2013年08月25日
『大転換期を生き抜く』1-9 ~自我経済から共認経済へ~
みなさん、こんにちは。
ところで皆さん。突然ですが、借金をする時はどういった時にしますか?
多くの方は、「目的のものが欲しいけど、お金がないとき」だと思います。当たり前のことですが、「足りないから、借りる」というのが借金ですよね?それが普通の感覚です。
では・・・。国の財政状況はどうでしょうか?
シリーズ初期に、国家の財政状況を紹介しましたが、その時の分析を振り返ると、’70年以降「豊かさ」を実現した頃より、急激に国債の発行額が増えていってましたよね。
「豊かになったのに、借金をし続ける日本」これ、冷静に考えればちょっと異常な状況だといえます。
本来は、国の財源が不足している分を市場から借金をして補填する目的で発行されている国債が、今や過去の借金を借金で返す、自転車操業状態に陥っています。
しかも、その額は年々増え続けています。
なんで、このような悪循環に陥っているのでしょう?
その原因は、経済的あるいは政策的な要因がありますが、もっと根本的な疑問から現在の経済の問題にメスを入れ、次代の経済の在り方の可能性を探ってみたいと思います。
1.金貸し(銀行)による強引な市場拡大~金利とは何か?~
冒頭紹介した、国家の借金=国債の増額。経済は対外的には成長(拡大)を続けているといわれてますが、国家の借金は増える一方。その根本的な原因の一つが『金利(利子)』です。
私達は普段、銀行や郵便局にお金を預けると金利(利息)が発生するのは当然だと考えています。しかし、預けたお金が勝手に増えていくことに違和感を覚えたことのある方も少なくないと思います。預けた者にとって、何の生産活動もなしの資産が増える仕組みとして存在する金利とは、いったいどんなものなのでしょうか?金利(利子)の本質について端的にまとめてくれている記事がありますので紹介します。
◆利子とは“市場の強制拡大装置”
「お金を借りたら利子が発生する」これは今では当たり前のことである。しかしその影響力は大きく、借金返済が出来ずに倒産してしまう企業のほぼ100%は利子があるから借金が返せなくなり倒産へと追い込まれているのだ。
この、実体無く(何の生産活動をすることもなく)発生する“利子”とは何なのか。
その本質を、市場という軸の元に考えてみたい。
●“無”利子の場合
借りた金額をそのまま返せばよいので、借りた側が“主体的”に拡大へと向かわない限り市場も拡大しない(=その市場内で完結することが出来る)。
●“有”利子の場合
借りた金額+利子分を返さなければならないので、借りた側はより多く稼がなければならない。さらに、今ある市場内では利子分だけお金が足りないので市場の外から稼いで(奪って)こなければならない。その結果、市場はどんどんと拡大していくことになる。
※言い換えると市場が拡大しないということは、利子を含めた借金を返せないということと同義であり、現代市場に置き換えると大規模な連鎖的企業倒産=市場経済の破綻を意味する。
このように利子の本質とは“市場の強制拡大装置”であると言える。
いかがでしょうか?金利(利子)とは市場を拡大させる為のシステムであり、さらに、その金利(利子)は市場が拡大していくことを前提にして成立していることがわかります。で、あるが故に、この金利というシステムの中に我々が生きる限り、ムリヤリにでも今ある以上の市場価値、利益を求めなければならないことが実感と共にわかるかと思います。そして、市場拡大絶対というイデオロギーの元で、この「金利」というシステムにのっとって市場を牽引してきた急先鋒がご存知の通り「銀行」=金貸しです。
そして、現在では国家も我々もこの金貸しをはじめとした投資家達の思惑の中で、日々お金に使われ、こま鼠のように生産と消費を行き来する生き方を余儀なくされています。
このような、毎日の生活に多くの大衆は正直「疲れている」のが現状ではないでしょうか?おそらく、社会は次代の新たな経済の在り方を潜在的に期待しているのではないでしょうか?
