2013年09月01日
「大転換期を生き抜く」1-10 市場縮小という現実にどう対応するか?~消費者から生産者への意識転換~
1.はじめに~「市場拡大には無理がある」という大衆意識~
「市場は本当に拡大し続けるのか?それは可能なのか?」。
市場関係者は、おそらく危機感を抱いているし、大衆意識としてそのような疑問が湧きあがりつつあると思います。
例えば、グローバリズム。
多くの企業がグローバリズムと叫びながら海外の新規市場に突破口を求めています。が、それで日本全体が潤うような展望は見出せません。政府はグローバル化を後押しするため、TPPで障壁撤廃を目指していますが、その一方で、国内的にはTPPによって蔑ろにされる国益にむしろ注目が集まっています。
「なんのためにやるのか」が明示されず、無理矢理感だけがただよう議論に、多くの人が違和感を覚えているのではないでしょうか。
また、海外に目を向ければ、無理矢理感たっぷりで経済発展している国がお隣にあります。中国です。
中国は、今や日本を抜きGDPでは世界2位の経済大国になりました。当然国家としては豊かになったように思えます。
ところが、問題も満載。主要都市での大気汚染は未だに解消されておらず、その原因となる微小粒子状物質「PM2.5」の影響と見られる死者は9900人に上っているというニュースも見かけます。水質汚染や食品汚染など中国の環境問題は留まることを知りません。貧富の格差は拡大。富裕層のうち3万人もがカナダに移住したという話もあります。
「そこまでして経済発展したいのか・・・」。言葉にはしませんが、多くの日本人が中国に対して感じていることだと思います。
(写真:リンク)
前置きが長くなってしまいましたが、言いたいのは「市場拡大には無理がある」という実感を多くの日本人が持ちつつある、ということです。「貧乏になりたい」とは思わない。その意味で市場縮小は望むところではない。でも、どこまでも拡大し続けるのは無理がある。そういう実感です。さらに潜在的な意識を推し量ると「市場は縮小している」ということに多分、気付いている。
今回は、このような意識を前提にして縮小していく市場社会にいかに適応していけばいいのか?今後の日本はどのような発展をするのだろうか?ということを深めていきたいと思います。
2.縮小化への意識転換を阻むもの
ほとんどの人が市場縮小の事実を大なり小なり感じているとしても、なかなか“縮小化へ向けた行動”には向かってはいないのが実態のように思います。
確かに企業の経営者からすれば、これ以上の成長や拡大を求めていなくても、あるいは無理だと思っていても、今いる社員たちを養わなければならないし、銀行からの利子の返済、株主への配当などを行うためには、成長を続けるしかないという現状があります。
それをやめれば、会社が潰れてしまうというような状態なのです。
実際、米コンピューター大手のDellは上場をやめ株式を非公開化しようと画策しています。株主からのしがらみを脱し、長期的な視点で自分たちが生き残る道を模索しています。
その他にも次のような理由が考えられます。
①市場原理への執着
現在の特権階級ほど、市場社会の中で地位を築いており、市場原理の維持に執着している。そうでない人も、市場社会=拡大を前提とした社会しか知らないため、縮小社会への対応方法が分からない。(近代思想に発想が絡め取られており転換できない)
②脱市場の難しさ
縮小社会に適応しようとする事業はいくつか現れてきているものの、その多くは政府などの資金援助に支えられている状態で、自立し持続するレベルに達していない。それはつまり、市場社会で勝ち残れずに淘汰されるということである。これは大衆の意識がまだまだ市場へ向いているためである。
③生活水準の縮小が後退と結び付けられる
