2012年03月07日
日本の戦後産業史-2-1970~1990年:しかけられたバブル経済
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前回の、日本の戦後産業史-1-1945~1970年:高度経済成長=市場拡大のメカニズムに続き第二弾は、1970年代と1980年代についてです 😀
高度経済成長期を経て1970年頃には貧困を克服し豊かさが実現された日本。
それまで過剰刺激により物的欠乏が肥大化していた人々も物質的豊かさを手に入れたことにより、旺盛だった物的欠乏が衰弱してゆく時代です。
人々の需要と期待が変化し、それまで好調だった経済成長にかげりが見えはじめます。
国の政策も大きく転換し、やがて1980年代のバブル経済へと突入してゆきます。
日本を揺るがしたバブルとはいったいどのようなもので、どのように形成されていったのでしょうか?
また同じ頃に日本にとって憧れであったアメリカは産業の空洞化、失業問題等、経済的に苦境に立たされていました
そのアメリカの背後にいる金貸し資本たちの思惑 が日本のバブルにも大きな影響を与えています
それらの構造についても分析していきたいと想います
1970年~1990年バブルと日本経済
■1970-1975年
1970年に豊かさが実現、高度経済成長は終焉を迎えます。
物的欠乏の衰弱に加え、1973年の第1次石油危機も重なり、高度経済成長期の花形産業であった石油依存型の製造業は、後退し、製造業(特に素材型の鉄鋼、非金属、化学、紙、パルプ)は大きく成長率が低下します(138.2%→69.7%)
唯一、自動車産業だけが、好調な輸出と技術革新を背景に、リーディングセクターとなっていきます。
一方、この需要縮小を補う形で、日本列島改造論により、高速道路や新幹線など、高速交通網の整備を推進し、建設業が躍進。そして、田中角栄内閣により、その実現のための財政政策・金融緩和政策により、金融・保険業も成長していきます。需要が縮小している状況に、このバラマキ政策を推し進めたことにより生じた金余り状態はその後の金融経済の礎となってゆきます。
■1976-1980年
75年からは、5年累積のGDPはさらに低下し、3桁から62.5%となり、「安定成長」と呼ばれる低成長時代に突入してゆきます。
建設業、金融・保険業の寄与度も低下し、サービス業が製造業と同程度の規模となっていきます。(寄与度:製造業15.7%、サービス業19.8%)
70年代を通じて、50~60年代の成長の時代から、産業構造は大きく転換していきます。
豊かさの実現により、物的需要は飽和し、市場が縮小していく中で、物的生産(製造業、鉱業)は大幅に縮小していきます。そして、意識生産に関わる産業(サービス業等)への転換が徐々に顕在化していきます。
そして、金融・保険業もその業態の転換が起こり始めます。高度成長期には、製造業を主とした成長産業の設備投資に対する融資を主軸としていた金融・保険業ですが、製造業の設備投資額減少に加え、バラマキ政策で余った金は、不動産業や小売業、住宅への融資へと傾倒してゆき、また、この時期にアメリカを中心に多くの金融商品も生み出され、徐々に実態の生産とは異なる位相での金融経済へと移行してゆきます。
■1980-85年
1980年代前半には、5年累積のGDP成長率は34.3%まで低下(1975-80年は62.5%、それ以前は3ケタ)。
豊かさの実現から10年がたち、市場の拡大停止が目に見えてきたが、国債投入と輸出(主に米国の過剰消費欲をあてにした産業により経常黒字は拡大)でなんとかプラス成長を維持していた時期だろう。
一方で米国は赤字が拡大。ドル高もあって消費は旺盛だが、日本をはじめとする海外製造業に押され、産業の空洞化、失業問題等、経済的な苦境から、覇権の危機感を強めていったと思われる。
このころから貿易摩擦が激しくなり、米国の日本に対する圧力が厳しくなってくる。戦後の対日政策は、①戦後占領期の民主化による集団の弱体化、②共産勢力に対抗する東アジアの拠点化と移ってきたが、ここでも大きな転換を迎える。日本の恒常的な貿易黒字解消の要求からはじまり、政府の経済政策、日本企業の取引慣行等へのあからさまな内政干渉へと広がってゆく。
■1985-90年
米国の圧力を受けて、1986年の前川レポートでは、内需主導の経済成長が「国是」とされた。