「お金に生かされている」現状を突破し、次代の期待に応えていくにも、まずこの現状の経済のあり方をもう一度問い直す必要があります。
そんな、現代の経済の在り方、お金のあり方の問題に銀行と同じ金融機関という立場に居ながら、正面からこの問題に一石を投じている記事がありましたので、紹介します。
2.新しい経済の在り方~お金を生かす~
皆さんは「信用金庫」という金融機関を知っていますよね。「信用金庫は銀行と同じだ」と考えていませんか?実は違うのです。信用金庫は、銀行ではありません。3.11原発事故の直後、金融機関としては異例の「脱原発」を訴えた『城南信用金庫』 吉原理事長の考え方を、ご自身の講演の内容からご紹介します。
◆金融機関が地域社会と日本の将来を考える・・・それが奇麗事ではなく現実になる時代
~(前略)~
信用金庫と銀行はどこが違うのでしょうか。私は第三代理事長の小原鐵五郎より「銀行に成り下がるな」と指導を受けました。私が利益を目標にした企画書をもっていくと「そういうのはウチがやるべきじゃない。地域を幸せにするための公共的な使命を持つ金融機関なのに、いつから銀行に成り下がったんだ。あれは利益を目的としたものですよ」と厳しく怒られ、それを肝に銘じています。
~(中略)~
残念ながら、信用金庫は何のためにあるのか忘れてしまうことがあります。お金というものは常に人間の意識を変えてしまうものです。信用金庫がだんだんと銀行と同じになるのは、やはりお金の持つ恐ろしい力だということに私は気がついたのです。銀行の人には申し訳ないですが。小原は「お金は麻薬だ。人の心を狂わせて暴走させることがある。お金は人を孤独にすることがある。だから融資するとき、本当にこの融資をした方がいいのか、あまり持ちつけないお金を貸し付けたらかえってその方のためにならない。そういうことも考えなければいけない」と言いました。お金というのは、自分を意識した時、頭の中に生まれる一つの幻想だと経済学では言われています。
~(中略)~
人間というのはお金を意識すると自分のことばかり考えるようになる。お金は非常に危険性、麻薬性があるからです。正常な神経に戻して、自分のことばかり考えるのではなく正しいお金の使い方をしなければいけない。これを「お金を生かす」といいます。自分の才覚でお金を儲けることはいい。ただそれをどう生かして使うか。これが難しいのです。
~(中略)~
金融機関としてはやらないことですが、私どもは「原発に頼らない安心できる社会を」ということを大きなテーマにしました。銀行主体のビジネス界では絶対にありえない。信用金庫だからこそやらなければいけないのです。なぜか。~(中略)~ 私はあの日までは原発というのはクリーンなエネルギーだと思っていました。反対派の人たちが核兵器開発反対のために反原発をやっているのかなと思っており、そんなことよりクリーンだし燃費も良いし、いいじゃないかと。しかし東京電力、経産省の方々の言い訳を見て、私どもはお客様に向かってこんな無責任な言い方はしないとつくづく思いました。私たちの会社で同じようなことをすれば信頼は失墜です。それだけではありません。人間は誰しも間違うことがあります。けれどもその後まったくマスコミが批判しない。それどころか朝日新聞や毎日新聞など左派系といわれる新聞でさえも、原発を止めるわけにはいかないというキャンペーンをしたのです。おかしいと思い調べてみたら、驚くほど大量のお金が流れており、マスコミから学者、地方自治体、住民に至るまでみんなお金で騙されていた。みんなが目先のお金に目が行き、日本の将来、日本の子供たちはこれからどうなるのだと、先祖に対して申し訳なく思いました。それが今の日本の現状だと思います。~(中略)~お金というものはいかに人間を狂わせ暴走させるか、金融機関として、まさに地域の信用金庫として何か言わなければ、阻止しなければいけないと思いました。そうしないと、お客様も大切な子供たちもどうなるかわかりません。
~(後略)・・・月刊『中小企業家』2013年7月号 P.8~P11より抜粋して引用しました~
たしかに吉原理事長の仰るなかで「脱原発」に関する部分は注目度が高いでしょう。しかし、それは表層の一面に過ぎません。底流にあるのは、お金の麻薬性であり、自我の暴走装置としての性質に対する危惧です。前々回の記事で申し上げた“欠乏と充足の短絡”が行き着く先を見抜いていらっしゃる。その上で「お金を生かす」という主張は、正論であると言えるでしょう。
そして、この銀行と信用金庫の違い、そしてお金そのものの本質をついた「お金の使い方」という視点から重要な気付きを得ることができます。
地域社会や地域の中小企業のために「お金を生かす」。利益最優先ではない、金融機関の存在価値は何か?お金の使い方は何か?