縮小社会に対する行動=生活を劣化させなければならないと捉えてしまい、適応していかなければならないと頭では分かっていても生活のレベルを下げられない。(これは、どこかで自分の生活水準を下げなくとも、技術の発展によって、あらゆる問題は解決されるかもしれないという技術への過度の期待も含まれている。)
これらから分かるのは、多くの人々がいまだ拡大型の市場社会から意識を脱することができないという事実です。
次の文章が分かりやすいでしょう。
よく人々は「一度生活レベルを上げると、下げることができない」という言葉を口にする。
その言葉は実感の裏付けがあって言われているのか。
私は違うと思う。
一度も「生活レベルを下げる」という経験をしたことのない人間がそういうことを断言できるのは、「みんながそう言っている」からというだけのことである。
「一度生活レベルを上げると、下げることができない」というのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けてきた「妄想」である。
そう、つまり、縮小化の行動に繋がらないのは、縮小化することは難しいと無意識に思っているからです。しかし実は、このことは消費者としての私たちが、資本主義社会に暮らすうちに無意識に刷り込まれてきた“大きな騙し”なのです。
3.縮小化へ向けた活動
私たちが今、近代思想の大きな騙しの世界の中にいるとするならば、改めて、現在の市場縮小とはどういう構造なのかを知る必要があります。
■根源回帰の潮流
私権圧力の衰弱は、市場活力を衰弱させると同時に、他方で、新たな活力を再生してゆく。それが、根源回帰による活力の再生である。
私権の強制圧力が衰弱すれば、これまでその強制圧力によって歪められ、あるいは抑圧されてきた人類本来の活力源に回帰してゆくのは当然の理(ことわり)である。
まず最初に生起したのは、本能回帰の潮流である。それは、’70年代以降のヒッピーや環境運動を含む自然志向に始まり、’90年代の健康志向、’02年以降の節約志向(「もったいない」)と、どんどん広がってきたが、ついに’11年、原発災害を契機として、「食抑」意識が生起した。
食抑意識とは、「万病の元は食べ過ぎに有り。一日2食で充分。(理想は1食)」という認識で、広範に広がる気配を見せている。
これらの潮流は、一見本能の抑止とも見えるが、そうではない。それは、過剰刺激に対する本能の拒否反応であり、健全な本能回帰の潮流である。この本能回帰の潮流が、市場を縮小させた主役であることは言うまでもない。
70年代以降、豊かさが実現、私権圧力の衰弱を契機として、現代社会の過剰な刺激(メディアによる過度の消費扇動)に対し、人間の本能の部分で徐々に拒否反応を示しだしています。
そして、健康志向、節約志向など、消費活動を伴わず、生活を豊かにしていきたいという意識転換が始まりました。
これが市場を縮小させた根本原因だということです。
「人口が減少するから市場は縮小する」と表層的に捉えている限り、グローバリズムといった目先の解決策に飛びついてしまいかねません。
しかし、豊かさの実現→私権圧力の衰弱→市場の拡大停止・根源回帰という社会の構造を認識して初めて、現代社会の突破口を考える土台に立てるのです。
■社会事業の時代
縮小化する社会への新たな事業として注目すべきが、社会事業です。
社会事業とは何か?
広くは社会的課題をビジネスとして事業性を確保しながら自ら解決しようとする活動です。
ひとくちに社会的課題といっても様々あります。
地域活性化(まちおこし、村おこし)、少子高齢化(子育て、教育、介護)、環境問題などなど。
近年ではこれら社会的課題の解決をコンセプトに掲げる事業として、 「社会的企業(起業)」「ソーシャルビジネス」「コミュニティビジネス」などのキーワードで注目を集めています。
例えば、「赤ちゃん先生」というのを聞いたことがありますか?
