2013年12月27日
「大転換期を生き抜く」シリーズ第二章 『技術革新・新エネルギー需要』 2-6 『健康』を捉えなおす・・・その3
■はじめに
皆さんこんにちは。今日は、『健康』を捉えなおす 3回目の記事です。過去2回の記事では、こんなことをお話しました。
1)『健康』を捉えなおす・・・その1
論点1:実体が見えない“健康”よりも、生き方としての「規範」の方が本質的
論点2:実体が見えない“健康”は価値観念化している。そのため「人それぞれ」に分断された。
論点3:「人それぞれ」を統合するのは国家しかない。したがって、今現状、身体は国家管理されている。
2)『健康』を捉えなおす・・・その2
論点1:現状、国家管理の医療という枠組みに、身体に関する情報が「独占」されている。
論点2:ブラックボックスと化した身体は、市場拡大の材料にされている。
論点3:私たちは、価値観念としての“健康”により思考停止。本質を見直す必要がある。
問題指摘として、身体の健康を取り巻く状況を挙げるとダメなことばかりで、なんだか身も蓋もない感じです。そこで今日は、私たちはどこに向かうべきかを考え、まとめとしたいと思います。そのきっかけは、私たちの意識。思わぬところで可能性が出てきています。どんなことかというと・・・。
■最先端の意識潮流・・・「自給期待」
1)「自給期待」とは何か?
現代の意識潮流。その最先端に「自給期待」と呼べる意識があります。
1970年に豊かさが実現されて以降、過剰刺激に対する本能の拒否反応から、自然志向(ヒッピー、環境運動)、90年健康志向(スポーツジム、サプリメントブーム)、02年節約志向(エコ、もったいない)と、より本源的・根本的なものへ回帰していく潮流が形成されてきました。
例えば、健康についての潮流をみると、過剰な食事で壊した体を薬や手術でムリヤリ治したり、偏った栄養バランスをサプリメントで補うというような流れから、そもそも食べ過ぎないとか日々の食生活に気を配るというように変化してきていますし、中医学や医食同源の考え方なども注目を集めはじめています。
また、エコカーやマイ箸運動など、あたかも環境改善に向けた有効な手段のように聞こえる運動も、一時大きな動きにもなりましたが、今は下火となり、そもそも環境問題の根底にある大量生産大量消費そのものを見直していく流れが生まれています。
そして、健康や環境に限らず、経済や産業、組織、家庭のあり方など、どんな分野でも目先的な方法から脱却し、深く根本を見つめ直す意識が顕在化しています。このような意識の変化こそが「自給期待」なのです。
『自給期待と日本の近未来3 ~否定から実現へのパラダイム転換~』より
「自給期待」という言葉は一般に広まっていないと思います。が、思い当たる節は、いくつかありますよね。今現在の市場構造や医療制度、食の安全などに疑問を感じて「どうなっているのだろう?」と考え、たとえ答えがわからなくても「出来るところから改善していこう」と自然に意識が向かっている、ということです。この“自然に”というところがポイント。意識潮流というのは、そのようにして形成されるものだからです。いずれにしても、 私たちは“自然に”に「自分たちのことは自分たちで何とかしていこう」という意識に変わってきているのです。
2)「自給期待」の底流
過去40年近くかけて徐々に変化してきた自給期待の意識潮流。その心底は、今、どうなっているのでしょう?