金利(利子)による「自身の儲け」を目的としたお金の使い方。城南信用金庫のように「地域、日本の将来の為」に使うお金。両者は同じお金を使うにしても、その中身の性質が全く異なります。すなわち、自我の充足発か、共認(みんな)の充足発かが根本的に違うのです。
それが「日本の将来、日本の子供たちのことを考える」という言葉に表れているのではないでしょうか。金融機関のこれから、その可能性を示す事例だと思います。
皆さんはどちらの使い方に、これからの時代に期待感をもてますか?
時代が私権→共認と移り変わり、活力源も私権獲得から共認充足へと転換した現在に、金利という「働かずに得るお金(不労所得)」=目先の欠乏を追求した結果、人々は評価されるべき生産活動が評価されず、活力源をどこに求めて良いのか分からない社会(=評価不全)となりました。
私利私欲に根ざした経済活動=自我経済では、もはや先はないことは明らかです。我々は、上記の記事でも紹介されたように、この先の新しい可能性=共認時代に適した経済のあり方に向けて大きく舵を切ることが求められているのだと思います。
そして、その実現基盤は、過去から現代にまで現実に存在しています。次章では、その可能性の基盤を見て取れる事例を紹介していきたいと思います。
3.新しい経済の在り方の基盤
新しい経済の実現の可能性を示すにあたり、いくつかある事例から今回は、過去と現代それぞれから一つづつ事例を紹介したいと思います。
◆村落共同体-相互扶助の精神-
自身の為にお金を使うというのではなく、皆の為にお金を使う。こんな話は奇麗事だと感じる方は少なくないと思います。しかし、過去の日本社会では、それが奇麗事でもなんでもなく、至極当然のように行われてきた歴史事実があります。ここでは、そんな事例を紹介したいと思います。
現在、道路・上下水道の整備等は、公共事業と呼ばれる。
公共事業の多くは、それ自体では採算が合わないことがほとんどであるため、民間企業のビジネスとしては成立しづらい。しかし、なくてはならない。したがって、これらの事業は行政=国家が行うことになる。社会通念上も「そのために税金を払っている」などと認識されているだろう。
ところが、過去の日本には、公共事業の一部を地域住民らがお金を出し合って、自ら担っていた時代があったそうだ。しかも、それはごく最近、昭和初期の話である。その役割を担っていたのは「町内会」だそうだ。
町内会が行っていたのは具体的に、
・衛生に関する事務(下水溝渠の浚渫,便所の掃除,糞尿の処理,塵芥の処理,蚊蝿の駆除,伝染病予防注射実施,衛生講演会と衛生映画会の開催)
・交通補助事務(街灯設備の照明,街路撒水,居住者の地番案内掲示板設置)
・学校教育に関する事務(学里の通学奨励,優秀児童に賞品授与,講演会開催,町内児童遊園地管理)
・その他(無料代筆,医師産婆等との特約,駐在所の維持)
などがあるそうだ。
この事実を知った上で田中さんの投稿『「使い道」を変えることがお金を変える?』を読むと、 お金の存在性格が「自分のために使う」⇒「自分のために稼ぐ」となったのは、むしろ最近(戦後以降)のことではないか?と思えてきた。皆が必要とするもの=期待するものには皆がすすんでお金を使うという相互扶助的意識、いわば「本源的なお金の使い方」がつい最近まで存在していたのである。
(後略)
いかがですか?お金の使い道が自分の為だけではなく、皆の期待に応える形で使われていた時代は、近代(少なくとも70年前)まで間違いなく存在したのです。この、相互扶助の精神は近代だけでなく、古くは江戸時代にまで遡ることができ、「連」や「講」といった、各々の村落共同体の中で組織され育まれてきた歴史があります。それが、我々日本人の底流には流れているのです。この日本人気質というべき相互扶助の精神が、たかだかグローバル経済を推し進めてきた近代100年程度で失われるでしょうか?
