☆ランキング☆
にほんブログ村 経営ブログへ

最新記事一覧

最新コメント

最新トラックバック

2012年03月18日

『企業の進むべき道』②~日本商工会議所の歴史って知ってる??~

%E6%96%87%E6%98%8E%E9%96%8B%E5%8C%96%EF%BC%94.jpg
みなさん、こんにちは 企業の進むべき道シリーズ第2弾
今回は「経済同友会ってどうゆう会?」に続けて、経済3団体のひとつ「日本商工会議所」にスポットを当てます
 
実は、現行の経済3団体の中で、もっとも歴史が古いのが日本商工会議所です。その発祥を遡ると、1877年「東京商法会議所」の設立に行き着きます。1868年が明治元年ですから、その9年後に設立されていることになります。今から百年以上前の話。一筋縄ではいきそうにありません。ということで、2回にわけて見ていこうと思います
  
「日本商工会議所」の発祥は、どこまで遡れると思いますか 🙄
(写真は、リンクよりお借りしました )

にほんブログ村 経営ブログへ


 
◆時代背景
 
%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5%EF%BC%91.jpg
明治とは「文明開化」という言葉に象徴されるように、それまでの鎖国状態が解除されて、西洋の文明・文化が国内に急速に広がった時代です。それと同時に、当時の日本政府は欧米の列強に追いつくよう、焦燥感に駆られていました。「富国強兵」の政策が有名ですが、商工会議所のオリジナル「東京商法会議所」もそのような政府の意思をうけて設立された側面があります
(写真はリンクよりお借りしました☆)
 
◆日本の同業組合組織 
 
まずは、日本の経済団体の歴史を見てみましょう
近代日本の経済団体の始まりは、東京商法会議所にあると言われていますが、先駆的経済団体としてそれ以前に成立した「座」「株仲間」 「江戸町会所」「東京営繕会議所」「東京会議所」があります
1)座と株仲間
 
%E6%A5%BD%E5%B8%82%E6%A5%BD%E5%BA%A7.jpgもっとも古いのは、鎌倉・室町時代に発生した「座」です。その後に、江戸時代の「株仲間」が続きます。
「座」は、公家・寺社を本所として保護を受け、座のメンバーである座衆は、座役を納めました。そして、その見返りに販売独占権を得た同業者組合です。ところが、座衆が世襲制になって新規参入者を拒絶するようになるなど、排他性がエスカレートして、商品流通の発展を妨げるようになります。結果として、これを嫌った秀吉がとった「楽市楽座」の政策によって姿を消しました。
(写真はリンクよりお借りしました☆)
 
その後、表向きは姿を消した同業組合組織でしたが、底辺では活動を続け、江戸時代 家光時代(1648年)に「株仲間」として再興します。
株仲間は、当初は治安目的のために質屋と風呂屋を制限してその看板を売買書入(鑑札)とする政策でした。その後、商品貨幣経済の発展に伴って市場が拡大してくると、江戸幕府が株仲間への加入金収入を当てにするようになり、両替屋をはじめ他業種にも株仲間が拡大されていきます。
明治政府が樹立しても、株仲間組織の存続は認められました。が、明治政府の営業自由政策、移動の自由を認める政策(関所の廃止)等の自由化政策と相容れず、その他の失敗もあって、解散を余儀なくされます。
 
2)江戸町会所~東京営繕会議所~東京会議所 
 
%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB%EF%BC%91.jpg一方、別の組織として「江戸町会所」があります。町会所のもとは、松平定信が凶荒の災厄に備えて「七分積金・囲籾」を諸大名に命じ、それを管理する為に設けられた機関です。そのうち江戸町会所は、大火や飢饉などの災厄で大変よく機能し、多くの市民を救う実績を残しています。
(写真はリンクよりお借りしました♪)
そんな江戸町会所は、明治維新でもなくならず旧町会所の資産をもとに東京市民の自治組織として「東京営繕会議所」に改編されます。参加メンバーは、名主、商工業者でした。
彼らは、自主的に積み立てを続けて道路・橋梁の修繕を行いますが、会議規制(約款のようなもの)がない民間団体だったので、それを整備。明治5年に行政機関のお墨付きを受け「東京会議所」に改められます
 
%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80.jpg東京会議所の事業は、道路の修繕、養育院の建設と運営、街灯事業、共同墓地(青山・谷中)の開拓造成、商業教育事業(現在の一橋大学)など今につながる実績があります これらの事業の発展には、明治8年(1875年)から30年にわたって会頭を務めた第一国立銀行頭取 渋沢栄一の尽力があるということです。
(右の写真は渋沢栄一氏リンクよりお借りしました♪)
その後、東京会議所の半官半民的な組織は、中央集権的な政治体制と相容れなくなり、かつ、資金難にも陥って渋沢自らが解散を決定するに至ります。
会議所の活動に参加した手工業者は、この経験から、自らが管理運営していく「東京商法会議所」の設立に活動をシフトしていくことになります
 
