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2011年10月11日

共同体社会の実現に向けて【6】 市民運動という騙し、民主主義という騙し(下)

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今回は、「民主主義」について学びますが、最初に前回記事「共同体社会の実現に向けて【5】 市民運動という騙し、民主主義という騙し(上)」で学んだことを最初に簡単に振り返ります。
現実世界を動かす力の構造は、‘70貧困の消滅によって、私権原理から共認原理に転換し、支配構造を突き破る実現基盤はすでにあります。しかし、変革に向けてモノを考えようとすると、たちまち民主主義、つまり議会や市民運動等の思想に絡めとられてしまい、現実社会を何も変えられていません。
それを受けて今回は、近代思想の本丸である「民主主義」の本質を学びます。本質を理解し、全的に否定することではじめて近代思想に変わる新理論が構築できるのです。
興味を持たれた方は応援も宜しくお願いします。:D

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【民主主義と共認原理】
とすれば、いったい民主主義とは何だったのか?
私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」等の架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊する)」である。
人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。
共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。

それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?

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歴史を見ても、実際の仕事場面をみても、現実は能力の高い人間が答えを出すか、全員で知恵をひねり、全員合意とするかであり、あたかも正しい決議の仕方であるかのような民主主義は、自我・私権の対立を正当化するものでしかないのです。
%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%83%B3.jpg<参考>ブッシュマンの分析 ブッシュマンは、多数決ではなく、すべての情報を共有する話し合い。
つまり物事はバンドのすべての構成員が話し合って決め、多数決ではなくて話し合いで合意するまで決まらない。
リーダーはその事項ごとに詳しい者が当たり、権威や特権は存在しない。
※画像はこちら

【民主主義は、自我の暴走装置である】
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。逆に言えば、彼らは現実から何も学ばず、従って、現実を改善してゆけるような実現の論理を持ち合わせていないので、何事も批判し要求することしかできない。
だから、彼らは一様に、民主主義を根拠にして人々にも同じように批判し要求するようにそそのかしてきた。その結果が、自我ばかり肥大させ、何も実現できない(=批判と要求しかできない)無能化された人々である。
要するに、金貸し勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をどんどん肥大化させると共に、どんどん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・議決権」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。

かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する自我=悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。

「民主主義は正しいと信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す」とありますが、現代社会では至る所でこのような事態が蔓延っていることを思わされるし、私たち自身の生き方の問題として、深く自覚、自戒する必要があります。
例えば、理不尽な要求を押しつけるモンスターペアレンツ、国家財政破綻を顧みず年金や福祉を要求する人たち。また、高利を得ながら金融危機になると国家救済を当然とする銀行屋、自らの権益だけを優先してTPPを推進する産業団体。権益があるから、豊かな生活をしたいからと原発に加担する勢力も同様でしょう。
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※画像はこちら  ※画像はこちら          ※画像はこちら             ※画像はこちら
  
物事を判断するには、自然の摂理に適っているのかどうか、自分や自集団だけでなく社会全体、次世代にとってよいことなのかどうか考える必要がありますが、そうした「学び」や「状況認識」を抜きにした「自己中の蔓延」が社会を閉塞させていることは間違いないでしょう。
同時に、何一つ問題を前向きに解決できないわけですから、人間の「無能化」、社会の「無能化」といわざるを得ません。
つまり、民主主義は「とことん自我を暴走させる」とともに、人々を「とことん無能化」させてきたのです。
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資本主義のためには、自分の生活を反省して自分の頭でよく考える人間よりも、刺激に対して単純に反応する消費者が多くいたほうがいい。戦後民主主義教育とは、このようなバカな大衆を作る教育だったのではないか。
<参考>「やらせ、ウソ」をやるには民主主義ほど都合のいい体制はない
「民主主義は「民」が「主」だって? それは、そういう形をとっておけば多くの人からお金を巻き上げることができる方便だ。マスコミを使って幻想を巻いておけば、民主主義ほど都合のよい体制はないよ」
<参考>大衆を私益第一の傍観者たらしめて支配するのが民主主義である
「大衆を無能化させたうえで、金貸し勢力が知識人やマスコミを使って好きなように世論をコントロールする」これが、民主主義社会といわれているものの正体です。
このように、自我の暴走と人々の無能化をもたらしてきた民主主義ですが、これは大衆自身が望んだもの、勝ち取ってきたものと思い込まされてきました。しかしそのこと自体が、金貸し勢力と専門家による染脳=共認支配であることに気づかなければなりません。
※画像はこちら


