2013年06月14日
『類グループ岡田社長に学ぶ』シリーズ・・・プロローグ
今回は、『類グループ岡田社長に学ぶ』シリーズのスタートです
その前に、そもそも類グループとは、どんな会社なのか?から紹介します。
類グループは、41年前(’72)、「自分たちの生きる場を、自分達の手で築いてゆきたい」と志した6人の若者によって、共同体として設立されました。 共同体=類グループは、創立当初から、経営上の諸問題から理論問題まで全ゆる情報を全社員で共有し、誰もが状況を把握できるようにして、みんなで組織や事業の方向を決定してきました。
市場社会の常識を破った共同体・類グループを生み出せたのも、様々な壁にぶつかりながらもあきらめずに共同体を進化させてこれたのも、確かな時代認識とその認識に裏付けられた実現の確信があったからです。
そして、共同体や認識力を生み出す母胎となる充足空間と、それを形成する充足力こそ、全ての活力の源泉であり、類グループの活力も、女性社員を中心とする充足力によって生み出されています。
こうした充足空間の中から、社員発の様々な自主活動が生まれています。そして、多様な自主活動をはじめ、営業上、経営上の諸問題から理論問題まで、あらゆる情報が発信され、最大の共認形成の場となっているのが、『社内ネット』です。 毎日300を超える投稿が全社員から発信され、みんなで状況が共認されると共に、的確な戦略と方針が投稿されることで、組織全体が統合されていきます。
自分たちの生きる場を、自分達の手で築いてゆく、類グループは、みんなで組織や事業の方向を決定していく共同体として成長してきました。たくさんの方々が、このような企業が、すでに存在していたこと自体に驚きを感じられています。
一方、今のままの経営では生き残れないと感じている経営者の中には、共同体を目指すことで、外圧に適応していこうとする方々がたくさんいらっしゃいます。
それは、自覚的か無自覚は別にして、多くの経営者が私権原理から共認原理への転換という時代の変化を肌で感じておられるからだと思います。
それでは、私権原理から共認原理への転換とは、どんなものなのでしょう・・・
☆☆☆私権原理から共認原理への転換とは
岡田淳三郎 ( 70代 経営 )
私権(※)圧力が衰弱した以上、その強制圧力によって抑圧されてきた人類本来の活力源が再生されてゆくのは、当然の理(ことわり)である。事実、’70年以後、貧困の消滅に伴って私権追求はもはや第一の活力源ではなくなり、代わって、周りの期待に応えることによって得られる充足(安心や喜び)、すなわち共認充足こそが最大の活力源となっている。
(※)地位やお金のこと。
のように、活力源は、すでに共認充足に移行しているということなのです。
だから、給与アップや出世をちらつかせるという、かつての経営手法では社員の活力は思うように上がりません。社員の活力を上げるには、『周りの期待に応えることによって得られる充足(安心や喜び)、すなわち共認充足』を得ることが出来る会社に変えて行く必要があります。
それは、みんなで自分たちの会社のことを考え経営していくという、企業の共同化と一致しているのです。そして、そのような共同体では、合議制による運営が必要になります。
☆☆☆みんなが発信するが、意見が拡散してうまくまとまらない
ところが、合議制にして共同体を目指したにもかかわらず、
例えば、
みんなが自由に発言をするものの、意見が拡散して、うまくまとまっていかない
批判的な意見ばかりで、建設的な意見がでてこない
のような壁が出てくることが少なからずあります。
それは、なぜでしょうか?実は、
共同体の経営者自身が、民主主義を全的に否定できていない
からなのです
☆☆☆民主主義は共同体の統合原理である共認原理とまったく対立する
共同体社会の実現に向けて6・・・【共同体化の最大の敵は民主主義】
共同体化が上手く進まないのは、認識転換が出来ていないからであるが、企業を共同体化してゆく時に、その足をひっぱる最大の妨害者は、何事も批判し要求することしかできない社会派=民主主義者である。
問題なのは社員だけではない。むしろ、多くの経営者が「民主主義」に囚われて、共同体化の方針を誤っている。共同体化が上手くいかない最大の原因は、経営者自身の頭に巣くう「民主主義」にあるといっても過言ではない。
従って、その点での認識転換が最初に必要になる。批判(要求)するだけならガキでも出来るが、これでは何をするにも周りの足を引っ張るばかりで、まったく戦力にならない。そのことは、経営者なら、言われるまでもなく良く分かっている。ところが、民主主義を全的に否定し切れていないので、組織方針を誤ってしまう。
新理論が不可欠な由縁である。
では、民主主義の問題とはどういうことなのでしょうか?
人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
つまり、民主主義は共認原理に立脚しているように見えても、実は正反対で、『まず学ぶ』という根本規範を踏みはずし、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す思想だったのです。先入観に囚われず、事実だけをみていくと、現実はこの通りになっていることがわかりますね。
だから、共認原理を破壊する民主主義という思想の本質を理解して、共認原理への転換を促していくことが、共同体を目指す経営者にとって、極めて重要な課題になってくるのでしょう。
☆☆☆共同体の根本規範に則り、出来る人に学ぼう
類グループ岡田社長は、日々、小さなものから大きな課題まで、現実の問題に対して新理論を駆使して答えをだし、社員に発信しています。そして、その方法は、すべて共同体の経営には不可欠な共認原理に則り実践されています。
この、岡田社長が日々の仕事のなかで
新理論を駆使して現実課題の答えを出すこと
それらがすべて共認原理に則り実践されていること
こそ、
『学び』に最良の題材ではないでしょうか?
そこで、岡田社長にスポットを当て、
岡田社長が、類グループの社内ネットの中でのみんなの発信を受けて、
どういうタイミングで
何を発信して
みんなを導いてきたのかについて、
『そのとき社長は何を発信したのか』
を記事にしていきたいと思います。
お楽しみに
- posted by sinsin at : 12:39 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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