 
◆明治政府の課題
 
明治政府は、欧米列強への立ち遅れから富国強兵を目標に掲げ、経済産業の基本政策として殖産興業を位置づけます。そのために、どうしても成し遂げなければならない課題がありました。それは「不平等条約」の改正です。
不平等条約とは、幕末に欧米諸国と交わした和親条約の類。対象国の治外法権を認め、関税自主権のない植民地的条約です。そんなものがあっては、対等な貿易は成立しません。欧米列強に追いつきたくても追いつけないわけです。
 
そこで、明治政府はこの不平等条約の改正を各国に求めます。しかし、その時に英国公使が強く反駁しました。彼の言い分はこうです。「あなた方は、当該条約に対する日本国民世論の反発が強いと仰る。しかし、あなた方の国には、それを実証する商工業者の世論結集のための代表機関がないではないか。それではお話にならない 」。
 
◆東京商法会議所の設立
 
%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1.jpgこれをうけて、大隈重信大蔵卿渋沢栄一に話を持ちかけます。大隈は「不平等条約の改正には、商工業者の世論を集約する組織が必要だ。そのために政府が1000円(当時としては大金)くらい援助するので、組織できないだろうか」と言い、渋沢に東京商法会議所の設立を願い出たのでした。
(右写真は大隈重信氏リンクよりお借りしました♪)
 
これをうけて、明治11年3月に「東京商法会議所」が組織されます。発起人は、第一国立銀行頭取 渋沢栄一、三井物産会社社長 益田孝、日報社社長 福地源一郎ら8人。
設立願書には「第一に商法会議所を商工業者の代表機関として、事業者の意見(世論)を反映する場であること。第二に商工業者の連絡・親睦・啓発する機関であること。第三に事業者間の紛争を仲裁し、相互の利害を調整する機関であること。」という主旨が書かれています。
 
 
◆東京商法会議所の活動
 
東京商法会議所は、政府の意図どおりに「不平等条約の改正」を訴えて運動を展開していきます。それに加えて、政府に対して商工業者の利益を確保するための要求を出していくようにもなります。具体的には、外国貿易の拡大を企図して海運の発展の補助、開港場の増設、関税自主権を主張し、輸入品評価の法則や課税方法の改正などを求めました
 
商工業者の代表として意見を公にし、政府に要求をしていくスタイルは、その後の経済団体につながる活動といえるでしょう。しかし、政府からの支援(補助金)を受ける一面も持っていました。そのため、独立した民間経済団体とはいえず、殖産興業政策体制の諮問機関ともなっていきます。この二面性が矛盾となって表面化し、後の組織改編につながっていったといわれています。
 
 
◆まとめ
  
今回は、東京商法会議所の発祥から活動までを見てきました そこからどんなことがわかるでしょうか。次回につなげる意味で、いったんまとめておきます
 
1)自治的・相互扶助的側面 
 
東京商法会議所の前身 東京会議所は、名主や商工業者が自主的に積み立てを行って、インフラ維持をはじめとした社会福祉に資する役割を担っていました。「なぜ、そのような自治的活動が生まれたのか」。明確な文献は見つけられませんでした。しかし、おそらくその源流は、惣村をはじめとする古来からの共同体的自治組織にあると思われます。
日本人の自治意識は、お上の緩やかな支配体制や水稲栽培(水利権)を背景にして、長らく維持されました。そのような精神を、明治期の名主や商工業者ももっていたと考えられます。そして、その名残は、金融機関に寄らない融資制度を設けるなど、現在の商工会議所もしくは商工会が行っている非営利の扶助的活動にもあらわれているといえるでしょう
 
2)支配者の意図的側面
  
その一方で、政府の意向(支援)を受けて東京商法会議所は組織されます。これを捉えなおすと、支配者側の要望、すなわち近代資本主義の浸透と市場拡大という意図が透けて見えます。
たとえば、商工業者(民間企業)が地道に積み立て、相互扶助の精神で社会インフラの維持を担うというのは、今では考えられないすごいことです。しかし、それは金回りという面ではよろしくありません。従来的な地域に根ざした地味な経済でしかない。短期間に殖産興業を実現するためには、バンバンお金を借りてバンバン投資して事業(第二次産業の生産基盤)を拡大する必要があります。
商工業者の代表機関たる商法会議所には、そのような新しい経済の浸透(啓蒙)が求められていたと思われます。政府が支援して保護下においたのも、渋沢栄一が30年も会頭を勤めたのも、そのような意図があってのことだと考えられます。
さらに推し量るならば、明治政府の背後には、国際金融資本家、いわゆる「金貸し」の存在もあったことでしょう。金貸しの都合に合わせて、日本国内の商工業者を誘導していく。そんな取引関係もあったのではないでしょうか。
%E5%95%86%E5%B7%A5%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E6%89%80%E5%A4%A7%E7%94%B0%E6%94%AF%E9%83%A8.jpgいずれにせよ、日本商工会議所の前身、東京商法会議所の発祥は、日本が近代資本主義社会に大きく舵を切っていく転換点に位置していることは間違いありません。
(写真は商工会議所大田支部リンクよりお借りしました♪)
 
 
次回は、日本商工会議所へいたる変遷を扱う予定です。経済団体が時代の変化にどのように適応して、存在意義を見出していったのかが明らかになればと思います。ご期待ください

 

コメントする

comment form

trackbacks

trackbackURL: