2014年03月13日
第二回 次世代戦略研究会 報告2 「徹底追求!繋がりとは何か?」《議論編》
■はじめに
皆さんこんにちは。
今日は、先回の記事に続いて、『第二回 次世代戦略研究会』の報告です。第一部「リズムセッション」の後の本格的な議論:第二部「追求し続ける」についてのお話です。
今回は、個々に発言する第一回のスタイルに加えて面白い試みからスタート。意外な出だしになります。さて、どんなものだったのでしょうか・・・。
■第二部:追求し続ける
◇グループワーク その1
第一部「リズムセッション」で、場の空気が「まわりに合わせて一つになる」方向に向かいました。個々人の意識もそのように変わっていたはずです。ここで、ひとつの“お題”が出されました。「まわりをライバルだと思って、その中で『生き残る』にはどうする?」です。
せっかく“一つになる”空気が生まれたのに、それを分断するような真逆のお題。ちょっとびっくりしました。ここからグループワークが始まります。流れは、こんな感じ。
①このお題に対して思いつく限りの答えを、個々にシートに記入する。・・・5分間
②自席周辺の6~7人がグループになって、各自の答えを持ち寄り、すり合せ。グループの答えとしてまとめる。・・・10分間
③グループの答えを代表者が発表・・・2分間/グループ
④それらをもとに「追求討議」・・・後述
まず、①のお題に対する答えを各自が考える時点で、皆、頭を悩ませました。過去の経験上、ライバルがいた人は少なくないでしょう。ところが、そんな相手と生き残りをかけて戦った経験は、多分ありません。ましてや、自分だけが生き残るためには手段を選ばない、なんて経験をした人は皆無でしょう。「う~ん、どうしよう・・・」。回答時間は5分。時間がありません。僕の場合、苦し紛れに出した答えは「気の合いそうなヤツと仲間になる」でした。
「ライバルって言ってるのに“仲間になる”なんて反則かな」と思いながらグループに分れて各自が発表。それを聞いて驚きました。6~7人のほぼ全員が似たような主旨の回答を用意していたのです。全然反則じゃありませんでした。
10分間のすり合せの後、9つのグループの代表者が答え発表をしました。それを聞いてさらに驚きました。代表的な答えは、こんな感じです。
・仲間をつくって、生産していく=生き残る
・自分ひとりでは生き残れない⇒自分を知り、相手を知り、共に生き残る⇒生きる喜びを分かち合う⇒祭りをする
・一人勝ちが目的だと最後の一人になるまで戦いが終わらない→独りでは生き残れない⇒共存する
・皆で生き残る⇒心をひらく⇒つながる・認め合う
・まわりを見て、助け合う。
なんと、全部のグループが、概して「ライバルと仲間になって生き残る」という主旨の答えを出しました。
上記の答えの中で、あるグループが述べていますが、「一人勝ち」で生き残ったとしても、結局は、独りで生きていけるわけはありません。皆が妥当な答えに行き着いたということでしょう。
◇追求討議
グループワークの回答を踏まえて追求討議に入ります。ここからは、グループではなく、各自が思ったことを発言する時間。劇場会議室の“赤・青ボタン”を羅針盤に進めました。
まず、議長から以下のような主旨の設問が出されました。「皆さんは、ライバルと共に生き残るという選択をした。仲間とのつながりが重要と判断したものと理解する。一方、普段、道行くなかですれ違う不特定多数に対して、仲間意識は全く感じない。この違いは何だろう?」
私たちは、見知らぬ人に対して唐突に仲間意識を感じることはありません。これは当然のことですから、そのことに対してわざわざ疑問を抱くことはありません。その一方で、この設問は何やら根源的なところにつながっていく可能性がある・・・。
これを受けて、色々な意見が出されました。活発な発言から抜粋すると、こんな感じ。
・状況を共有し、それに応じた課題があると共有したとき、協働して解決に向かおうとする。それが仲間意識ではないか。
・“状況”とはなにか。共有された状況を変えようとせず、受動的に(消極的に)対応してきたのが日本人ではないか。自ら状況を変えていくことが必要だ。・“ご近所さん”は仲間か?大雪の日、自動車がスタックしてしまった。そのときに、普段は挨拶程度の関係だったご近所さんが、大変献身的に助けてくれた。仲間意識には、課題意識≒危機意識が必要ではないか。
・そもそも、人は誰とでも仲間になれる。そこに利害関係があるかどうかが仲間意識につながるのではないか。
・「祭り」で共有される一体感は仲間意識ではないのか。祭りは、仲間意識の原点に通ずるのではないか。
ここまでの議論で、概して「人は誰とでも仲間になれる」「乗り越えるべき課題(≒危機意識)があれば仲間意識は生起する」「祭りで感じる仲間意識とはなんだろう?」というあたりに、全体の流れが向かっていき、固定されてきました。そして、その後の議論では「本来的には仲間なのに、仲間意識や関係が持続しないのはなぜか」に意識が向かい始めます。そこで出された意見は…
・生きる場を共有することが仲間のつながりを生む。生きる喜びを共有することが原点ではないか。
・「祭り」は(生きる喜びを共有するという意味でも)仲間意識の原点にあるのではないか。
・本来的には仲間なのに、そのように感じられない意識の問題。(仲間意識を生起させる)祭りの場が足りないのではないか。
・仲間になる場を用意しないと仲間になれない。現代的な仲間の再生が望まれる。
・人が生きるための課題、すなわち、生産と生殖を伴った集団が必要。そのような集団の中では祭りも意味を持つ。
・SNSなどで対面せずとも言葉が交わせる昨今ではある。が、本質的には、対面で言葉を交わす行為が仲間意識の持続につながるのではないか。
個人的には、「生きるための課題(=生産と生殖)を伴った集団」という言葉で全部がつながりました。そんな集団があれば、仲間意識は持続するし、苦楽を共にした間柄なら「祭り」も一過性のイベントにとどまらない大切な意味を持つと思います。
一方、本題の議論では、仲間との共存が前提だ、としたうえで難しい意見が出ました。「本来的に人類は仲間だが、相手が敵意(殺意)をもって攻めて来たらどうするのか?」というのです。言い換えれば、自分の仲間(大好きな人)を守るために相手=敵を殺傷してよいのか、ということです。これには一同「う~ん」と唸りました。誰もそのような状態を望んでいないし、ましてや、人殺しなんてしたくありません。でも、守るべきものがあるのは事実…。難しい問いかけに、なかなかスッキリする意見が出ません。…その後、しばらくして別の見方が出ました。
・理想的な状態は、争いがない状態=「世界平和」である。たとえば、ライバル企業同士では、争いと呼べるものはあるが、相手を出し抜くような側面が多分にあるだろう。そのような謀略によらず、世界平和への貢献を目的として、(協力的な)企業運営がなされることが肝要ではないか。
・競争がない状態が平和だとはいえない。同類同士が競争することは、(生物として)むしろ当然である。現在は、そのような競争がエゴ同士のぶつかり合いになっていることが問題。競争のベクトルを「皆の役に立つ」創造的な方向に向けていくことが本質ではないか。したがって、相手が敵意(殺意)をもって攻めてきたらどうする?という“究極の問い”を議論するより、闘いの土俵をどうやって変えていくか、に絞ったほうがよい。
~~ここで10分間の休憩~~
◇まとめの議論
休憩の後、気分を切り替えて、ここまで議論してきた内容をいったんまとめました。ただ、上記「敵意(殺意)をもって攻めてきた相手をどうするのか」という“究極の問い”がスッキリしていないため、引き続きそれを議論して、全体をまとめることにしました。出された意見は、こんな感じです。
・襲ってくる相手に対して、傷つけあうことを回避するためには“諭す”必要がある。そのためには「テーマ」が必要になるだろう。たとえば、あなたの目的は人間を傷つけることではない、と諭すためのテーマは「宇宙」にあるのではないか。地球以外のどこか=宇宙に仮想の敵を想定するような刷り込みを行えば、人類同士の無用な争いは回避できるのではないか。
・仲間意識とは「そこに排他性があるか」が問題ではないか。オリンピックなどの祭典(祭り)は、プラスの目的意識を持った仲間の集まりである。広がりはあっても排他性は生じない。一方で、テロなどの行為を考えると全く逆で、そこには強い排他性が存在する。
