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2015年01月15日

新聞の歴史とこれから⑥ ~庶民向け新聞の登場と皆で記事を語る場で新聞は浸透していく

皆さんのおうちでは新聞を購読されているでしょうか?もし手元にあれば改めて見てほしいことがあります。それは新聞の紙面構成です。

例えば2014年12月25日の読売新聞では全部で34ページのうち、トップニュースを扱う一面を含む総合面が3ページ、政治面が1ページ、国際ニュースが2ページ、経済面が2ページ、投書面が1ページ、ニュース解説が1ページ、スポーツ面が3ページ、文化面が1ページ、くらし・教育が3ページ、商況が1ページ、地域が2ページ、いわゆる三面記事を含む社会面が3ページ、TV番組が2ページに加えて、広告が9ページという構成になっています。広告を一部含んだページもあり、おそらく紙面の3割くらいは広告で占められているのではないでしょうか。

そして読者も毎日隅々まで紙面を読む人は少なく、例えばビジネスマンは総合、政治、経済あたりを中心に、子供はスポーツ、TV番組中心に、主婦はくらし・教育や投書面あたりを中心に読むのでしょう。このように今でこそ、新聞は幅広い読者に対応できるような構成になっていますが、始まりはそうではありませんでした。では今回も、ガジェット通信「新たに聞く~日本の新聞の歴史」を一部引用しながら、紹介していきます。

 明治4~5年頃までの新聞は難しい漢文調の文章で書かれ、旧士族を中心としたインテリ向けに政治を論じたもので、ふつうの庶民には遠い存在でした。彼らは江戸時代を通じて政治に口出しすることを厳しく禁じられてきたので、お上のすることにあれこれ言うことには慣れておらず、またその多くは漢字だらけの新聞を読むことができなかったのです。そこで、かつてのかわら版のように、市井の出来事を誰にでも読めるひらがなで書き、挿絵を入れた庶民向けの新聞が作られるようになりました。このような新聞は“小新聞(こしんぶん)”と呼ばれ、政治を論じる“大新聞”と区別されました。(中略)

時代の政論をリードした大新聞と違い、小新聞はいわゆる勧善懲悪主義的に書かれた三面記事や「つづきもの」と呼ばれた小説で庶民を惹きつけ、“読み物”として人気を得て成長していきました。(ガジェット通信より)

つまり今で言う政治、経済情報は大新聞が、文化、くらし情報は小新聞が、それぞれ扱っていて、各々購読者層が違っていたわけです。そしてその売り方や記者たちの様子も違っていました。

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 明治7年11月に創刊した『読売新聞』の第一号には、「この新聞紙は、女童(おんなこども)のおしえにとて、為になる事柄を、誰にでもわかるように書いてだすつもりでござります」と書かれています。ひらがなを多くし、漢字にはふりがなを打つことで誰にでも読める新聞をめざしました。新聞の名前となった“読売”は、まさにかわら版の時代に行われた“読み売り”にちなんだものです。実際に、小新聞はかわら版と同じように読み売り(呼び売り)をしました。売り子は新聞の名前を朱書きした竹編み籠を背負い、棒の先につけた鈴をチリンチリン鳴らしながら得意先に新聞を届けて歩き、またその途中に道行く人たちにも売って歩いたようです。(中略)

当時の代表的な小新聞は、『読売新聞』『平仮名絵入新聞』『仮名読新聞』の3紙で、「『読売』は真面目にして親切、『絵入』は派手にして愛嬌あり。而して『仮名読』は洒落にして軽妙」と評されています。記者もまた、戯作者や俳人などのいわゆる文人が多かったせいか、小新聞の編集局には商人や芸人、花柳界の人たちがにぎやかに出入りし、活気あふれる庶民のサロンになっていたようです。記者たちも客の相手をしながら原稿を書いたり、一緒に酒を飲んだりしてその雰囲気を楽しんでいたのではないでしょうか。(ガジェット通信より)

号外売り

号外売り

小新聞については、江戸時代の魚屋や豆腐屋のように売り歩いていたんです。そして編集局も、慌しく情報収集に飛び回り、記事を書いていく戦場のようなイメージにはほど遠く、サロンのような穏やかな雰囲気だったようです。それでも庶民という新しい読者層を開拓し「新聞」というものを広く認知させていくことになります。

明治5年、各種の新聞をそろえて無料で読ませる“新聞縦覧所”が横浜に開設されました。これ以降、新聞縦覧所は全国各地に作られて、人々は集まって新聞を読み、時にはその内容について語り合うようになりました。また、“新聞茶屋”という茶代と新聞見料をとる、現代のマンガ喫茶のような商売もあったようです。明治9年には『仮名読新聞』を作った仮名垣魯文が『諸新聞縦覧茶店 窟螻蟻(くつろぎ)』を開いています。諸新聞が『窟螻蟻』のオープンを取り上げたことにより、新聞縦覧所は“新時代の文化的休憩所”としてますます繁盛しました。しかし、明治30年代に入ると新聞縦覧所は怪しげな女性が客を引く場所へと変貌してしまい、代わりにミルクホールで新聞を読むことが流行しました。ミルクホールは温めた牛乳を飲ませる今の喫茶店のルーツのような場所でした。牛乳を頼めば新聞を無料で読めたので、牛乳よりも新聞を目当てに通う人も多かったようです。(ガジェット通信より)

現代でも、新聞を読むのを楽しみに喫茶店に通う人もいます。明治時代では、“新聞茶屋”や”ミルクホール”において、お茶や牛乳を片手に、記事について他の人とおしゃべりしたり、時には議論したり、さらにはこれからの社会について語り合うような風景が展開されていたでしょう。特に明治維新の激動を経たこの時代では、人々は身分制度が解体され自由になった一方で、突き放されてしまった社会との繋がりを「新聞の情報」に求めていました。

このように、情報を一人で消化するのではなく、次の行動指針になるまで皆で解釈し追究し合うことが、社会の動きを発信している新聞の最も有効な活用方法だと考えます。

そして「新聞」は庶民の新しい結集軸になり、社会に対して強い力を発揮するようになっていきます。次回はこれを扱っていきます。

 

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