~前略~
ごく最近まで染脳され続けてきた大衆の99%は、自分(の考え)とマスコミ(の論調)を一体視してきた。従って、マスコミの論調と異なる大衆の空気(気運)など存在しなかったし、まして強力なマスコミ支配の下で、大衆固有の空気など見える訳もなかった。
~中略~
続いて、’11年3・11原発事故以降、大衆は支配層(お上)に対して「おかしい」と感じ、不信感を募らせた。これは、マスコミが何と云おうが「原発は危ない」という大衆の判断は変わらなかったからであり、そういう意味で3・11は、史上初めて大衆がマスコミ支配から脱して主体的な判断を下した画期的な転換点となった。
~中略~
そして、’12年12月の不正選挙=民主主義を破壊したお上(支配層)の暴走を見て、遂に知的インテリ層を始めとする大衆(の3割)は、絶望感と共に「もはや、これまで」「もう、お終い」という形で、支配層(or現体制)を見限り、脱体制(その先にイメージしているのは、農村生活?or社会事業?or地方公務員?)の方向に舵を切った。
この「お上を見限った」とは「もう、お上には頼らない⇒自分たちで生きてゆく」という決断に他ならない。不正選挙を契機とするこの決断は決定的である。
これは史上初の、大衆の主体的決断であり、3・11以降の「判断」と’13年初頭の「決断」こそ、共認革命の出発点となるものである。
~中略~
私権圧力が衰弱した以上、その強制圧力によって抑圧されてきた人類本来の活力源が再生されてゆくのは、当然の理(ことわり)である。
事実、’70年以後、貧困の消滅に伴って私権追求はもはや第一の活力源ではなくなり、代わって、周りの期待に応えることによって得られる充足(安心や喜び)、すなわち共認充足こそが最大の活力源となっている。
つまり、社会の表層での統合者たちの暴走を尻目に、人々は最も深い潜在思念の地平で私権充足から共認充足へと収束先の大転換を遂げてきたのである。
この共認収束の潮流は、今後100年は続く大潮流であり、現在も私権から共認への大転換は進行中である。
その途上の’11年、3.11と統合者たちの暴走を契機として、大衆はマスコミの洗脳から脱して主体的判断を下すようになった。
そして、’12年衆院選と’13年参院選の不正集計を契機に、遂に大衆はお上を見限り始めた。そして、この大潮流は遂に「自分たちの手で作り出せる能力」あるいは「自分の頭で答えを出せる能力」への期待、云わば自給期待(自考思考)の潮流を顕在化させた。
これらの潮流が指し示す次の社会は、おそらく「自分たちで作ってゆく」共同体社会となるだろう。
その出発点となるのが、’11年3・11以降顕在化した大衆の脱洗脳の主体判断と、’12年衆院選・’13年参院選の不正集計で支配層を見限り、自分たちで頭を使って生きてゆくという大衆の主体的決断(自考思考)であろう。
『不正選挙で顕在化した「お上を見限って自給期待」とは、否定から実現へのパラダイム転換』より
過去40年かけて徐々に「自分たちのことは自分で・・・」と変化してきた意識。これを、2011年の「原発事故」と2012~13年の国政選挙で行われた疑いが濃厚な「不正集計(不正選挙)」が強力に後押ししました。一部の層が国を見限る判断を主体的にし、「自分たちで生きていく」という決断を下したのです。
不正選挙の傍証は、ネットを中心に広がっていますが、たとえ「そこまでやらないだろう」と思っている人であっても、政権を奪還した以後の与党と官僚の暴走は目に余るところでしょう。すなわち、温度差はあれ「もう、お上(国家)には頼れない」と心底で感じとっている人がどんどん増えている状況なのです。
ここで重要なのは、「自分たちで生きていく」という決断は、「どう(実現)するか」に頭を使う実現思考に貫かれているところです。そして、その先は必然的に「自分たちの手で作り出せる能力」あるいは「自分たちの頭で答えを出せる能力」につながっていきます。
私たちは、約40年をかけて、「否定と要求」の思考から、主体的に自分の頭で考え、答えを出す「実現思考」にパラダイムを逆転させたのです。
■自給期待と集団=共同体
1)引き合う人々
「もう、お上(国家)には頼れない」と見限った人々は、まず最初に「自分のことは自分で」と考えるでしょう。ところが、「自分」だけで出来ることは限られていますから、すぐにその限界に気づきます。すると、自然に現れる欠乏が「仲間」です。「どう(実現)するか」と主体的に考える人は、ネットを通じて同じ意識を持つ仲間を探し、つながりを見つけていくはずです。
