2020年06月11日
外圧適応⇒本能開放。人類の本能とは何か?本能の構造化
コロナ禍は続いていますが、人々の意識が刻一刻と変わっているのを肌で感じます。今後、生き残りを掛けた企業間闘争は、業界闘争は激化するはずです。
コロナ禍→経済難
1.設備投資が少なくなる
2.在宅、テレワーク→オフィス縮小
3.要不要の判断が鮮明→本物志向、もったいない意識の醸成
上記、1~3で、自主管理していく集団が増えてくる。事業拡大や発注件数は激減する→企業同士の仕事の奪い合い。
※本物志向の価値は高まる。
今までの常識や考え方では通用しないことを意味します。極論ではなく、生きていくことができなくなります。
どうする?
頭の先っぽで物事を捉えても、上記のように通用しません。潜在意識のレベル、本能の次元から物事を考える。本能の開放が求められます。
しかし、本能という言葉は知っていても、本能って何?という疑問も浮かびます。
一言で本能といっても、様々な本能があり、それらは深い次元から新しい次元まで、縦横、立体構造化しています。
一体化本能、整合本能、秩序化本能、適応本能などは深い次元にいそうです。さらには、生存本能、庇護本能から、性闘争本能、縄張り本能・・・。また、いわゆる3大欲と言われる、食、寝、性なども本能に属している感じです。他にも遊び本能、追求本能などあります。
ゆくゆくは、これら本能郡を構造化していきたいと考えます。
そもそも、人類の本能は、他の動物の本能とも違う気もします。動物行動学でノーベル賞を受賞したK.Z ローレンツは「本能」を「種の保存の為の、種共通の固定的動作」と定義しました。今回は、ヒトという種の「本能」は何か。参考に見ていきましょう。
以下引用。
note https://note.com/yukigunidamashii/n/nbb4d03b2b1c7より引用。
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僕は2011年の3月、文明の一切を奪われた場所で、「ヒトの本能」を垣間見た。東日本大震災発生から3日後の2011年3月14日、車で東北道を北上し、仙台市多賀城市に入った。
空は良く晴れて日差しが強く、車の中は暖房がいらないほどであったが、外に出ると空気はとても冷たく、ひんやりとしていた。 暖かい日差しと冷たい空気。この季節になると今でも、亀裂だらけの高速道路で繰り返し流れていた、雑音混じりのアンパンマンのマーチを思い出す。
街はアクション映画のように瓦礫だらけで、水道も、電気も、ガスも繋がらなかった。 何もない暗い廊下で、寝袋と毛布だけ並べて寝て、明るくなると働いた。 一応、医師としてスタッフに入ったが、意外にも医療の需要はそこまで高くなかった。
医療というものは、意外と高い次元の欲求だと初めて知ったのもその時だった。 ただただ混沌の中で、人手が必要であった。 山積みになっている救援物資や食料を運んだり。瓦礫を見回ったり。2日ほどして気づいたことがある。
誰一人として、人の悪口を言う人も、物を奪い合う人もいなかった。 食料も、物資も、誰も一人占めしたりせず、皆が皆の分を気にしていた。混沌の中で、誰もが皆を思いやっていた。 何しろ、トイレも食事場も皆共用なのだ。当然と言えば当然かもしれない。お金だって、そもそも店が写真の通りである。盗んでも仕方なかった、それだけだったかもしれない。
それでも、皆疲弊し、パニックになりながらも、全員が大切な誰かを想いながら、初めて会ったであろう隣の人を助け合った。ヒトが法律に規定されない状態では、「万人の、万人に対する闘争」が自然状態であると説いた人がいた。それは文明の発達後の話だと思う。
15万年前、取るに足らない一つの種であったヒトは、この「助け合う力」がどの種族より強かったからこそ、今日こうして生き残っている。
買い占めたり、誰かを批判したり攻撃したり。きっとそれは、文明と法律に守られた状態だから起こる。足の引っ張りあいは、高度な文明の産物だ。個体の行動が、種の保存のためか個体の利益のためか。
この議論は長く続いていて、ローレンツの種の保存説は劣勢になったが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」で、種の保存説が再度見直されている。
先のことはまだ誰にもわからないが、脅威が文明を停止させていくことがあれば、抑えられていた「ヒトの本能」がきっとこれに立ち向かう。「種の脅威」に立ち向かう武器は、政策や医療など高度な文明の産物ではない。「隣の人を助ける」という「ヒトの本能」だ。
- posted by 岩井G at : 18:49 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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