そんなことはありませんよね。それが証拠に、社会が大きく変化している今でも、形を変えてその気質が息づいている現象事実が見て取れます。
次は、現代に見て取れる、新しい経済の萌芽の事例を紹介します。
◆クラウド・ファンドに見る、新しい経済の可能性
今注目すべき新たな可能性の一つに、クラウド・ファンディングと呼ばれるものがあります。これは日本語では『大衆からの資金調達』という意味で、“自分の実現したいモノやコト”と“それにかける思い”をネット上でプレゼンし、賛同者から支援を受けられるという仕組みです。
これが他の投資(株式)などと違う一番の点は、「投資者が自身の利益追求を第一義としていないこと」でしょう。彼らが一番求めているのは、プロジェクトを通した「協働性、それに伴う充足」なのです。
ある成功(出資が希望額に到達した)事例では、出資者の投資目的の8割が「応援したいから」で、利益や特典を期待したというのは2割に留まっています。また、成功している事例の多くは募集者の強い想いが感じ取れるものであることはもちろん、出資者自身が募集者と共に一緒に作り上げていることを体感できるものです。逆に言えば、生活が便利になったり、出資者自身に直結して得するような事例はあまり評価されていない傾向にあります。
例えば、「日本の知恵と技術を世界に発信する「宝の地図」(口伝でつくる伝統産業事典)をつくりたい!」という事業は成功し、「日本独自の、世界に通用するサービスを作りだす」というコンセプトの「GPSエンターテインメントで、リアルとネットがリンクした観光体験を作る!」という事業は失敗しています。
クラウドファンディングは資金提供者に対するリターン(見返り)の形態によって大別されます。金銭的リターンのない「寄付型」、金銭リターンが伴う「投資型」、プロジェクトが提供する何らかの権利や物品を購入することで支援を行う「購入型」があります。日本では法規制によって個人間の送金や投資が制限されていることから、購入型のクラウドファンディングが普及しています。
この事業から感じられた可能性とは何か。それは人々(投資者)は利便性やサービスに魅力を感じるよりも、日本の歴史を伝承したいという強い思いや協働性、充足体験、にお金を使い始めているということです。また募集者の発案が自分発であるか、それともみんなのためになることをしたいというみんな発の想いなのか。そこを投資者は良く見ているのではないでしょうか。
つまり、人々のお金の使い方が「じぶん」から「みんな」に転換してきてるのだと言えます。そして投資の対価として利子(お金)をもらうのではなく、時間をかけて、体験や想いのこもった商品をもらう。(効率性だけで言えば、amazonで商品を買う方がよっぽど早くて便利ですから。)
この転換こそが、次代の経済を変えることのできる可能性なのです。
4.まとめ~経済は変われる!『将来を考える日本へ』~
◆自我経済学から共認経済学へ
どれだけ国債を発行して税金をつぎ込んでも、経済が好転しないことが示すように、従来の経済原理はもはや無効になった。
従来の経済学の基礎は、人は(無限に)物や金をほしがる、という原理に基づいてつくられている。この原理は、すべての人にとって私利私欲の追求が最大の価値であるという、さらに深い原理から導き出されている。
これまでの経済学は、私利私欲の追求を第一とする自我を人間の行動基準の原点において経済理論を組み立てているという意味で、自我経済学と呼べる。
税金をばらまけば消費が活性化し経済が活性化するという予測も、お金を水増しすればインフレが起こるという予測も、人々が私利私欲を追求し物や金をほしがるという前提があって初めて成立する。
しかし、豊かさが実現した現代日本は、もはや自我経済学の原理は成立しない。若い人たちを中心に、特に欲しい物はない、お金のためだけに働く気にはならない、特に出世したいと思わない、という人が既に多数派になっている。
人々が私利私欲の追求を第一とし、(無限に)物や金をほしがるという自我経済学の原理は崩壊した。
人々は自我の充足から、共認の充足(課題・役割・規範・評価を共に認め合う充足)に意識を転換している。従って、共認充足を人間の行動基準において経済理論を組み立てる、共認経済学が必要となる。
(中略)
共認充足の時代においては、経済活動そのものが二義的な位置づけとなり、経済学の重要性は低下すると思われるが、過渡期の現在においては、自我経済学の原理に凝り固まってしまっている、人々の意識を解放するために、共認経済学の原理を明確にしていくことが重要であると思われる。
