2013年10月26日
関西を知る~東大阪編~
みなさん、東大阪という地域をご存知でしょうか?
iPS細胞の開発でノーベル賞を受賞した山中伸弥京都大学教授、同じくノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏、白色有機ELを開発した城戸淳二山形大学教授、今あげた日本を代表する偉人たちは、皆東大阪出身です。
偉人だけではありません。
日本初の回転ずしの1号店「元禄寿司」も東大阪の布施駅前で始まりました。現在でも「携帯電話ののぞき見防止フィルター」「IH調理器でも使用できる土鍋」など、東大阪発の発明品が数々生み出されています。
なぜ、東大阪から偉人や発明品が続々生まれるのか?
今回は、東大阪市に迫りたいと思います。
■東大阪の偉人たち(コチラより引用)
iPS細胞の開発でノーベル賞を受賞した山中伸弥京都大学教授(50)は、生家が東大阪市のミシンを作る町工場で、同僚の研究員から“東大阪のおっちゃん”と呼ばれる庶民的な一面も持っている。
東大阪が生んだ天才は山中教授だけではない。過去にも物理学者の江崎玲於奈氏(87)がノーベル賞を受賞している。また、1993年に白色有機ELを開発した城戸淳二山形大学教授(53)も東大阪市出身。
日本初の回転ずしの1号店「元禄寿司」も東大阪の布施駅前で始まった。現在でも「携帯電話ののぞき見防止フィルター」「IH調理器でも使用できる土鍋」など、東大阪発の発明品が数々生み出されている。
なぜ、東大阪から偉人や発明品が続々生まれるのか。
その鍵は、日本でも有数の工業地帯である東大阪にある昔ながらの「町工場」にあった。
東大阪市職員は「東大阪は工場や町工場がとても多く、お互いに切磋琢磨し個性を打ち出さないと生き残れない。山中教授の研究にも幼少のころに見ていたモノづくりの現場や職人さんたちが影響を与えているのかもしれません」と指摘する。
しかし、町工場ならば日本全国にある。大阪人の「目立ちたがり気質」と「ウケ狙い精神」も関係していそうだ。
大阪出身者はプレッシャーを感じるはずの場面を「目立ってる!」とプラス思考に変えることができる。しかも、もし失敗しても「かえって目立てた」とさらにプラスに転換できる。だから、五輪などの場面で大阪出身者は活躍できるという説がある。
町工場が持つ高い技術力と、その大阪人の気質がノーベル賞や様々な発明を次々に生み出すのかもしれない。
では次に、東大阪に町工場が形成された経緯を見ていきましょう☆
■東大阪 町工場の集積過程 (コチラより引用)
前提条件として、当地は地理的に見て、大阪市と隣接する内陸部に位置していることから、加工型の中小企業が立地するのに適していた。
明治から大正期にかけて東大阪地域には様々な産業が発達してきたが、それらはまだ幼稚な産業で、農業が地域の中心的な産業をなしていた。ところが、大正から昭和初期にかけて大阪電気鉄道(近鉄奈良線)の開通を契機にして、道路や高井田地区の耕地整理など都市基盤の整備が進められ、まず大阪市と接する布施地区(旧)から工業化がなされてきた。こうした電鉄の開通とそれに伴う電力の導入が実施されたことから、大阪市内から東大阪地域(特に布施地区)への工場の移転が増えることになり、市街化が始まり、加工型の中小企業が急増したのである。
東大阪に本格的な中小企業の高度集積がみられるようになったのは、我が国の高度経済成長期であったといえる。東大阪地域は戦火を免れたこともあって産業の復活は比較的早くから始まり、在来の地場産業が戦後の特需で活気にあふれた。そして家庭電気産業が台頭し、やがて大阪では松下、早川(シャープ)、三洋の大手家電メーカーの成長によって家電王国が築かれ、東大阪地域の中小企業ではこれらの企業向けの部品生産へと傾倒し、下請企業としての色彩を強めていった。
工業統計に準拠し東大阪市事業所の変遷を合併前(昭和42年に布施市、河内市、枚岡市が合併して東大阪市になる)から見ると、昭和37年を100とした場合、昭和40年代は130、昭和45年は198、昭和50年は307、昭和55年は306、昭和58年は325、昭和60年は322となり、27年間で3.2倍となっている。平成元年まで微減状況であったが、それ以降急速に廃業、転業、休業が増加、現在では昭和46年レベルにまで落ち込んでいる。
企業規模別にみると、 1~3人層が462、 4 ~19人層が360、20~99人層が113、100~299人層75、300人以上層85となっている。1 ~ 3 人層が昭和37年に比べて4.6倍も増えたことは、何を意味するのであろうか。さらにまた、 1 ~ 3 人層の増加は昭和40年頃から著しく、昭和45年~50年にかけてピ-クに達している。しかし、最近はこの層が激減している。
この時期に1~3 人層が激増したのは、東大阪市をめぐる交通アクセスが急速に整備され、大阪市の背後地として平野区、生野区から東大阪に流入する事業所が急増したのと、30年代の高度経済成長期に地方から集団就職で大阪に職を求めた人たちが独立した事も原因の一つである。
こうした零細層の苗床となったのが、貸工場である。東大阪市内における貸工場の増加状況とこれらの零細企業層の数は一致する。昭和40~43年にかけて、中央環状線の整備とあいまって、無数の貸工場が林立するようになった。この現象がピ-クに達するのは、昭和47年から昭和49年にかけてである。以後は地価の上昇や住工混在問題などがあり、新規の貸工場は少なくなっている。
事業所の数が減り、衰退傾向にある東大阪の町工場ですが、なんとかその歴史や技術を継承しようと、面白い試みがなされています☆
■東大阪ブランド~受け継がれる歴史とそこから生まれる優れた製品群~(コチラより引用)
◎東大阪のモノづくり
東大阪市には6,016の製造事業所(H20工業統計調査)が立地しており、協力工場と横受け・仲間受けと言われる多彩なネットワークを活用した分業システムによるモノづくりが行われています。
江戸時代より始まった東大阪市のモノづくりは、幾多の変遷を経るごとに高度な技術を蓄積し、職人気質とモノづくりへの情熱を継承してきました。現在もこの地に引き継がれた資源を活かして新たな挑戦を行うことで、新たな製品を誕生させています。
◎東大阪ブランドとは
①東大阪ブランド認定製品の製造企業は、モノづくり企業のリーディングカンパニーとして、常に魅力的な製品づくりに取り組むことや、消費者へのサービス・環境問題・地域貢献などに積極的に取り組むことを共通のポリシーに掲げ、全企業がそのポリシーに沿った事業展開を目指して展開しています。
②東大阪ブランド認定製品は、各企業が魅力的な製品づくりを行うため、試行錯誤を繰り返してオリジナル性等を高めて切磋琢磨し、企業の熱い「想い」の詰まった製品で溢れています。
さらには、使う人がより快適に、安心して喜んでもらえるよう、認定製品は常に改良が加えられて進化しています。企業間や学生との連携、また、新たな消費者のニーズに応えることを追求することから生み出される新製品など、新規性や独自性、品質・機能・性能にこだわった製品等が次々誕生しています。
③新たに追加される認定製品や進化する認定製品など、具体的な形となった製品が涌き出て溢れています。
今回は、関西を知るシリーズの第一弾として、東大阪市の町工場に着目しました♪次回は、京都あたりにいきたいと思います!乞うご期待ください☆
- posted by YAGU70 at : 19:23 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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