2009年05月23日
【強制的なノルマ】と【みんなが期待する課題】の違い
画像は
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001205 よりお借りしました。あざっす 😀
金融危機以後、不況 が続いていますが、成果を上げている企業 とはどんな企業なのでしょうか?
それは、社員1人1人が、活力を持って取り組んでいる企業だと思います。
このように今求められる企業を考える上で、序列関係を絶対とする私権統合と、集団内に課題・役割・評価 が組みこまれた共認統合のどちらに可能性があるか
その違いを考える上で、一般企業等の「ノルマ」と、共同体の「課題」について考えてみました。
※ちなみに
①ノルマは、半強制的に与えられた個人課題
②課 題は、集団内のみんなからの期待
としています。
一見、どちらも会社の利益を上げる為に必要なモノなんだと思いますが、何か違う 🙄
そこで、色々な人に聞いて見たんです 😀
その前に 『ワンポチッ 』 をお願いします。
【アンケート結果】
周りの人達から聞いた違いは、
<ノルマ> <課題>
○印象
・ペナルティが怖い ・達成したら嬉しい
・有限 ・無限
・没落 ・成長
・疲弊
どちらかと言えば、ノルマはマイナス 🙁 、課題はプラス面が強い
もっと大きな違いを明確に挙げるとすれば、
<ノルマ> <課題>
○評価軸
・権力者からの評価 👿 ・仲間からの評価 😛
ノルマは、評価される側(雇用者)と一部の評価する側(経営者、株主)にはっきり分かれる。
課題は、皆で評価し合う(評価されるし、評価もする)。
では、なぜ、どちらも利益を上げるのに必要なモノにも関わらず、このような違いが生まれるのか?
そもそも、ノルマの成立状況を考えてみました
【成立状況】
私権時代の会社とは、自分達の好き勝手を許されていた個人、個人を集め、集団のルールに合わせる仕組みで作り上げた組織
貧困の圧力が強くかかっていた時は、序列原理も働き、雇用者側も「クビ 」=生活出来ない不安を抱え、嫌がおうにも従うしかなかったが、’70年貧困の圧力が消滅し、豊かになっていくに連れ、上からきつく言われても、雇用者側の意識も「しんどい思いをしたくない」、現実には「(そうは言っても)物が売れない」状況が続いていました。
そこで、経営者(株主)側が、組織を再統合する上で、序列構造を強化する必要を感じノルマを掲げたのではないだろうか
【現在】
もはや、序列原理も崩壊し、共認原理に移行した現在においては、社内で「ノルマ」の声を聞かされる度に疲弊感が漂い、生き苦しい状態になっていませんか
(ちょうど日本でも、ノルマが声高に叫ばれ出したのが、バブル崩壊直後の1990年代頃からなんです。)
【課題って】
一方、課題は、共同体の中で、全員が組織や経営を担う、という視点に立ち、市場内においても勝っていく上で必要な事をみんなが考え出す。
だからこそ、与えられた役割において、
「できないかも・・・」から「できたら喜んでくれる」へ
「嫌な事を避ける」から「相手の充足まっしぐら」へ
となり、
万一、みんなの期待に応えられなかった時は、「申し訳無い。次こそやるぞ」という気持ちが湧く、と同時に、「期待してくれて有難う」との感謝の気持ちも湧いてきます。
すなわち、組織統合の視点において、全員が活力を維持していく為に必要な評価軸の一つであると思います
やっぱり、仕事で、充足したい 😀 って思いたいですよね!!
そんな方には、この投稿が、すっごいお奨めです♪
「活力を持って仕事するには?( http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=83209 )」
これを読むと、楽しく仕事に向っている時って、「相手の充足へまっしぐら」なんだなぁと思います。
ここまで 【強制的なノルマ】と【共同体の課題】を考えてきましたが、最後にまとめると
●強制的なノルマとは、
権力者から与えられる(半)強制的な課題であり、とにかく与えられた仕事をこなしていれば、怒られはしない。評価も上がる反面、落ちた時に、自分への評価への苛立ちや不満が溢れてくる。
すなわち、集団内ではマイナス 😥 でしかないんだと思います。
◎共同体の課題とは、
皆の期待の結晶物と言っても良く、その期待に応える事で、成員の活力を上げる為のモノと言っても良い
最後まで読んでいただいて、有難うございます 是非コメントを聞かせて下さい
- posted by shiogai at : 18:00 | コメント (2件) | トラックバック (0)
コメント
農業をはじめ、特に工業は物的生産である。と考えがちです。
しかし、よくよく考えてみれば、’70年貧困の消滅を契機に、人々の物的欲求は衰弱の一途をたどり、その後は消費者の物的欲求をいかに刺激するのかということばかりに注視してきてきた。
その結果、供給される商品群は、農作物にしても工業製品にしても、消費者の刹那的な欲求(快美欠乏)に応えるだけの物となり、今や根源的な「必要か否か」という判断の土俵に乗せられるや否や、見るも無残にその欺瞞性を見抜かれている。
つまり、’70年の貧困の消滅以降、物的生産においても、人間又は社会を対象とした類的価値の追求の上にあって始めて、人々の期待に応えるものができたはずなのであり、それを怠ったが故に、現在のような快美欠乏にしか応えることのできない商品群が出来上がった。
では、今後どうするか?
物的生産においても、まず認識転換を図り、生産活動のなかに社会活動を組み込む事ではないでしょうか。
>テクノロジーも又、非定型な社会的諸条件の中に多数の技術を総合的に適用する事である限り、そこでの技術の習得の槓桿を成すのは、社会の習得による諸関係の構成能力と統合力なのである。
であって、この習得なしに、人々の期待に応える生産は出来ない。
’70年、貧困の消滅により、農業も工業も物的生産ではなく、意識生産に転換していたという認識が重要ではないでしょうか。
>実の課題を突破するには、必ずそれを実現させうる自然の摂理や普遍構造があり、だからこそ歴史構造を追求して事実構造を解明することの重要
なるほど!です。
確かに、何かを実現するに、「たまたま」「偶然」とかって殆どないですよね☆
塗り重ねの重要性をスゴク感じました。
このシリーズ、写真がイメージを膨らませてくれて、とてもよいです♪
ラスト楽しみにしていますね(^-^*))。。。
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