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2011年04月16日

共同体性を土台にして原発問題に挑む日本人

今回の3.11東北大震災では、日本人の共同体性に注目が集まりました。
実際、災害時の人間の行動に見られる共同体性は、日本人に限らず人類共通の本源的な行動として海外でも見られるようです(参照:レベッカ・ソルニット「災害ユートピア」亜紀書房)が、それが危機的状況下における一過性のものなのか常態化したものなのかによって、日本人と他の民族との違いは存在しており、それが世界の中でも日本人が注目される理由ではないかと思います。
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そんな日本人の共同体性を育んだのは、①島国ゆえに同類闘争の圧力から逃れることができ、人類本来の共同体性が保持されてきたこと。そして②過酷な自然(地震・火山)と豊かな自然(海山・四季)が併存していること。この2つが大きいように思いますが、今回は後者の日本人と自然との関係に着目してみようと思います。
それは、日本人の共同体性は、部族集団という同類圧力の中で培われるだけでなく、複雑な自然外圧を前に培われてきた、という視点です。

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以下、内山節「共同体の基礎理論」農文協からの引用です。
%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%90%86%E8%AB%96.jpg※アマゾンより
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 なぜこのような精神が生まれてきたのかといえば、それは共同体に生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。日本の自然は複雑である。季節の変化も大きいし、安定してもいない。昨年は暑い夏が来ても、今年も暑いとはかぎらない。突然の嵐は村を破壊することもある。さらには噴火もあれば、地震も津波もくる。
(中略)恵みとしての自然と禍としての自然は、はっきり分けられるものでもない。たとえば川が氾濫し農地に濁流が入るのは禍だけれど、かつてはそのようなことによって新しい土が入り、土壌改良がなされるのは恵みでもあった。洪水の後に不作なし、という言葉が残っている地域もあった。しかし洪水の度が過ぎれば大災害になるし、いくら土壌改良がなされるといっても、そのとき育っていた作物がなぎ倒されることが禍であることに変わりはない。
 火山は噴火とすれば禍の元であるが、火山があるから温泉もでる。恵みとしての自然と禍としての自然はしばしば分離できなくなるのである。こういう自然とともに生きた人々が、ひとつだけの合理的真理も異なってくる、という発想の方が、この自然の世界に生きた人々には納得できる。
 
 私はこのことが多層的精神を育んだのだと考えている。(中略)日本列島に暮らした人々の精神は単純な共同体主義ではなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
このように日本人の共同体性は、自然の摂理に沿った禍福と共にあったわけですが、一方で今回の福島原発の災禍とは、暴走し続ける核分裂という自然の摂理を超えた領域にある現象であって、従来の日本人の「共同体性」という切り口だけでは突破口は見えてこないように思います。
むしろ、これまで厳しい自然外圧に向きあう中で培ってきた外圧状況への「同化能力」に着目すべきかと思います。
すでに放射線量を計測するガイガーカウンターを使った事実情報の収集や共有、あるいは地震予知に関する前兆情報の共有といった“集合知”の形成がネット上で始っていますが、放射能や地震という「目に見えない」外圧を前にして、今日本人は5感を(あるいは第6感をも?)フル稼働させて状況に同化しようとしている。
もちろん日本人には共同体性の土台がある。でも今求められているのはその先にある突破力なのだと思います。
☆これからも応援よろしくお願いします。
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コメント

こんにちは、ルーカスです。
いつもお世話になっております。
記事を参考にさせていただきました。
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  • 稼いで成功ルーカス
  • 2011年11月21日 11:11

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