(前略)
現代人は確かに「死」を恐れていると思います。
古くは時の権力者達が死んで権力を手放すことを恐れ不老長寿の薬を追い求めたり、現代であれば庶民も老後の不安を抱えていたり・・・と。
そもそも人間とは元々死を恐れ、嫌うのは当たり前なのか。
古代の精霊信仰の民族は本当に死を恐れていなかったのでしょうか。
精霊信仰の民と言えども、火は恐れ、外敵からは逃げ身を守る。一見死を恐れているように見えます。
私はこれは危機逃避という本能次元の行動であり、「死を恐れる」という事とは違うのではないかと思います。
その一方で現代人の「死ぬことの恐怖」とは、死ぬ時の苦しさとか痛さを嫌うということよりも、「死んだらお終い」「死んだら何もなくなる」ことへの恐れではないかと思います。
とすると、生前と死後とを分けて考える観念、「死生観」の違いではないかと思います。
(中略)
対して精霊信仰の民の死生観とは、両者一体、さらには現世の万物の精霊も、全て人間と対等に並び立ってお互いが支えあって成立していると考えられています。
(中略)
こう考えると確かに精霊信仰の民は死への恐れなどなく、私権時代以降万物と人間とは別々のもの、さらには「個人」という概念が出来、徹底的に世界との一体感を解体するような観念によって死への恐怖が生じたのではないでしょうか。
自我経済から共認経済へ。自分からみんなへ。
近年、人々の意識は安全・健康からさらに一歩先に進み、ついに脱医療へと向かい始めています。
これは、自我・私権への執着が完全に瓦解し、自分の為だけに生きる事の虚しさに大多数の人が気づき始めたとみることもできます。
もはやここまで来れば、金貸しが政府・マスコミを活用していくら快美欠乏を刺激しようとも、思惑通りには動かなくなっていくであろうと思われます。
今現在、国債価格が暴落されずに維持されているのは、人々の経済破局に対する不安や危機意識が勝っているからとも言えるでしょう。破綻したら困る、という個別の思惑だけが、無駄な借金の上積みを許容させているに過ぎません。
しかし根底部分から死生観そのものも転換、というか本源回帰が進めば、どうなるでしょうか?
恐らく、経済破局への期待感がいずれ上回るのではないかと考えられます。
お金に振り回される人生、お金で人間関係が壊れるような日常、私権を巡っての精神的疲労から離脱できると知れば、誰もが喜んで社会の転換を受け入れるように思います。これこそが、壮大なだましの世界から抜け出す瞬間とも言えるでしょう。
そんな時に備えて、すでに一部では顕在化しつつある、共認経済への転換。
自分が生きる限られた時間の中でどれだけお金を稼ぐか、お金を使うかという自我主体の経済から、
将来のため、子や孫そしてその先の代、みんなの為に、お金を使う。人を、自然を育てる為の投資。時間をかけて、じっくりと時を繋げ皆が生きる場を育んでいく経済。
今回、新しい経済の可能性の事例を少ないながらも紹介してきましたが、新しい社会システムへの転換は、もう始まっていることを強く予感させてくれています。
経済は私達の意識次第で変えていける!その実現の基盤は、この大転換期の時代に整いつつあるのです。
参考サイト一覧
・http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=194433
・http://greenz.jp/2013/07/27/design_for_social_innovation/
・http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2012/12/001451.html
・http://livedoor.blogimg.jp/crx7601/imgs/c/9/c947659e.jpg
・http://blog.new-agriculture.com/blog/2011/08/001253.html
・http://skushi.net/1844.html
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- posted by tyani at : 3:24 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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