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2020年11月03日

勝ち続ける組織は学習し続ける

「最も弱い箇所によって全体の性能が決まってしまうシステムは鎖のような構造を持つと言える。どこかに弱い環がある場合、幾らほかの環を強化しても、鎖全体は強くはならない」(リチャード・P・ルメルト『良い戦略、悪い戦略』より)

自動車のように、車体、エンジン、ブレーキ、デザインなど複数の組み合わせで性能が決まる場合、一つの欠陥が全体をダメにします。鎖構造ではボトルネックが解消されなければ、他の部分に資源や人員を投下しても、全体の成果は変わらないのです。生産の全体成果は、ボトルネックの解消にかかっており、一つのボトルネックを発見し改善したら、次のボトルネックとなる点を探して成果を継続向上させる発想です。
これは決して現代の話ではなく、過去から言える普遍的な構造です。それは日本の戦国時代にも表れています。

1582年、織田信長が天下統一の目前に本能寺の変で死去。信長の次男である信雄が後継者と目されたが、豊臣秀吉は戦死した信長の長男の子、秀信を擁立します。これに反発した信雄は、唯一、秀吉に対抗できる徳川家康に助けを求め、秀吉軍と小牧・長久手の戦いで激突します。

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信雄・家康陣営は、秀吉の不義を糾弾する書状を各地の大名に送り、四国・東北・関東・大坂などで賛同する味方を得て「秀吉包囲網」を作り上げます。さらに秀吉に恨みを持つ雑賀衆が岸和田・大坂に攻め込み、日本各地を巻き込む広範囲な戦闘となりました。

信雄陣営にとって要衝だった犬山城が、奇襲によって秀吉陣営に奪われるなど、劣勢もありましたが、信雄・家康軍が秀吉に勝利します。家康の劇的な勝利で、京都では家康が一気に上洛するのではないか、と情報が飛び交うほど、家康には勢いがありました。

そこで秀吉は、家康に対して正面突破が難しいと判断し、犬山城から大坂に撤退しながら、岐阜にある信雄の拠点を攻め落とします。また、信雄の家臣の九鬼義隆などを寝返らさせ、水軍を家康の三河に上陸させて牽制。家康がすぐに救援できない三重県津市の戸木城も攻め落とします。
そして秀吉は、家康軍の中で最も切り崩しやすい信雄に集中します。信雄を心理的に追い詰めた上で、単独講和を提案。それに信雄が応じてしまい、家康陣営は戦闘の大義名分を失い、停戦せざるを得なくなったのです。家康は戦闘では秀吉に負けなかったものの、結果的に次男を人質に出して講和することになりました。

家康が同盟で勝つには、自軍が強いだけでなく、脆弱な信雄(ボトルネック)の領地の防衛と軍備増強する全体最適が必要でしたが、家康はまだ若くそれに気付かず、自らの戦いに集中。最も弱い環を見抜いた老練な秀吉の戦略眼にあえなく屈服せざるを得なかったのです。

この画像はコチラからお借りしました

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しかし皆さん御存知の通り、その後徳川家康は、天下を統一し、その後265年間続く江戸時代の基礎を作り上げました。それはこのときの失敗から学んでいるのです。

例えば前回狙われた自軍の弱点となった大義名分について、1600年の関ヶ原の戦いでは「豊臣家(秀頼)のために戦う」を掲げ、本来は「徳川VS豊臣」の戦いを、巧妙に「東軍(家康)VS石田三成」の構図にすり替えます。こうして元々豊臣側だった武将までも味方に付けます。

さらに本来の強みである戦法も自己流ではなく、かつて三方ヶ原の戦いで敗れた武田信玄の戦法をマネします。自分の強みを過信せず、現実の状況から学習して最適な手を打ち、勝利したのです。
さらに言えば、家康は天下を手にしても、秀吉が高価な茶器を集めたり権威を誇示した生活をしたことを反面教師とし、家臣や跡継ぎに、贅沢な生活を戒める言葉を何度も伝えています。他者から学ぶ姿勢は貫かれていました。

激動の時代では、状況によって取るべき答え(⇒行動)も変わってくるので、勝ち続ける企業は常に現状から学習し続け、変化し続けているのです。

※参考:「戦略は歴史から学べ」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)

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