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2013年08月03日

『大転換期を生き抜く』1-7 ~生産活動を見直すことは市場を脱するきっかけになる~

■はじめに
皆さんこんにちは。本日は『大転換を生き抜く』シリーズ、7回目の記事です。
前回の記事で、私たちは「とてつもなく大きな騙し世界にいる」ということが明らかになってしまいました。が、その先に「皆が騙されない⇒事実認識」「自らの足元を見直す⇒日々の人間関係構築」という主旨の可能性が見えてきました。
そこで本日は、その内容を少しだけ深めてみようと思います。題して「生産活動を見直すこと=市場を脱するきっかけ」です。
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■生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想
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 まず、以下の引用文をご覧ください。
 
『自主管理への招待(3) 生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想』

しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している。あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している。要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。
 
他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。
 
この構造は、さらに近代を貫く、社会からの〈離脱と自足〉の意識潮流に根ざしている。むしろ、絶えず社会(生産)から離脱して個人(消費)へと逃避してゆく、個人主義の潮流こそ、否定と要求の根底に流れる近代精神の本流を成してきた。事実、人々は一貫して、「自己」が抑圧される〈労働〉を忌み嫌い、「自己」が解放される〈個人生活〉を希求し続けてきた。そして工業生産の目ざましい発展によって、労働時間が大幅に短縮され、人々の待ち望んでいた「豊かな」個人生活はすぐ手に届く所まで実現されてきた。しかし、近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは(それは又、「我、思う」だけで「我、在る」ことを願う近代個人主義の自我原理が目標とするものと同じであるが)、生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。ところが、一つの欠乏の充足が、活動を省略して効率的に実現されるや否や、直ちにその空白部は別の欠乏によって埋められる。かくして、工業の発展と共に、活動のない欠乏と充足だけの単純反復過程が増大し、それにつれて、生活のテンポが早くなり、生活の内容は貧しくなる。だから又、労働時間が短くなり、生活時間が長くなればなる程、逆に全存在過程にわたって本当の活動時間が無くなってゆく。実際、この社会では「豊かな」個人生活とは、その生活を手に入れるために先取りした家財のローン返済に追い立てられる生活のことであり、もみくちゃのレジャーラッシュに馳せ参じる生活のことであり、寸暇を惜しんでテレビにかじりつく生活のことなのである。
 
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こうして本来の活動の場を見失った現代人は、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける。そして、生活の回転が高速化してゆけばゆくほど疲労が増大し、ますます多くの余暇が必要になる。だが活動を喪い、刺激だけを単純反復させる過程の中にある限り、いずれ遊びさえ、疲労の元でしかなくなるだろう。それでも、「善良な」市民によるこの膨大な資源とエネルギーの浪費は、世論公認の個人主義の名において正当化され、むしろ美化され続けるのである。近代の意識の根を成してきた「個人」さえ宙に浮き、幻想と化したこのような事態を、誇張にすぎないと思う人は自分自身に問うてみれば良い。自分は、このような個人生活以外の、どのような生活を、認識を、自分自身を、獲得しえているかと。・・・(後略)・・・

(傍線:引用者による)
 
 実は、この文章、約40年前に書かれたものです。ずいぶん前のことなんですが、今現状をほぼ言い当てています。特に前半の「社会」に対する我々のスタンスは共感する(省みるべき)点が多い。くわえて、本質的かつ大変重要な指摘があります。それは、市場原理に乗っている全ての現代日本人に同根の問題です。どういうことかというと・・・。
 
 
■市場原理の“本能”・・・欠乏と充足の短絡化 その1
1)お金が可能にした欠乏と充足の短絡
 先の引用文は、生産と消費および近代思想を切り口に書かれています。が、本シリーズで取り上げてきた「市場」を切り口にしても同じことが言えます。象徴的な部分が、↓↓↓これ↓↓↓。

近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは、生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。

ちょっと難しい言い回しですが、よく噛み砕いてみてください。その上で「近代工業生産」という部分を「市場(原理)」と置き換えてみましょう(近代工業生産は市場拡大の原動力となった産業ですから、語句を置き換えたところで、オリジナルの意図を逸脱するものではありません)。すると、しっかり意味が通じるどころか、気付くことがあります。市場原理の本能ともいう内容です。どういうことかというと・・・。
  
 市場原理は、生産性の向上のために「効率」の向上を求めます。「最小限の労力で最大限を成果を上げる」ということです。この考え方自体は、否定すべきことではありません。むしろ、生産過程では望ましいことです。ところが、生産の場と消費の場が分断された市場原理の中でそれをやると「欠乏と充足の短絡」が起こります。たとえば、こんな感じ。
 
