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2008年10月03日

シリーズ 日本人のもつ可能性を探る~農民編~ 2

今回は、江戸時代の農民にスポットをあてて見たいと思います。日本の農民はどのように暮らしており、西洋の農民とは何が違うのでしょうか?

>「この地球上で、素朴な農民や小売商人からなる国家が、短期間に、世界有数の工業先進国へと飛躍を遂げた例が他にあるのだろうか?」
これは私が最近読んだドイツの新聞記事の一説で、在日ドイツ人特派員が、日本について書いたものである。


どうやら、この素朴な農民という捉え方がヨーロッパ人と日本人では随分と違うようなのです。ヨーロッパの農夫は、ひろ~い麦畑でのんびりと鍬をもって藁のうえで寝ているのどかな風景をイメージしてしまうのですが、実態はどうだったのでしょうか?

>「素朴な農民」という言葉からヨーロッパ人が連想するのは「農奴」である。貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろをいつも鞭で叩かれる農奴である。貧しく、反抗的で、つねに暴動を企んでいる、顔に深いしわが刻まれた人たちを彼らは思い浮かべる。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを、五年に一度一足の靴を手に入れることのできる人たちを。生涯一度も風呂の入らず、自立することなど考えたこともなかったから、読むことも書くこともできない人たちのことを思い描くのである。
ヨーロッパにおける農民の決定的な特徴は、人々の食料の生産をひとえに担っていたにもかかわらず、領主の横暴の最大の犠牲者であったことである。


確かに日本の農夫とは大きく差がありそうです。略奪闘争の歴史を辿ってきたヨーロッパは、力(武力)の原理により統合されており富は領主に集中していた時代なのです。現在でもヨーロッパでは大規模な農業体制を構築しているのも、一部の資本家が奴隷を使って利益を得る仕組みがそのまま引き継がれているのですね。この「農奴」のイメージから世界有数の工業先進国への飛躍は確かに超人的に思えるのも致し方ないことのように思えます。
では、その世界有数の工業先進国への飛躍を可能にした日本の農民の状況はどうだったのでしょうか?
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>日本の農民は数からいえば日本社会の最大の集団であった。三千万の人間を養う食料を確保するためには、多くの人手が必要であった。日本の農民も当然村に住み、田畑を耕した。ここまではヨーロッパの農民と同じである。
 しかし、日本の農民は、庄屋や地主の横暴の犠牲になる心配はほとんどなかった。それどころか、彼らは自立していたのである。
>日本のいたるところに自立した村落共同体が作られた。どの村にも議会である「寄り合い」があった。寄り合いでは、メンバーの中から代表者一人と、二人の委員が選ばれた。彼らの役目は対外的に村を代表することだった。特に年貢、つまり納税の問題について、村の人々の意見を代弁するのが彼らの任務であった。
>ここで特に強調したい重要なことがある。それは日本では、税の額は決して農民の頭越しにお上によって一方的に決定されたのではない、ということである。納税額を決める際に、農民は村の代表者を通じて、協議・決定に参加する権利を持っていたのである。
>年貢米を基にした租税制度と全国における米の配分も至極円滑に機能していた。それなのに、「毎年農民による暴動があった。鎖国時代には全部で千五百回くらいの農民一揆があった」などという日本の歴史家は多い。ところが、この「農民一揆」と数えられている事件を詳細に調べてみると、驚くべき結果が出てくる。ある村の代表者と大名の代理人が年貢米の納入量について話し合ったが、合意に達することができなかった。そこで近郷のいくつかの村の代表者たちが一緒に大名屋敷へ参上し、年貢の軽減を願いでるために協力しあった、というだけで「農民一揆」に数えられているのである。
>もし仮に百歩譲って、農民一揆といわれている暴動が二百年以上の間に千五百回あったというこの件数を正しいとしたところで、驚くべき農民の満足度の高さを示していることになる。当時日本には、およそ六万三千の村があった。ということは毎年年貢米による納税額の決定が六万三千件あったことになる。二百年以上という年月のなかで総計五百回の争い、もしくは暴動があったとすれば、争いの起った比率は一万件に一回ということである。
>日本の発展にとって決定的だったのは、農耕に使われている土地が全て課税されたわけではなかったことである。沿岸地域を干拓したり、沼地を排水したり、山服を平らにしたりして得た新田には、ある一定の期間(八年~十五年ぐらいまで)税金がかからなかった。鎖国の始まる以前から全国的に導入されたこの取り決めは、農民に新しい土地の開拓を試みる意欲を与えた。辺鄙な谷間に住んでいる農民たちは、険しい山服を平らにして段々畑を作った。時には個人が考えた開拓案が、一つの村の力ではいかんともしがたいことがあった。そのような場合はいくつかの村が協力し、協同の計画が検討された。農民は堤防工事や、測量技術、治水工事の技術などにも精通していなければならなかった。
>こういった多方面にわたる課題が農民にはあったので、日本の農民の多くは、読み書き算盤ができた。ヨーロッパの農民が読み書きができるようになる、はるか以前のことである。ほとんどの村には、寺子屋と呼ばれる学校があった。男子も女子も授業を受けていた。先生は寺のお坊さんだったり、近くの神社の神主さんだったり、あるいは年をとってもう畑仕事はできなくなった農民が努めたりした。自分が田畑に出て働く必要のない裕福な農家の人たちも「先生」という、村落では名望のある仕事に貢献することができた。


どうでしょうか。日本では同時代のヨーロッパ諸国に比べて、公正と自治が高度に機能していたと言えます。寺子屋ができたのも様々な現実課題を突破するため。生存圧力への適応として集団規範をつくり、それを子供たちは同化対象に集団の当事者として成長し組み込まれていくのです。決して現実社会と切り離され義務として行く学校とは根本的に違いますね。誰もが現実を生きる当事者の活力ある姿が浮かんできます。現実を直視し、課題・役割を共認していく村落共同体の自治システムによる知識や技術の蓄積が皆で共有されているのです。
これも、世界有数の工業先進国への飛躍を可能にした土壌のひとつのいえそうですね。
しかしながら、当時は隣の藩は異国のようなもの、脱藩は重罪であり、他の土地で働くために村を出ることが厳しく禁じられたいたと聞いたことがあります。しかし、一方で農業の発展につながる情報や、知識は短時間のうちに各地に拡がり共有されていったようです。このあたりの仕組みはどうなっていたのでしょうか?
次回はそのあたりから。
文献引用【驕れる白人と闘うための日本近代史」松原久子 田中敏(訳)】

 

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