また1985年のプラザ合意以降、数年で1ドル240円から1ドル120円台まで円高が進む。
さらに内需振興と称した低金利政策、リゾート開発、東京のオフィスビル需要を過大推計するなど、あらゆる手を使って、日本経済はバブルへと誘導されていった。
(後に世界中がバブル経済、バクチ経済へと移行してゆくが、当時の日本が先頭を切っていた。実物経済から架空経済への実験場になったとも言える)
1980年代後半はバブル経済を反映して、建設業、不動産業、金融・保険業のGDP成長への寄与度が著しく高かった。なお、世界的にも先進国では物的工業生産(製造業)は相対的に衰弱、代わって金融資産の蓄積を背景に、金融・保険+不動産業の存在感が増してくる。米国ではいち早く1980年代後半に金融・不動産業がリーディングセクターとなった。
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■1980年代バブル経済の背景として、重要なポイント
既に豊かさを実現し、国債を投入してもGDPの成長は鈍化、実質の市場は縮小過程に入り、根本的に新たな局面を迎えていたこと。(この状況下で、「内需主導の経済成長」など自然状態ではありえない)
そうした中で、日本の統合階級は、経済成長=市場拡大のために、また同時に米国および金融勢力の圧力に屈してor自ら従属するかたちで、なりふりかまわず、経済をバブルへと誘導したこと。
バブルが膨れあがってゆくには、金儲け欲・贅沢欲(=過剰な私権欠乏)を刺激しつづける必要があるが、マスコミを中心に過剰な恋愛・遊び情報、露骨な性情報などによって、煽り続けていたこと。
■バブルができたのはなんで?
日本において、世界で初めて本格的なバブル経済が生まれたわけですが、なぜ、どのようにしてこのバブルは形成されたのでしょうか。
高度経済成長期を経て急速に成長し、1970年頃についに豊かさを実現するに至った日本経済は、1970年代に入り、新たな局面を迎えます。
豊かさが実現されると、物的欠乏は衰弱するため、放っておけば市場は縮小過程に入ります。市場を拡大させ続けたい(金貸し⇒)政府は、新たな市場拡大戦略を採ることになります。
72年から、更なる市場拡大のため、田中角栄内閣は日本列島改造論を推進、日本各地で開発ブームが起こり、土地価格が上昇していました。この状況を利用して、金貸し⇒その後の政府は更なる市場拡大を狙うのです。
85年には、プラザ合意によって円高誘導を行うとともに、「金融緩和」、「低金利政策」を推進します。これにより、国内市場には莫大な「金余り」状況が発生し、その後の更なる株価の高騰、地価の高騰へと繋がっていきます。
つまり、物的市場が拡大限界に達してもなお、市場拡大を続けるべく、日本列島改造論による地価の上昇やその背景にある土地神話を利用し、物的市場とは別の「架空経済」によって市場を拡大させようと企図したのです。
この架空経済は、言わば「バクチ経済」であり、バクチによって簡単に莫大なお金が手に入る状況を作り出すことで、豊かさを実現してもなお、日本人は幻想でしかない市場拡大に駆り立てられたのです。
もうひとつの重要な側面として、この背景には、マスコミも一体となって推進された、「性の幻想化⇒性市場の拡大」があります。トレンディドラマブーム、グルメブーム、高級車ブームなどがその典型ですが、これら全ては性を幻想化し、性活力を刺激することによって生み出された市場なのです。この過剰に刺激された性欲に基づく私権活力は、当然上記のバクチ経済の拡大にも寄与しています。
市場とは、起源から私権欠乏に基づいて拡大してきたわけですが、その中核は「性」でした。宝石や毛皮など、市場拡大の原動力となってきた商品は、全て性幻想(女の性的商品価値)を高めることによって価格格差を生み出しています。この市場の本質とも言うべき「性」を利用したのです。
前段のバクチ経済も、後段の性市場も、幻想化という共通点があります。話に聞くバブル当時のどこか浮かれた雰囲気も、この幻想化によってつくり出されたものということでしょう。
■日本のバブルとその崩壊は、世界金融資本が日本産業を支配するために仕掛けた
日本の戦後復興がアメリカの占領政策によって大きく左右されたことは前回見ましたが、’70年代’80年代の日本の産業動向は、欧米金融資本勢力の日本戦略の強い影響を受けています。