 昼休み、“お腹がすいた”という「欠乏」があったとします。それに対する「充足」は“食べる”ことです。そのためには、食物を入手する努力が必要なわけですが、今現在は、280円払えば、即座に牛丼が食べられます。お店に入れば10分以内に満腹。そうなると、昼休みの時間が余ってしまうので、本屋さんに行って新しく出た雑誌(=欠乏)を買う(→充足)。それでもまだ昼休みは半分しか経過していないので、ちょっとコーヒーを飲みたくなって(=欠乏)、ドトールに入ってアイスコーヒーを買う(→充足)。コーヒーを飲みながら買った雑誌をパラパラ見ていたら、新しいスマホが発売される事を知る。そして「いいなぁ、そろそろ買い換えたいな」と思う(=欠乏)。昼休みが残り10分くらいになったところで職場へ。その道中にソフトバンクの前を通ると「他社からの乗換えは、違約金立て替えます」などというのぼりを見る(→欠乏を充足する可能性が拡大)。その結果、新しいスマホが出たら、絶対に買い換えようと心に決める(→欠乏の強化)。
・・・という感じです。たった1時間の昼休みに「欠乏(欲望)と充足の短絡化」および「新たな欠乏の生起」が複数回起こっています。なぜそれが可能なのか?・・・答えは簡単。「お金」があるからです。
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2)「楽して稼ぐ⇒消費」という欠乏と充足の短絡が 無意識に第一目的化した市場社会
 お金は媒体。この限りにおいてお金は何色にも染まっていません。媒体なんですから「数量」と「単位」しか問題になりません。ところが、それが可能にすることを考えると、だんだんお金に色が着いてくる。どういうことかというと・・・
 
 たとえば、一般生活でも「最小限の労力で最大限を成果を上げる」という目標は成立するので、それを考えてみます。
 現在「労力」はお金です。そうなると、「最小限の労力で最大限を成果を上げる」という目標を達成するために、二つの選択肢が生まれます。一つは“自分で作る”、もう一つは“買う”です。便利な世の中、自分で作る労力は大きすぎますし自分で作れるものは限られている。そうすると、結果として“買う”ことを選択する場合が大半になります。
 
 すると、どうなるか。目的が「最小限の“費用”で最大の効果を上げる」に置き換わるわけです。その効果は変わりませんから、結果として“費用”だけが目的になります。
 すると、どうなるか。“費用”が目的である以上、その“費用”を稼ぐために「最小限の労力で最大の成果を上げる」ことになります。平たく言うと、「楽をしてお金を稼ぐ」ことが目標になるわけです。
 すると、どうなるか。“楽をして”は、すなわち「働かない」ことです。働かずにお金を稼いで、欲しいもの(=欠乏)を買う(=充足)。それが最良の事となります。これがすなわち「あらゆる存在過程から活動[=労働]を省略して、欠乏(欲望)と充足を[お金で]短絡化する」ことです( [ ]は補足の為に僕が入れました)。
 
 今現状、先進国に暮らしている人は、市場社会に属しています。すなわち、全ての人が生産者であり消費者。そして、消費者としての側面を有する以上、「あらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化する」過程からは、誰も逃れられないことになります。
 
■市場原理の“本能”・・・欠乏と充足の短絡化 その2
1)金融市場の取引
 ここまで、市場社会の「消費」を問題にしてきました。が、実は、個人消費なんて可愛いものです。新しいスマホを日本の若年層全員が買ったって、額は知れています。それもそのはず、たいていの場合、個人消費は、実体の取引を対象にしているから額はそんなに膨らみません。実体=モノの生産があって、初めて取引が成立するわけで、したがって、モノの生産量以上の取引は原理的に出来ないからです。
 これに対して、その箍(タガ)を外してしまった世界があります。金融市場です。特に、投資とか投機とか、いわゆるトレーダーが相手にする金融市場は「お金がお金を生み出す」といわれる世界。そこではどんなことが起こっているのか?・・・調べてみて「欠乏と充足の短絡」の究極の姿だと知りました。そのさわりだけご紹介しましょう。
 
2)1000分の1秒が勝負! 人間不要の取引が金融市場の最先端
1.1000%E7%A7%92.jpg 金融市場がやっていることは、取引です。しかし、そこで取引されているのは、実体を伴うモノではありません。“先物取引”や“証券化商品”のように、「権利(債権)」が決まったルールの中で取引されます。そこでは、交換レートや利率、相場の変動、損失のリスクを瞬時に判断(≒計算)して、最良の取引(安く買って高く売る)を我が物にしようとします。ライバルは世界中のトレーダー。全員血眼。寝る間を惜しんでやっています。で、モタモタしていたら、ホントに誰かが良い値段をさらってしまいます。
 
 誰よりも的確に、誰よりも多額を、誰よりも速く・・・延々とそれだけを追い求めます。なんだか、人のなせる業じゃない気がします。そうなんです。結局そうなるんです。ということで、現在の金融取引は、コンピュータによって取引されています(これをアルゴリズム取引といいます)。で、すごいのがその速さ。取引回数は、実に毎秒1000回に及びます。もはや、人間の判断やオペレーションが介在できる速さじゃない。ということで、最先端のアルゴリズム取引では、いかにして人間の介在をゼロに近づけるかが勝負になっているといいます。(※参考:グローバルマーケット観察記:第3回 アルゴリズム取引がやってくる )
 実体を伴わない権利という観念、その値段としての“数字”を“秒速1000回”でコンピュータがオートマティックに取引している。行き着く先は「人間不要」。・・・なんだかもう、どこに欠乏が生じて、どこに充足を感じていいのかわかりません。ちなみに、そのスピードに応じるように、金融市場での年間の取引額は桁違いです。円換算での単位は「京(ケイ)」を使うことになります。雑誌を読んで新しいスマホが欲しくなる個人的な“短絡”がとても可愛く思えてくるじゃありませんか。
 いずれにしても、この取引のありようは「あらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化する」究極の姿に他なりません。1000分の1秒で短絡しまくっているのですから、市場の本能ここに極まり、です。
 