たとえば、官邸の前の反原発運動。あれはデモという昔ながらの様式をとっている点で抵抗のある人もいるかもしれませんが、ネット上の呼びかけに応じて普通の人が(会社帰りなどに)集まって来る点が注目ポイントです。これは、かつて体制を否定し自らの要求を通そうとした労働運動とは根本的に異なります。そこには、大小はあれ「もう、お上(国家)には頼れない」⇒「どう(実現)するか」を考えている人たちが少なからずいるはずです。デモという様式の是非は置いておいて、沈黙していた大衆が、属している集団を超えて新たな場に「集う」。そこに可能性を求めたことが注目に値します。
2)一過性の集合から永続的な集団へ
そもそも、私たち人間は集団動物ですから、生きるために集団に収束するのは自然な流れです。上記、デモの事例も、人間としての本源的な欠乏が「集う」ことに可能性を求める端緒になっているでしょう。しかし、この新しい動機のデモ運動も、参加者の大半の人にとっては一過性の集いであることが惜しまれます。せっかく主体的に考え、同一の志をもとに参加した場が、永続しない。自給期待の意識潮流に同調している人は、この点に物足りなさを感じるはずです。これは、裏を返せば、自給期待の意識潮流の行く先は「自分たちの生きる場は自分たちでつくっていく」ところに行きつくことを意味します。
3)自集団=共同体 その統合とネットワーク構築
自給期待の意識潮流は、今後、支配階級が暴走すればするほど強まっていくはずです。したがって、互いに引き合い、永続的な集団を求める意識も高まっていくはずです。つまり、「自分たちの生きる場は自分たちでつくっていく」意識が高まっていく。これは、すなわち、共同体を求める意識の高まりに他なりません。
ただ、今現在、いきなり社会全体を共同体社会に変えることは出来ない。これは、実現の意思をもって考えればすぐにわかることです。そこで、最初の可能性となるのが、現在属する集団の共同体化です。「まず、自分の足元から変えて行くべきだ」と現実的な判断をすれば、最初に共同体化すべきは、「自分たちの生きる場(企業等)」になります。そして、そのことに気づいた人は、「どうやって集団を変え、統合していくか」や「自集団を超えたつながりをどうやって形成するか」を考え始めるでしょう。実現の意思で自考していくうち、いつの間にか、自分課題の枠はなくなり、集団課題に意識が向かう。そんな近未来像が見えてきます。
■健康=集団課題
大変前置きが長くなりました。やっと“『健康』を捉えなおす”のお話です。自給期待が、共同体の建設と統合、さらにネットワーク化という集団課題に行きついたとき、健康の捉え方も変わるはずです。
身体の健全さは、自分ひとりでは維持できません。周りとのつながり、相手との関係のなかで得られる「充足」に大きく左右されるものです。また、直接的に身体に作用する医療や食との関りだけにとどまりません。「心」を健全に保つという意味では、子供たちの教育も大切な集団課題になってくるはずです。
心身の健康状態に注目するならば、「仲間が元気」であることは、本源的な期待であり、集団の充足の原点であるわけです。したがって、集団発で考えれば、もはや「自分だけ健康」は問題になりません。皆の身体をいかにして健全に維持していくか。その実現が問題になります。このような過程で見直されるのが、集団統合のための「規範」になるでしょう。その中身として、先人の教訓が参照されることになると思います。
“『健康』を捉えなおす”の最初の記事でご紹介した荘子の養生訓はこのようなものでした。
自然則に順ずる、自然に生きる、生を忘れる、自己犠牲を否定、精神を養う道を自覚すること、純粋素朴の境地への歩み、過食は健康を損ねる、出世至上主義や過剰な欲や名声に走り過ぎない、田開之の話のように「身の内と外」をよく調和させること
これまでのお話を踏まえると、この訓は、単に個人の健康を維持するための教えにとどまらないことがわかります。集団を統合・維持するために、集団の皆が持つべき意識状態(規範)を示しているということです。
こうして考えてみると、今年一年を通じてどんどん顕在化してきた脱医者、脱薬。さらには教育の変化などの現象は、将来に向けての可能性探索だと思えてきました。近い将来実現されるであろう共同体ネットワーク、その統合規範をかたちづくるための可能性探索であり、塗り重ねということです。
来年、支配階級の暴走はさらに加速するでしょう。しかし、それと同調して自給期待の流れが加速し、自考力に対する欠乏が高まるはずです。可能性を探索し蓄えて力に変えるのは、誰でもない私たち。来年も、様々な分野にアンテナを伸ばし、力を養っていきたいと思う次第です。
以上、長々と失礼いたしました。
ここまでお読みいただいて、ありがとうございます。
来年もご期待ください。
- posted by hayabusa at : 15:46 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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