入れる。すると、運がよくなる」とも教えられた。
世に数百万社あるといわれる中で、この会社に入ったというのは、縁や運としか言いようがない。その自分の運命を呪わず、前向きに喜んで受け止めていくと人生は好転する。
これは会社のみならず、生まれた国や自分の容姿など、あらゆる境遇に当てはまると学んだ。

「もう1つは、社会人になってお金が一番大事と思ったらあかんぞ。もちろんお金も大事やけどな、お金は失くしても取り戻せるんや。
しかし、人生にはこれを失うと取り戻すのに大変苦労するものがある。それは信用や。信用を大事にせなあかん」
この2つの言葉に強烈な衝撃を受けた。同時に、私の社会人生活の基本、考え方の根っこになった。

「君らの立場は一新入社員やな。しかし、意識は社長になれ」
新入社員とかサラリーマンだと思って働いていると、意識まで雇われ人、使われ人になってしまう。だが、社長の意識になると、同じものを見ても景色が違ってくる。
松下電器製のネオンの一角が消えていたとしよう。一社員の意識だったら消えていることに気づきもしない。万一気づいても「消えてるな」としか思わない。無関心である。しかし、社長だったら絶対にこう言う。

「おい、うちのネオンが消えとるぞ。直せ」と。つまり、当事者意識に変わるのだ。

その日以来、私の意識はずっと社長だった。
経営方針発表会の前日には、誰に言われたわけでもないのに、もし自分が社長だったらどんな方針を発表するかを考え、それを書いて当日に臨んだ。そうすると、
「なるほどな。社長はいまそんなふうに考えとるんか。そういう見方もあったか」
と自分との差に気がつく。ただ受け身で社長の話を聞き、ノートに写すだけでは得られない学びである。
あるいは、松下幸之助が現場視察に訪れた時など、大抵の人は畏れ多くて二歩も三歩も後ろに下がるが、私は逆に松下幸之助の後ろにピタッとつき、何を質問するか、どんなことを指摘するか、どこを見ているかを徹底して研究した。

=引用終わり=

そして、この言葉の熟読もお勧めしたい 自主管理への招待(3) より引用
>しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している
あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している
要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。
だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、
この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。

他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、
何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。
社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。

この構造は、さらに近代を貫く、社会からの〈離脱と自足〉の意識潮流に根ざしている。むしろ、絶えず社会(生産)から離脱して個人(消費)へと逃避してゆく、個人主義の潮流こそ、否定と要求の根底に流れる近代精神の本流を成してきた。
事実、人々は一貫して、「自己」が抑圧される〈労働〉を忌み嫌い、「自己」が解放される〈個人生活〉を希求し続けてきた。そして工業生産の目ざましい発展によって、労働時間が大幅に短縮され、
人々の待ち望んでいた「豊かな」個人生活はすぐ手に届く所まで実現されてきた。しかし、近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは(それは又、「我、思う」だけで「我、在る」ことを願う近代個人主義の自我原理が目標とするものと同じであるが)、
生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。ところが、一つの欠乏の充足が、活動を省略して効率的に実現されるや否や、直ちにその空白部は別の欠乏によって埋められる。
かくして、工業の発展と共に、活動のない欠乏と充足だけの単純反復過程が増大し、それにつれて、生活のテンポが早くなり、生活の内容は貧しくなる。
だから又、労働時間が短くなり、生活時間が長くなればなる程、逆に全存在過程にわたって本当の活動時間が無くなってゆく
実際、この社会では「豊かな」個人生活とは、その生活を手に入れるために先取りした家財のローン返済に追い立てられる生活のことであり、もみくちゃのレジャーラッシュに馳せ参じる生活のことであり、
寸暇を惜しんでテレビにかじりつく生活のことなのである。

こうして本来の活動の場を見失った現代人は、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける。そして、生活の回転が高速化してゆけばゆくほど疲労が増大し、ますます多くの余暇が必要になる。だが活動を喪い、
刺激だけを単純反復させる過程の中にある限り、いずれ遊びさえ、疲労の元でしかなくなるだろう。それでも、「善良な」市民によるこの膨大な資源とエネルギーの浪費は、世論公認の個人主義の名において正当化され、
むしろ美化され続けるのである。近代の意識の根を成してきた「個人」さえ宙に浮き、幻想と化したこのような事態を、誇張にすぎないと思う人は自分自身に問うてみれば良い。
自分は、このような個人生活以外の、どのような生活を、認識を、自分自身を、獲得しえているかと。
=引用終わり=
塾劇場

この文章を読んだ新社会人諸君は何を感じただろうか。
一生社会に、会社にぶら下がり何も変えられぬまま生きていくのか。(自分自身の変革もできぬまま)

集団を、社会をつくる側に立ち、志と活力を持って生きていくのか。

少なくとも私は当時、後者の意識に立った。それから、仕事をつまらないと感じたことは一度もない。

 

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