2010年09月01日
★シリーズ『会社って誰のもの?』 ~2-5.近代(明治以降)の会社形態の変遷~
これまで、企業の歴史を調べる中で、株式会社の起源は大航海時代に遡り、そのメリットは、株式を発行し小額の資金を多くの人から集め蓄積し、大規模事業を行うための資本形成が可能になるシステムにあることが分かった。
ところが、株価は会社の実態の利益以上に、将来見込まれる利益への期待値が繁栄され、一旦人気が出ると、実態の価値以上に価格が上っていくという“バブル”になり易い“負”の性格も持ち合わせている。
従って、西洋ではそれらの危険性を歴史的に経験しているため、それほど株式会社数は増えてこなかったのが実態である。
ここに、日米独3ヵ国の企業形態と企業数(2,000年)データがある。
データは「会社についての一視点」酒井雅子著 より引用させて頂きました。
株式売買やM&Aが発達していると思われる欧米市場だが、実はそのほとんどが個人企業で、多いアメリカですら全企業数の10%にも満たず、ドイツにあってはわずか0.2%、日本は圧倒的に株式会社数が多いことが分かる。
加えて、リーマンショック以来、株式など証券への過剰な投機は危険であり、先進国では寧ろそれらを制限する動きが現れている。
そもそも、何故、日本ではこれほどまでに株式会社数が増えたのだろうか
前回、中世及び前近代の「日本における企業集団の歴史・由来」に引き続き、今回は明治以降の会社形態の変遷を扱う中から、その理由を探っていきたいと思う。
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1.株式会社の登場~明治維新以降
日本の株式会社の原型は、明治2年に渋沢栄一が銀行と商社を併用した「商法会所」にあると言われる。この会社は静岡藩が経済の振興を図るため、新政府から資金を借り入れ、その利益を返納金に当てることを目的とした組織であった。
株式会社の条件をほぼ満たした最初の会社として、明治6年に渋沢栄一が会頭を勤める第一国立銀行が設立する。同行は出資者を公募して1株100円の株式を発行した。取締役は株主が選挙で選び、頭取は取締役会で決められた。現在の株式会社と異なるのは、営業の損益は株高に応じて株主が負担する規定や株式の譲渡が制限されていたことが挙げられる。
画像はwww.cicom.co.jp/akiba-blog/archi…722.htmlよりお借りしました。
欧米諸国に比べ資本蓄積が遅れていた日本は、欧米資本と同様に株式を上場すればすぐに飲み込まれてしまいそのままでは太刀打ちできない。そこで採用されたのがドイツ型の商法である。
1890年にルマン・ロエスレル(ドイツ人)によって起草・制定され、合名、合資、株式会社(発起人4人以上)の3種の形態を定めた。ドイツ型の商法を導入した理由は、以下http://www2.tbb.t-com.ne.jp/teraojuku/semi/semi10.htmより引用
19世紀イギリス、フランスから遅れていたドイツでは、産業および企業の発展が国益向上の手段とされた。企業は単なる私的利益手段としてより、国益増大としての公器の地位に置かれた(明治以後の日本も同様)。企業経営に関して、企業の自主性を尊重しつつも透明性を確保するために法制度化されているのが最大の特徴である。労働者階級と企業の一体感を強めるため、労働者を企業の意思決定へ参加させる共同決定法が制定された。この点から、企業は株主より従業員利益を尊重するようになった。その始まりは1834-35年にまで遡ることができる。ドイツの経営者は株主利益の最大化より、利害関係者を公平かつ同等に考慮した共通の利益最大化に努める。
さらに、西欧の制度に直面し不安のあまり旧慣を固守しようとした商人階級など、保守層の強い反発を招き、明治32年商法では、あらたに株式合資会社※が付け加えられている。
※株式合資会社とは、発言・支配権を持たない持分出資者の持分のみ株式化、支配出資者は無限責任とした。そのため株式会社に比べ支配出資者は新規投資に対し消極的となる。
一方、実業界からは渋沢栄一が大蔵省入り、大蔵官僚として財政改革・金融改革を行い国家財政の基盤を確立していく。後に大蔵省を辞任し、東京商工会議所や東京証券取引所の前身を設立。さらに、三井銀行、王子製紙、日本赤十字社、帝国ホテル、帝国劇場、日本郵船、石川島播磨重工、東京ガス、東京電力、札幌ビール、東京海上など約500社に及ぶ企業を設立、600余の社会公共事業に力を注ぎ、資本主義的経営の確立に貢献した。
渋沢は、実業の道を歩むにあたり、商売に論語の精神を植え付け「商売は多くの人に利益をもたらすものではなくてはならない。自己本位の儲け主義に走ってはならない」と論じている。当時の経営者には、西洋に追いつけ追い越せと、官民一体となって経済成長することが第一で、それを突き抜けて自らの利益を優先するような自我は発現していない。