これは、赤ちゃんが先生となって、母親とともに小学生や高齢者と触れ合い、いのちの尊さ・大事にしていきたいという”思いを育む”授業を行う、という事業です。
(リンク)
小学生らにとって、教科書などで学ぶよりもよっぽど“生きている”ということについて実感できる、生きた授業となっているそうです。また母親は子育てをしながら仕事をできるだけでなく、社会貢献やネットワーク作りに繋がり、自らの学びの場ともなっています。
こういったの事業の多くは決してお金を稼げるような事業ではありません。それでも働く人はお金ではないやりがいと必要性を感じて事業を行っているのです。
これは社会を支える企業・組織のあり方が「消費を増やすために、お金を稼ぐ」ことから、「人の役に立つ・社会の役に立つ」ことに向かっているのだと見ることができます。
お金を稼ぐことを第一義として、家族・人間関係や自然環境を壊してきた時代からの大きな転換だと考えると非常に面白いですよね。
■お金の使い道の変化
一方、企業から個人に視点を変えてみても、注目すべき変化が見られます。当ブログ記事でも述べてきた、お金の使い方の変化です。
お金を使う判断軸が“買えるか買えないか”から“みんなにとって必要か否か”へ転換していることや(リンク)、クラウドファンディングといった新たな投資のあり方にあるような、「じぶんのため」から「みんなのため」にお金を使うという意識転換。(リンク)
この転換が、身近な友人・家族から、子や子孫へと向かい、ひいては将来のため、自然のためと繋がっていくことで、経済や市場のあり方が変わる可能性を秘めています。
これによって事業を評価する際も、「いかに成長・拡大しているか」を指標とする市場原理の視点から、<strong>「いかに持続し、社会に貢献しているか」を指標としたみんなのためになっているか?の視点が必要になってくるでしょう。
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このように社会の意識が変化し、徐々にそれとマッチした企業や個人の行動の変化が顕在化しています。
根源回帰。言葉にすると難しいですが、素直に“良い”と思うことに意識を向けていけばいいのだと思います。
例えば、外食から自炊へ。外食を続けると身体に悪いし、お金もなくなってしまいます。それを自分で食材を選び、つくり、家で食事をとる。そうすると外食産業は縮小せざるを得なくなるでしょう。
他にも、病気にならずに健康でいたい。誰もがそう思っているはずです。薬やサプリメントに頼らずに、お金を使わずに運動や健康を維持する方法を考える。そうなれば製薬会社などの市場は縮小していきます。
こう言うと、「その業界の会社は潰れてしまうじゃないか!」と反感を覚えるかも知れません。しかし、それらの企業は、人々の根源回帰という潜在思念を掴み、それをサポートするような事業に転換していく必要があるのです。
この転換をすることができれば業態革命を起こすこともできるのではないでしょうか。
4.消費者から生産者へ、この転換が市場縮小への答え
ここまでの時代の変化を正確に捉えると、社会事業が社会全体で注目を浴びている理由が見えてきます。次の文章を見てください。
社会事業が注目されるようになった背景には、大きな二つの潮流があるように思います。
ひとつは社会閉塞から来る危機感。いよいよ社会全般の行き詰まりが明らかになり、もう他人任せではなく「自分たちでなんとかしなければならない」という意識が急速に大きく、かつ鮮明に顕在化しているのを感じます。
3.11大震災と原発災害、増税・TPP・アベノミクスetc この国の統合階級(政治家、官僚、学者、マスコミ、財界etc)の無能ぶりと、なりふりかまわぬ暴走があらわになり、この意識潮流はますます加速しています。
自分たちでやるしかないと腹をくくる時に来たという感じでしょうか。
もうひとつは、人々の活力源の転換。潜在思念の奥深いところで、私権(地位、お金)から共認充足(周りの期待に応える充足)へと転換しています。そして「人の役に立つ、社会の役に立つことそのものを自らの仕事にしたい」という本源的な意識が強くなっています。
このふたつの潮流が合流する先に、社会事業という可能性の萌芽が現れているのだろうと思います。
こうした潮流が指し示す社会の姿は、「自分たちでつくってゆく社会」「万人が社会統合課題を仕事として担う社会」となってゆくでしょう。
メディアや政府の言うことを鵜呑みにせず、自分たちでなんとかするしかない。地位やお金を得るよりも、人や社会の役に立つことがしたい。そういった意識に、今社会は急速に変化しつつあります。だからこそ社会事業というあり方が注目を浴びている、そう捉えています。