・皆が収束することが出来るプラスの目的意識とは「人類的課題」だろう。人類的課題を結集軸にして集団を形成することが肝要だ。その際“愛”や“平和”などの価値観念は、(事実を見誤るという意味で)誤った目的意識を形成させることがある。注意が必要だ。
・相手を殺傷するという行為を正当化する要因は、平たく言えば「自己中」である。そのような自己中は許さない、という圧力を形成していく必要がある。その際、話し合いの場=共認形成の場は重要(武器)である。自己中で誤った観念の形成ではなく、皆が充足する場や状況をつくっていくことが肝要だ。
◇グループワーク その2・・・気付きの固定
議論は、上記の最後の意見で終了。最後にグループワークを行いました。流れは、以下です。
①各自が、今日の一番の気付きを紙に記述・・・5分
②各自の気付きを持ち寄って、グループですり合わせ、まとめる・・・5分
③グループ毎の気付きと、次回 追求したいテーマを発表・・・2分/グループ
以下、9つのグループが出してくれた「気付き」と「次回の追求テーマ(希望)」を要約して紹介しましょう。気付き/次回の追求テーマ と記述します。
・観念の使い方が重要だと知った。それは言葉の力である/言葉の力強さは何か、感情との違い
・誰しも仲間を求め、つながりを求めている/なぜ、人は単純に考えられないのか
・人間は誰かとつながりたい生き物。(相手と自分を)同一視するのが大事/単なる充足ではなく闘争から得られる充足に向かうにはどうするか
・観念(言葉)の次元の根底に体感共認の領域がある/体感共認の領域について追求したい
・競争には2種類ある。より良いものを生み出す競争と排他性のある競争/生き物として必要な競争とは何か。どうやったら無用な競争を廃していけるのか
・仲間をつくるのは人間の本能ではないか/笑いはなぜ生まれ、どこに作用しているのか
・相手とつながるチャンスもあれば、つながれないチャンスがある/(抽象的ではなく、具体的に)協働する場づくりをどうするか
・人類は仲間だ。共に認め合う関係、それに気付く機会を増やしていく関係が重要/そのためには何が必要か
・競争によって人々が共に認め合っている。つながりあっていける/人間が共存し続けるにはどうするか
◇おわりに
第二回 次世代戦略研究会は、以上で終了しました。
上記の発表をする中で「議論が拡散ぎみだった」という意見がありました。確かにそういう場面は少なからずあったと思います。しかし、改めて思えば、レジュメのようなものを配布して議論の道筋を拘束しない、いわば“筋書きのない議論”が本会の特徴であり醍醐味と思います。そのような前提条件を鑑みれば、予想以上に本筋を見出しつつ、あるところに落ち着いた議論といえるのではないでしょうか。むしろ、ここまで気付きと継続課題が出てきたことは、驚くべきことだと思います。
相手のことを深く知らないもの同士、集中して発言者の意見に耳を傾け、背景(本当に言いたいこと)を察する。それが流れとなって、少なからぬ気付きにつながる。これは表層的な「“言葉”の力」ではないでしょう。どちらかというと「“場”の力」。プラスの目的意識で集い、答え(気付き)を共有して充足したい、という想いが「共鳴」して、「場」をかたちづくる。力と感じられるものの正体は、参加者の皆さんの想い=共認の力だと思います。
講義(公演)形式の“聞くだけ”に慣れきった私たちにとって、このような場は新鮮です。新鮮ということは、今のところそれだけ稀であるということ。なんだかもったいない気がします。このような場が広がっていくことが、仲間の広がりであり、繋がり。そして、祭り。この記事を書きながら、そんなことを考えました。
本会に参加できなかった読者の皆様、次回のご参加をお待ちしています。
長々と失礼いたしました。
- posted by kawai at : 21:39 | コメント (0件) | トラックバック (0)
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