■欠乏と充足をつなぐ「活動」とは何か?
 上記、金融取引の事例、すなわち“市場原理の本能”と呼べるものに何か空虚さを感じるとしたら、あなたの感覚は正しいかもしれません。数値としてのお金だけが目的になって、それに血眼になっていることに感じる空虚さは、そこに「大切なこと」が抜け落ちていることを見抜いている感覚だと思うからです。
 
 では、その「大切なこと」とは何か?・・・それは「生産活動」です。私事で大変恐縮ですが、「生産者と消費者」の違いを身近な事例でお話しましょう。
 
 僕は、幼少の時分、親父から「昔は、自分のおもちゃは自分で作ってたぞ」とよく説教されました。その実、親父はすごく手先が器用で、小刀一本で駒や竹とんぼなどをサラッと作ってしまいます。山に行けば、工夫次第で何でも遊びに変えられる。そんなことも教えてくれました。
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 一方、高層団地に住み、都会っ子だった僕は、山に行くのも夏休みくらい。ほとんど自然と接することなく大人になりました。周りには市販のおもちゃがあり、公園に行けばブランコや滑り台などの遊具がすえられています。小学生の中学年からはファミコンブームが起こりました。・・・結果として、僕は親父のように器用に小刀は使えません。自分の子供にも、親父のように山遊びを教えられない・・・。なんとも創造力のないつまらぬ大人になってしまったものだ、と今さら後悔している次第です。なんだか、寂しい幼少期をカミングアウトしてしまった感じがしますが、言いたかったのは、親父と僕の違いです。これが「生産者」と「消費者」の違い、その結果なのです。
 
 “おもちゃが欲しい”という欠乏を、自分の活動=「生産活動」を通じて充足させてきた親父は「生産者」としての幼少期を過ごしたわけです。一方、僕は、“おもちゃが欲しい”という欠乏を「買う」もしくは「用意されたもの」でしか充足させてこなかった。生産活動を省略して、欠乏と充足の短絡に拠る「消費者」として幼少期を過ごしてきたわけです。
 こうして出来上がった二人の大人は、どちらが豊かな感性や直感≒生きる力を備えているでしょうか。もはや述べるまでもないでしょう。「大切なこと」=「生産活動」を省略することに空虚さを覚えた直感は正しかったということです。
 
■まとめ・・・私たちは生産過程を見直す時期に来ている
 かねてから、金融市場が崩壊するという噂が絶えません。最近では、崩壊の震源は中国じゃないか、なんて話もあります。いずれにしても、そうなったら、お金という価値は消えてなくなる。そうなれば、きっと大きな混乱が生じます。
 中には「それを見越して、ゴールドに資産を置き換えている」なんて人がいそうです。%E7%9F%AD%E7%B5%A1%E5%8C%96%E3%83%BC%E9%87%91.jpg
が、そういう人は、市場原理による短絡思考にはまっているとしかいえません。なぜなら、自分だけが、資産を保有しているという意味においてだけ、助かっている。それに何の意味があるのかに気付いていないからです。米(コメ)の生産と流通がストップしたら、金の延べ棒をどれだけ積み上げても、米は買えません。非常時を想定して資産を退避させているのに、平時の市場取引に思考が拘束されているわけです。
 
 金融市場崩壊なんていう物騒な事例でお話したので、ちょっと飛躍した感じがしましたかもしれませんね。言いたいのは、最終的に重要なのは「人」であり、「生産活動」だということです。そのために、何もなくなったときの事を引き合いに出しました。
 私たちは、欲しいものはお金を払えばたいてい買えます。そのため、欠乏と充足を短絡させるサイクルに嵌って、欠乏を充たす為の「お金」がことさら重要視されています。結果として、「生産活動」や「生産者=人」という最も大切なところに目が向かない。蔑ろにしている。世にいうクレーマーは、まさにこのパターンに嵌っていると言えるでしょう。
 自分には、大した生産力はない。他者の生産してくれたものがないと、自分は生きられない。これが現実であり事実です。このことをもっと真摯に捉え、自分の生活を支えてくれている生産活動や生産者に感謝すべきです。
 そのうえで、自身が生産者として所属する「場」を充足と活力にあふれた組織に変えていく
 そのやり方が「企業の共同体化」です。誰もが生産活動の当事者として謙虚にあらねば、真の意味での企業の共同体化は実現しません。したがって、企業の共同体化の輪が広がっていけば、私たちが忘れている「大切なこと」が思い出されるに違いない。市場を脱するきっかけは、こんなところにあるのかもしれない。最近、そう思います。
ながながと失礼いたしました。

 

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