‘70年の豊かさが実現、市場が縮小は、世界を支配する金融資本勢力にも大きな影響を与えました。市場が拡大していく間は金融資本勢力は協調することが可能でしたが、市場縮小の時代に入ると金融資本勢力同士が生き残りをかけて戦うことになり、日本もその戦場となるのです。対立する金融勢力の筆頭が、アメリカのロックフェラーとヨーロッパのロスチャイルドです。
世界経済が混迷してゆく転機となった’71年ニクソンショック(ドルショック)は、輸出力が低迷し’70年貿易赤字国への転落したアメリカの輸出力を、円高ドル安に誘導することで再生させることが最大の目的でした。従って、ニクソンショックは国内産業にその力の基盤を置く、ロックフェラー勢によって仕掛けられたと考えられます。
続くオイルショックは石油利権を握るロックフェラーの仕掛けと考えやすいところですが、その後のロックフェラー系の石油会社の凋落していることや、オイルショックの火付け役となった「ピークオイル説」の発信源はローマクラブという欧州系のシンクタンクであったことなどから、ロスチャイルドがOPEC等産油国を巻き込んでロックフェラー勢に仕掛けた反撃の第1弾と考えられます。
‘85年のプラザ合意とその前後の市場開放、内需拡大圧力は、経済力での劣勢を認めるしかないアメリカ=ロクフェラーが政治力を行使して新自由主義を旗印として日本を再占領するためでした。言い換えれば、追い詰められたアメリカ=ロックフェラー勢による日本篭城計画だったともいえます。
そのプラザ合意がもたらした超円高状態が、日本バブルを生み出し、そしてバブル崩壊によって日本は長期のデフレ不況経済へと突入していきました。新自由主義を推進したのがロックフェラーだとしても、バブル化とバブル崩壊を仕掛けたのもロックフェラーだというのはあまりにも短絡的です。日本における金融政策の要を握るのは日本銀行ですが、日本銀行は伝統的にロスチャイルドの支配を受けているとされています。従って、新自由主義政策に乗じて、バブルやバブル崩壊といった「金融資本主義の罠」を仕掛けたのは金融資本主義の錬金術に精通したロスチャイルド勢だといっていいでしょう。
世界市場が縮小過程に入る中で、生き残りを賭けて戦っているロックフェラーとロスチャイルドが、日本の産業界を支配するために最初に仕掛けたのがドルショックやオイルショックでした。円高、原材料高という日本にとって不利な状況をつくりだし日本の競争力を低下させようとしました。しかし日本の産業界は合理化で切り抜け、逆に競争力を高めてしまいました。
そこで、手を変えて仕掛けてきたのが、日本の市場開放であり、その最終目的は日本の金融市場も開放させ、日本の企業を資本力で支配することでした。バブル崩壊で日本の多くの企業は莫大な不良債権を抱え、米欧の国際金融資本に極端な安値で買い叩かれることになります。そして、その後は失われた40年と言われる長い低迷の時代に入っていきます。
参考投稿
「’10年夏なんで屋劇場ノート1~世界経済を「金貸し支配」という視点から読み直す(ドルショック→オイルショック)」
「’10年夏なんで屋劇場ノート2~劣勢のロックフェラー勢は日本篭城計画を進めるしかなくなった 」
「’10年夏なんで屋劇場ノート3~バブルとバブル崩壊~金融資本主義の罠を仕掛けたロスチャイルド勢 」
まとめ
1960年代は、貧困(飢餓)の圧力を下敷きとする絶対的な私権圧力の下、過剰な「物的刺激」により経済成長を成し遂げていた時代と言えますが、1970年代~1980年代は、豊かさの実現→市場の縮小による危機感から、国際金融資本の圧力による国のバラマキ政策→金余りという状況の中、「金儲けの刺激」により、バブル経済が引き起こされ、やがて崩壊してゆく時代です。
その後の1990年以降の日本はどのように変化してゆくのでしょうか?
第3弾をお楽しみに
◆日本戦後産業史年表◆1970~1990年
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- posted by kazue.m at : 10:59 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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