2.戦争需要と市場拡大~明治から大正期
明治末から大正にかけて、対戦景気に沸く空前の好況にあって、数多くの株式会社が誕生した。
大正2年(1913年)の税制改正では、株式会社の設立要件は株主21人以上であったが、甲種法人(株主21人以上の株式会社及び社員数21人以上の株式合資会社)は、乙種法人(甲種以外)に比べ一定の所得を超える場合に税制面で有利となった。
データは「会社についての一視点」酒井雅子著 より引用させて頂きました。
この時期、日本企業は第一次世界大戦の軍需、民需で大いに潤い、これにより合名・合資会社形態を採用していた財閥の直営事業の株式会社化がすすみ、漁夫の利を得て日本経済は急拡大をした。また、企業の新設ばかりではなく既存企業の拡張も相次ぎ、株式市場は活況を呈し、主要会社の株主数も急増、初めて株式会社数が合資会社数を上回った。
3.GHQによるアメリカ型商法の導入~戦後
戦後は、GHQの占領下で、日本国憲法をはじめとして、アメリカ法の影響を強く受けている。
1950年の商法改正では、アメリカ型の考えが一部取り入れられ、授権資本制度や取締役会の設置が義務づけられた。授権資本制度とは、定款に定める株式数の範囲内であれば、取締役会の判断でいつでも新株発行をすることができる制度で、迅速な資金調達を可能にすることを目的とした制度である。このアメリカ型商法の特徴についてhttp://www2.tbb.t-com.ne.jp/teraojuku/semi/semi10.htmでは次のように述べている。
株主中心主義が基本である。1919年、フォード自動車の下請けであり株主でもあったダッジ兄弟は、フォードが新工場を建設する際「余剰資金があるなら配当せよ」と訴えた。「フォードとダッジ兄弟の配当紛争」による最高裁判決「企業は株主利益を最優先して組織され経営される」が現在でも継承されている。
ところが現在、日本の会社総数は約130万社あるが、そのうち75%が株式会社であるにもかかわらず、上場会社はわずか5,000社にも満たず、全体の0.5%に過ぎない。さらに、株式の全取引約750兆円の内、既存株の売買が約98%で新規調達は約15兆(2%)に過ぎない。
戦後、アメリカ型の商法が導入されたにもかかわらず、本来の資本調達や株主利益の目的で株式会社を利用している会社は大企業とその一部でしかないのである。
戦後の商法改正では、株式会社の設立要件として最低7人の株主(発起人)と3人以上の取締役の設置を定めていたが、課税負担の軽減を望む中小事業主にとって、これはけっして高いハードルではなかった。身内7人で1株(1円)づつ引き受けて家族を取締役に加えれば株式会社はでき上がったのである。こうして、株式を公開する意思のない中小事業主は、株式会社の本質を理解することなく“節税“や“格式=イメージ”など目先のメリットの方を都合よく優先し、本来の資本調達とは違う目的で採用したのである。 🙄
その後の企業形態については、★シリーズ『会社って誰のもの?』 ~1.「現状はどうなっている?」 -1 法人の実態は?~で紹介したとおりである。
これまで日本の企業集団を調査する中で、日本は西洋型の巨大資本が主導する社会ではなく、独自の市場システムを作ってきたことが分かってきた。
1970年頃の豊かさを実現するまで多くの企業は、社員や社会が豊かになることを目標に企業活動を行い、営利だけを求めて暴走するような会社はほとんど無かった。
また、江戸時代から残る財閥系の企業や、官僚・政治家であっても、日本社会が西洋に追いつけ追い越せという目標を失うことなく、中小の企業をグループや下請系列に組み込み、護送船団方式で欧米企業と戦い、むやみやたらに買収したり倒産させたりすることもなかった。
大正以降、株式会社が一貫して増えてきたのも、株を持ち合うことによって、資本や経営面での提携や連係が図り易いという制度のメリットを日本流に解釈してのことだろうと考えられる。
リーマンショック以来、西洋発の近代市場が行き詰まりを見せる中で、金貸し規制(管理市場)と自然の摂理に沿った持続可能な経済システムに期待が集まる中、江戸時代やそれ以前に形成された経済や企業システムに今注目が集まっている。
次回以降は、それらの問題点を整理する中で、新たな企業形態の可能性を探っていきたいと思います。
- posted by oosima at : 21:01 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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