民主主義は自我の暴走装置、人間無能化装置であると同時に壮大な『騙しの思想』なのです。
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※画像はこちら
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※画像はこちら

さらに、民主主義思想の本質を見抜くために、民主主義が発展してきた歴史を見ていきます。歴史を紐解くと、その実態は、貴族・商人・金貸しが国王から権力を取り上げていく私権闘争の歴史であり、民主主義とは専ら私権闘争を正当化するのための方便として使われてきたことがわかります。
 
議会の登場は13世紀のイギリスで、フランスとの戦争で負け貴族から退位を迫られた国王が、自らの権限を縮小し貴族の同意なしに戦争しないと約束したマグナカルタが出発点です。
 
その後のイギリスの名誉革命も、アメリカの独立宣言も、フランスの人権宣言も、イギリスとフランスの戦争が背景にあり、その戦費の調達のために増税されるのを嫌った貴族、商人、金貸しが、国王の徴税権をなくすことが最大の目的でした。イギリスでは名誉革命後に金貸しが中央銀行を設立し紙幣の発行権まで握っています。国王から権限を取り上げることを正当化するのに使われたのがロック、ルソーらの民主主義思想ですが、これは王権神授説を否定して、もともと人間には権利があるとする思想です。その源流はギリシア哲学にまでさかのぼります。民主制の語源は古代ギリシアの「デモクラティア」でありロック、ルソーらが引用し、新たな意味合いを吹き込んだのです。
 
そして、古代ギリシアでギリシア人やローマン人が市民に平等な権利を認めたのは、彼らの出自が略奪集団であり、略奪品の分配を平等にしないと集団がまとめられなかったからなのです。民主主義思想はその源流自体が、略奪集団の自我を正当化するためのものです。
つまり、民主主義思想は、その源流も歴史も、共認原理とは正反対の、完全に自我・私権に立脚した思想なのです。
<参考>金貸し⇒中央銀行が国家に金を貸し、操り、世界を翻弄する。~イギリス名誉革命以後の近代史
<参考>フランス革命 ~商人達による私権拡大のための革命~
<参考>9/18なんでや劇場5 自我が全ての中心という西洋人の意識が原点となって近代市場が形成された

以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。(※自我原理とは:リンク
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)
人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は自我=悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。全てはそこから始まる。
そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。
ここで改めて、マルクスを含む近代の思想家たちに、その限界と突破口を提示しておこう。
社会を変えるためには、まず、現実世界を動かしている力の構造を解明し、さらにその構造をもっと根底から突き破ってゆけるような、実現基盤を発掘しなければならない。そうして初めて、現実を動かす変革方針を提示することができる。
学者や評論家やジャーナリストに欠落しているのは、そのような実現の論理である。
すでに提示したように、実現の論理は、彼らとは全く逆の実現基盤と実現方針を発掘した。改めて、それを掲げておこう。
時代はすでに、私権原理から共認原理に転換した。
重要なのは抽象的な「社会変革」ではなく、現実の生産体の変革である。
つまり、もっとも身近な現実の場である職場を共同体に改革してゆくこと、本当の変革はそこから始まる。

現実世界を動かしている力の構造について、詳しくは→リンク
実現基盤と変革方針について、詳しくは→リンク
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ここまで学んだように、近代思想→民主主義により、共同体は破壊され、社会は経済破綻・地球破壊のドロ沼に沈み、人類は滅亡の一歩手前にあります。
その歴史に直対すると、自我原理に立脚する民主主義に代わる、共認原理に立脚する実現の論理の構築が必要であることは明白です。そのために今為すべきは、抽象的な社会に向かって偽物の主張をすることではなく、最も身近な現実の場である職場を共同体に改革してゆくことです。
共認原理へと転換し、変革の実現基盤は既に整っています。共認社会の実現の可能性へと、少しでも多くの企業・人が向かっていくことで、本当の変革は始まるのです。

 

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