この認識は、市場縮小にどう対応する?という答えの糸口を提示してくれたように思います。
それは、「消費者から生産者へ」。
今の社会は、周りから与えられたもので生活をし、それに不満があれば文句を言うだけで自分は何もしない、というぶら下がり体質が染み付いています。
しかし、この社会の行き詰まりの中で、もはや「自分たちでなんとかしなければならない」という自給期待も生起しつつあります。
それに重ねて、「みんなの役に立ちたい」という意識が強くなっているのなら、「素直にみんなが”良い”と思うこと」を軸にして一つ一つの行動を見直していく。
前項であげたのは身近な例ですが、もっと極端に言えば、日々の食べるものは農業で確保し、お金はみんなの役に立つ仕事をすることで獲得する。これこそが自分たちでこの社会の中で生き抜いていくことだと言えます。
そのためには自身が社会の当事者となって、自分で考え、答えを出し、行動していかねばなりません。
とはいっても、一人で(一企業で)すべてを成すことはできないでしょう。
そこで次に必要なことは、みんなの力を借りること。つまり同じ想いで行動している人たちのネットワークです。
この相互扶助によって生き抜くために必要なものを確保し、お互いの期待に応えながらお互いの生活を豊かにしていくことができれば理想的ですよね。
自分で生産し、みんなで補い合うことで生活を豊かにする、これは物質的な豊かさだけではなく心の豊かさにも通ずるものでしょう。
消費者から生産者へ。この転換ができれば、「市場を縮小する」ことを目的とせずとも、「自ずと市場は縮小する」のではないでしょうか。
5.まとめ
ここまで述べたことを端的にまとめます。
・多くの人が市場拡大には無理があると思いつつもまだ市場縮小へと行動を転換できない。
・これは資本主義市場が消費者としての大衆に無意識に刷り込んできた幻想=“だまし”が原因。
・一方、そういった社会に人間の本能が拒否反応を示しだしている。(=根源回帰)
・だからこそこれからは素直に良いと思えることに行動を移していけばいい。
・実際、人々の意識は「自分たちでなんとかしなければならない」「人や社会の役に立ちたい」という意識に向きだしている。
・これが向かう先は、消費するだけの生活から、自らが生産者となって社会の当事者として生き抜いていくことになる。
・そうなったとき、市場は自然に縮小する。逆に言えば、市場縮小に適応するためには自らが生産者となることである。
いかがでしょうか。
最後に、「人間と社会の本質とは」という大事な視点を引用しておきます。
人間と社会の存在の本質を成しているのは、生産と労働である。だから、現実の生産を捨象した「社会」は、本当の社会ではない。現実の労働を捨象した「個人」は、もはや個人ではない。しかし、近代の運動は、このような本質的な生産活動とその現実的な社会対象を、ほぼ一貫して欠落させ、代わりに無内容な自意識だけを際限なく肥大させてきた。要するに近代人は、現実の中に可能性を求めるのではなく、現実とは逆転した、自己の観念空間に自足の場を求めてきたのである。
自主管理への招待(4)「頭の中だけの自己」から「実現対象」への追求ベクトルの転換
思えば、資本主義社会とは「いかに楽をしてお金を稼ぐか」に焦点があてられていたのでしょう。その最終形態が金融に見られる「利子」や「投資」ではないでしょうか。しかし、社会の本質を形成しているのは“生産と労働”です。これを放棄した社会は社会ではなくなってしまいます。
「お金を出す」だけでは今後の社会を生き抜いていくことはできません。自らの頭で考え、答えを出し、仲間と共に乗り越えていく。みんな心の奥底ではそれを望んでいるのではないでしょうか。
今、これを読んでいる人の中で、そうは言ってもまだまだ時代はお金だ、と思っている人がいたら、気をつけてください。今の若い世代から確実に「みんなの役に立ちたい」という意識は大きくなっています。それに気づかず、自分の経験だけで若者に価値観を押し付けていると、若者を潰し、自分が生きている場すら壊してしまうかもしれません。それは若者のせいじゃない。自分の意識が時代から取り残されているせいなのかもしれないですよ。
- posted by nori at : 13:59 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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